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飛州志図録の存在

久しぶりに飛州志の話題。

現在、高山陣屋に展示されている『飛州志図録』について、永年その所在がわからず、
探しておりましたが、高山市郷土館に存在することがわかりました。

これにより、飛州志押上本は12冊プラス1冊あることがわかりました。



その由来について、押上中将は、次のように述べておられます。

「此図は飛州志附録古蹟図なり。原本越後国三島郡深方村高頭仁兵衛の所蔵にして
飛州志と共に東京の古書肆に得たりと言う、想うに長谷川家由緒なる向ヶ岡宗實院
より出たるものか今富田禮彦(號位峯)を煩わし影写して余が去年長谷川家の後裔
より得たる飛州志原本付属して完本とす

大正五年二月  陸軍中将 押上森蔵 印

因に記す高頭仁兵衛は飛騨山嶽の研究家なり
原本の借覧并に影写、飛州志の購入皆な住広造
の斡旋なり
(注:住広造(高山中央印刷)は飛騨山岳会初代会長)」

徳積善太
  

秩父と高山の関係?_その4秩父夜祭り

そして、この妙見様をお祀りする秩父神社の例大祭が、「秩父夜祭り」です。

高山では、祇園祭、秩父祭り、高山祭り・・・「日本三大美祭」と言われています。

秩父では、祇園祭、秩父祭り、高山祭り・・・「日本三大曳山祭」と言われています。

秩父祭り会館におじゃましました。



そこの看板にも「飛騨高山」の文字が書かれています。

では、いったい誰が、「三大曳き山祭り」であるとつけたのでしょう。

会館の職員の方にお尋ねしましたが、「昔からそう言われています」といわれるだけで
誰がつけたかご存じないとのこと。

江戸時代、祇園祭は曳き山で有名ですが、神田祭などもあったはずなのに、三大とつくと
いうことは、誰か秩父と高山に関わりのあった代官がそうつけたのではと思いました。

秩父祭りの曳き山は2つのタイプがあります。

秩父祭りの屋台


秩父祭りの笠鉾

下郷町内と中近町内が笠鉾。宮地町内、本町町内、中町町内、上町町内が屋台を
所有していて、全部で6つの屋台と笠鉾があります。
下郷と中近の2つは、本来笠鉾ですが、伝染などのために曳けなくなり、現在は
笠鉾の部分だけを切り取って、屋形だけで曳いているそうです。

関東の山深い盆地にこんな曳山の文化が残っているというのは、まさに高山祭り
と同じような印象を与えたものでしょう。

徳積善太
  

秩父と高山の関係?_その3秩父神社の妙見様

秩父神社のご祭神は、「妙見様」という神様も合祀されています。

これは、そもそも北斗七星のことですので、星祭りの異名があります。

この妙見様をお祀りするお堂「妙見堂」が高山の大隆寺にあることをご存じですか?

毎年、節分の折りに、妙見堂でお祀りが開かれ、読経と法要が営まれています。


そこでは、星占いのような占いを配られています。


そのご祭神が、秩父神社と関係があったということは、今までどなたもご存じない
ことだと思います。

しかも、中興された大隆寺にそれが伝わっていると言うことは、何か関係があるように
思われませんでしょうか。

徳積善太  

秩父と高山の関係?_その2秩父神社

秩父にせっかく行ったので、秩父神社にお参りをしました。

そこの縁起には下記のようなことが書かれています。

「御祭神
八意思兼命(政治 学問 工業 開運の祖神)
知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)
天之御中主神(北辰妙見と同神格)
秩父宮雍仁親王(先帝昭和天皇の弟宮)

御由緒
当社のご創建は平安初期の典籍「先代旧事記ー国造本紀ー」
によれば、人皇第十代の崇神天皇の時代に、八意思兼命を祖と
する知知夫彦命が、知知夫国の初代国造に任命され大神を祀っ
たことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知
夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶二年(878)には神階正四位下に昇叙され、延長五年(
927)に編纂された『延喜式』にも掲載されるなど、関東で
も屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は
関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く
「秩父妙見宮」として隆盛を極めましたが、明治の神仏分離令
により秩父神社の旧社名に復しました。
現在の権現造りのご社殿は、天正二十年(1592)に徳川家康
公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めて
いることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。
また、毎年十二月三日に行われる例大祭は「秩父夜祭り」とし
て国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭り、飛騨
高山祭りと共に日本三大曳山祭りに数えられ全国に知られてい
ます。
古くこのお祭りは妙見祭とも呼ばれ、妙見様の星祭りとして
親しまれてきました。妙見様のご利益は、国土守護、除災招福
貧窮を救い、一切の諸願を満たしてくれる天女のような神様で
あり、庶民の様々な願いを叶えてくれるご神徳があるとされて
います。これにちなんで、当社に古くから伝わる妙見様の御姿
を記した掛軸とお守りを奉製致しました。霊験あらたかな妙見
様のご加護により、皆様に幸せが訪れますことをお祈り申し上
げておおります。」

遠く離れたこの地で、飛騨高山の文字を見るとは思いませんでした。

徳積善太  

秩父と高山の関係?_その1廣見寺と大而和尚

今回、秩父に行ったのは、高山の大隆寺の中興の祖が秩父の廣見寺 大而僧正という方
であるということからです。
大隆寺のご住職 中井さんが講演されると言うことで、総代さんについて行きました。

秩父の廣見寺

講演される中井師


高山の大隆寺に現存する大而僧正の肖像画

なんと不思議なことに、当時中興されたのが、大隆寺だけではなくて、飛騨の曹洞宗
の寺院が多いんです。
資料によりますと大而僧正による正受戒を受けた年が次のようになっています。
・明和8年(1771)古川 林昌寺
・明和8年(1771)高山 雲龍寺
・明和9年(1771)下呂 禅昌寺
・安永4年(1775)高山 素玄寺
・安永5年(1776)古川 林昌寺
・天明2年(1782)高山 大隆寺

大而僧正が、生涯行った受戒64回のうち、上記6回が飛騨の寺院です。
また、この放火には、上州、越後、武州、下野、美濃、三州、江戸、安房となって
いますから、飛騨の寺院が多いことがわかります。

どうして、飛騨の寺院とゆかりがあるのか。誰がこの曹洞宗寺院の荒廃を大而僧正に
伝えたか、疑問の残るところですが、おそらく飛州志を書いた、長谷川忠崇代官では
ないかと思います。
安永、天明といえば、飛騨は大原代官がきっかけとなって起こった大原騒動の年度で
そのころの飛騨の政治情勢は非常に混迷を極めていました。

一方で、こうした寺院の再興がはかられたと言うことは、注目すべきことです。

今後、こういったことの解明を進めていきたいと思います。

徳積善太





  

飛州志について2

この飛州志を飛騨に持ち込んだ人は、田中屋半十郎英積という人で、高山の一之町に店があり
(現在の高山市上一之町、安川通り最北角より南に2軒目あたりにあった)、材木商であった。
彼の墓は、高山別院の裏にあります。


彼は、全国に販路を拡大し、その支店は、名古屋の白鳥、江戸の深川、群馬にもあったという。

田中大秀が、文化5年(1808)4月に、江戸に赴き、佐々木三蔵の家で、この「飛州志」を閲覧し、
その存在について、田中半十郎英積に、話したのでしょう、文政元年(1818)8月1日に、半十郎は
官庫より、「飛州志」を借りてこれを写し、舘柳湾に題簽(だいせん)並びに跋を乞いました。
こうして「飛州志」が、初めて飛騨国に伝わりました。

徳積善太
  

飛州志について1

飛州志という書物を知っていますか?


今回、「金森展」でも展示させていただきましたが、享保年間に、将軍 徳川吉宗の命令で
当時、高山の代官だった長谷川忠崇(ただたか。ただむねとも)という人が著したものとされて
います。


長谷川忠崇

岐阜新聞社が刊行した「飛州志」には、この長谷川代官について、次のように記されています。

「第七代飛騨国代官。享保13年(1728)8月19日代官となり、同年10月着任する。第六代長谷川忠国
までの代官は江戸に常駐し、毎年秋、高山に来て年貢、民訴を処理してきたが、忠崇からはこれを
あらためて陣屋に在勤することになった。

着任の年、三郡山絵図を作成し、同年年貢を増して四ツ六分五厘とし、10ケ年の定免と定めた。
享保14年3月8日、高山町に大火が起こり、九百数十戸を焼き尽くしたため、年賦金1800両を
貸し出して、家の復旧にあてた。

享保20年、年貢金納になるため、石代聞合法を始めるなどがある。
忠崇が、飛州志の編集に着手したのは、徳川吉宗の命によるといわれている。飛騨代官という
公務のかたわら、子供の忠雄、一徳、忠知の協力を得て、四年有余で脱稿したが、吉宗の死去
にあい、やがて自分も病死したので、死後70年を経て、文政12年(1829)一徳の孫一陽が校訂、
浄書をし、幕府に献納した。

忠崇は、治世者であるとともに博識であり、俳歌を好み、樗州(ちょしゅう)と号した。また、千家流の
茶道にも通じた人であった。
延享二年(1745)職を辞し、安永5年(1776)10月13日没。」

となっています。

徳積善太