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無くなった老田酒造

非常に残念な話ですが、このほど、老田酒造さんの建物が取り壊されました。


5月26日撮影 後ろの部分がかなり壊された。


重機で壊しながら、古材がどんどん運ばれていきました。


裏から見ると、かなり広い場所が広がりました。


老田酒造を支えてきた、梁の数々。年代を感じます。


7月23日現在、とうとうサラ地になってしまいました。

天保年間から、200年続いた、千虎屋の暖簾は、なくなってしまいました。
栄枯盛衰を感じます。非常に無常です。悲しいことです。

徳積善太
  

さんまちの馬つなぎ

高山の古い町並み 船坂酒造の前と原田酒造の前にこんな、鎖があります。

船坂酒造の馬つなぎ


原田酒造の馬つなぎ

これは、「馬つなぎ」といって、昔、ぼっかの人たち(=運送業)の方々が、仕事を終え、
家に帰る前に一杯やるために、ここに馬をつないで、店内に入り、お酒を召し上がったという
ためのものです。

昔の酒屋では、量り売りといって、今のように一升瓶などのビンに入っているのではなく、
その店先で好きなだけ飲むという状態でした。
いわゆる、今で言う居酒屋ですね。

きっと夕方頃になると、たくさんの人が酒屋の前で馬をつないで、情報交換をしたり
仕事の愚痴などを聞いてもらったりしたことでしょう。

徳積善太
  

ひだの酒造業について7_古川の酒造業


飛騨古川の酒造業について、現在は、渡辺酒造場→http://www.sake-hourai.co.jp/
蒲酒造場→http://www.yancha.com/の2件しかありませんが、大野郡史によると
元禄時代に、飛騨に89件あった、酒造業のうち、吉城郡古川町にあった、酒造メーカーは
次の14軒が示されています。

一 伊勢屋   高十六石九斗七升    同 郡古川郷古川町村 彦兵衛(二株之内)
一 柏 屋   高十二石九斗七升     同 郡同 郷同 村  北村屋 五 助
一 越前屋   高八石           同 郡同 郷同 村  田近屋 文三郎
一 三川屋   高三十二石        同 郡同 郷同 村  八ツ尾屋 清七郎
一 柏 屋   高八石            同 郡同 郷同 村  彦兵衛(二株之内)
一 中村屋   高八石           同 郡同 郷同 村      善 吉
一 富山屋   高十二石六斗六升七合 同 郡同 郷同 村      文 七 
一 加賀屋   高十七石六斗       同 郡同 郷同 村      與左衛門
一 野首屋   高四石八斗         同 郡同 郷同 村      與惣右衛門
一 升 屋   高六石七斗五合      同 郡同 郷同 村      平 七
一 阿波屋   高十一石八斗六升七合  同 郡同 郷同 村  忍 屋 喜右衛門
一 かな屋   高一石五升         同 郡同 郷同 村  蒲 屋 長左衛門
一 奈良屋   高六石四斗         同 郡同 郷同 村  太江屋 五郎助
一 加賀屋   高三石二斗       同 郡小鷹利郷角川村     徳兵衛


とのことです。
明治時代には、4件になり、吉城酒造株式会社、谷口酒造がありました。
吉城酒造は、現在の渡辺酒造さんの前にある後藤酒店さんのことで、後藤さんのところで
は、かつて、壱之町で製糸業も営んでおられ、会社を閉めると同時に、製糸をやっていた
場所にて酒店を営むことになり、移転をされたそうです。

谷口酒造は、渡辺酒造の下隣にあったそうですが、戦後の復興のときに廃業されました。

徳積善太
  

ひだの酒造業について6_益田郡の酒造


現在益田郡には、天領酒造http://www.tenryou.com/・高木酒造場http://www.okuhida.co.jp/
2件しかありませんが、大野郡史によると元禄時代に、飛騨に89件あった、酒造業のうち、益田郡に
あった、酒造メーカーは次の12軒が示されています。

     在 中
一 美濃屋   高十九石二斗     益田郡馬瀬郷名丸村  二村屋 平左衛門
一 北野屋   高十二石八斗     同 郡同 郷中切村      佐太郎
一 美濃屋   高九石六斗       同 郡下原郷下原町村 細江屋 甚右衛門
一 小池屋   高三石二斗       同 郡下呂郷湯島村      善左衛門
一 六厩屋   高八石          同 郡同 郷同 村      小三郎
一 赤坂屋   高二十六石七斗    同 郡萩原郷萩原町村 高坂屋 彦左衛門
一 松田屋   高十一石七斗     同 郡同 郷同 村  今井屋 治 助
一 越前屋   高八石         同 郡同 郷同 村  都竹屋 與四郎
一 鳴海屋   高二石九斗三升三合 同 郡同 郷同 村  都竹屋 治郎兵衛
一 鶴巣屋   高九石六斗       同 郡上呂郷四美村      甚左衛門
一 上木屋   高七石二斗二升七合 同 郡中呂郷跡津村      文右衛門
一 押上屋   高十六石        同 郡小坂郷小坂町村 押上屋 庄 八

先日、金山町下原の酒造業について、調べていただきました。

このうち、細江屋甚右衛門について、金山町郷土館で調べていただきました。
1.屋号は美濃屋
2.販売していた酒の銘柄は、「孝感泉」(こうかんせん)
3.販売者は 細江屋甚右衛門
4.墓は玉龍寺裏の墓地にかなり大きな墓がある。
5.場所は下原
  昭和13年頃まで旧下原役場のところに宅地があり、宅地跡を村で買い上げ役場にした。
6.その後、細江家は名古屋に移住。
7.それまで細江家は、神社に寄付をしたり、石碑を建てたりしていた。
8.一族は、高山の旦那衆との交際があった。

とのことです。
このほかについても、調べていきたいと思っていますが、情報があったら提供ください。

徳積善太
  

江戸時代の飛騨の酒造業について5 寛政4年の小前帳

寛政四年に、酒造をしていたメーカーの名前が列記されています。

これによると、酒造をしていた者による組合組織のようなものがあったのか、大きな酒造メーカーが
やっていけない小さな酒造メーカーに、酒を造って、樽を分配し、大量生産によって価格を下げた
形で、合理的にお酒を分配するシステムを造っています。

今も昔も、合理的な経営がされていたようですね。

その小前帳にある酒造メーカーの名前です。24軒が記されています。
元禄10年には89件(全飛騨)あったわけですが、大分減ってきたんでしょうね。

久保田屋弥十郎  大坂屋吉右衛門  赤田屋 新 助   赤田屋新右衛門 
千虎屋 甚 六   田中屋半右衛門  都竹屋市右衛門  中村屋 吉兵衛 
大森屋 重三郎   吉野屋 清三郎   奥田屋 小平次  佐藤屋 久兵衛 
水間屋彦右衛門  松木屋 傳兵衛   上木屋 甚四郎  加賀屋長右衛門 
土田屋小左衛門  宇野屋兵右衛門  福島屋清左衛門  長瀬屋 弥兵衛 
松本屋 茂 助   細江屋三右衛門  笠井屋 半 七   鍵 屋 與 作 
三福寺村 七蔵  同村 長右衛門  加賀屋久左衛門  谷 屋 市兵衛 
(造酒米貸借小前帳)

これが、現在では、高山に8軒、古川に2軒、神岡に1軒、萩原に1軒の12軒に
なってしまいました。


徳積善太  

江戸時代の飛騨の酒造業について4 1/2令と1/3令

天明~天保にかけて、全国的に飢饉がおきました。
その時には、1/2令、1/3令などといった、法律を出して、幕府は、酒造りを規制させました。
そのため、本来大量のお酒を造れるだけの設備を持っていた大商人でも、よほどの資金力がなければ、
設備投資が過剰になって倒産するところもあったようです。

一般的には、酒株といって、酒造の権利を持っている人なら、酒造りができたのですが、やっていけない
酒造メーカーは、その酒株を他人に譲渡したり、貸し付けたりすることで、だんだん細々とした商売に
なっていったようです。

全国的に、米の価格統制をする目的は、大坂周辺の酒造メーカーに対するものだったと思われますが、
その法律は、全国の酒造メーカーに適用されました。
天保元年12月12日に出された、1/3令では、従来の酒造のうち1/3を減石するように命ぜられました。

天領であった、飛騨では、高山御役所を通じて、酒造メーカーにも同様の法律が適用されることになり、
大坂周辺と同じような仕打ちにあった飛騨の小さな酒造場では、次第にやっていけないところもでてきた
ようです。
  

江戸時代の飛騨の酒造業について3 飢饉を救った酒粕

天明の大飢饉のとき、高山の旦那衆も民衆の救済に一役買いました。
加賀屋では、酒造りにできる酒粕を、民衆に無償で食料として提供して、飢えをしのぐために
与えています。

「天明三年 三月(ママ)十二日 白川郷凶荒の為、食料として酒の粕の施與を乞ふ、
 一筆啓上仕候、先以春暖相催し候処、御家内様弥御堅勝可被成御座目出度珍重奉存候、
前度ほうさうの節は御薬被下置、千萬忝仕合に奉存候、貴公様の御かげにて、皆々軽く相済
悦申候、扨御願申上候は、去年は国中一同不作にて、特に寺河戸と申所は、白川郷中の切詰
だけの村にて土地柄至て悪敷、作方去年中は一向実入不申、只今にては曾て給者無御座、
いまだ雪消不申、ほり根等も不相成申、餘命を難凌候仕合に付、何分申上兼候儀には御座候へ共、
酒のかす等にても被下置候様奉願上候、酒のかす等御くれ被下候得は、湯にふかし、のみ餘命を
つなき可申、何分奉願上候、こぬか等にても御くれ被下候様願上候、右の趣御慈悲の程、偏奉願上
候以上、
  二月十二日  白川寺河戸村   助左エ門
加賀屋長右衛門様               (二木長右衛門氏所蔵)」
(出典 高山市史)

徳積善太
  

江戸時代の飛騨の酒造業について2 菱垣廻船と樽廻船

米は、天下の台所「大坂」に集められます。

その米は、集りすぎれば消費をしないと、価格が暴落します。そのために米を消費させる為に
お酒造りを奨励しました。
逆に、米が不作のときは集りませんから、逆にお酒を造ることをやめさせないといけません。
通貨のほかに、米が重要な流通貨幣でしたから、幕府は米の価格統制ということが一つの
大切な仕事だったようです。

そのため、大阪の近隣の伊丹(摂津)、灘(神戸)、伏見(京都)といった酒どころでは、淀川や海運をして
米を大量に運び、お酒に変えられたのです。
その作られたお酒は、大消費地である江戸へ海運されました。

最初は、大坂から菱垣廻船で、江戸まで運搬されましたが、困った問題が起きました。
それは、江戸まで日数がかかるために、お酒が腐ってしまう事でした。
そのため、悩んだ酒造メーカーでは、酒のもとである、酒粕を濾しとって、加熱殺菌することを考えました。
これが、現在に伝わる「清酒」というものです。伊丹のメーカーが開発したそうです。

そのため、伊丹の酒造メーカーは、江戸に海運して清酒の販売で大もうけをしました。

ところが、ライバルメーカーが登場しました。それが、灘の酒造メーカーです。
菱垣廻船を仕立てるのに、大坂から近いことを利用して、大坂までの船賃をやすくしたために、それまでの
価格では、立ち行かなくなり、どんどん灘の酒へとシフトしていったのです。

また、菱垣廻船の場合、酒ダルは重いので船の一番下に積まれます。
そうすると、港に着いたときに、運び出されるのが一番最後となります。
当時、大坂から江戸までは一週間くらいで運搬されたそうですが、船底にある樽を運び出すのにそれから
また一週間もかかりました。これではせっかくのお酒も傷むものも出てきました。

おまけに、ときどき、海難事故で、船が沈む事があります。

そのときは、一番重い酒ダルは、船と共に沈んでしまいます。
上のほうに積んだ軽い荷物は、運がよければ水に浮いて、近くの海岸に流れ着く事もあります。
ところが、当時の保険では、一番下に積むものほど、保険料が高く、上のほうに積むものほど安い
保険料で済みました。

一度遭難に遭うと、荷物は海の藻屑と消えるばかりでなく、膨大な船の損害金額も負担させられるために
荷主は、この不公平を是正するように、努めました。ところが、一向に船会社の方は、保険料の制度を
変えようとしませんでした。

そのため、酒造メーカーでは、酒だけを運ぶ運送ができないかと考えるようになり、そうしてできたのが
樽廻船というものでした。
樽だけ運べば、保険料も公平になるばかりでなく、港についてからの陸揚げの時間も大幅に短縮できます。
そうして、樽廻船は、一躍脚光をあびることになったのです。

徳積善太
  

江戸時代の飛騨の酒造業1 「細江屋」について

2月の放送でもお伝えしましたが、高山には元禄時代に酒造業者が89件もあったことが確認されて
います。
高山の豪商の印鑑入れにあった、印鑑のカバーから面白いものを発見しました。


そこには、「酒肆 細江屋茂助」と書いてあります。
肆とは、うちの屋号にもありますが、店という意味です。
酒造メーカーの「細江屋」という店の、手紙をこのように印鑑入れにしたものと思われます。

この細江屋、寛政四年の役所への届けの中では、お酒を造るのに米九十九石四斗六升七合も使っていた
大きな酒屋でした。 このときに、1/3令のおかげで、酒造を減石されていますが、4件の酒造メーカーに
お酒を供給しています。

もともと、酒造業というものは、旦那衆が儲けるために、始めたと思われがちですが、実は、米の価格を
統制する為に、幕府の指導により、あちこちで作らせていたようです。

徳積善太