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江戸時代の飛騨の酒造業について2 菱垣廻船と樽廻船

米は、天下の台所「大坂」に集められます。

その米は、集りすぎれば消費をしないと、価格が暴落します。そのために米を消費させる為に
お酒造りを奨励しました。
逆に、米が不作のときは集りませんから、逆にお酒を造ることをやめさせないといけません。
通貨のほかに、米が重要な流通貨幣でしたから、幕府は米の価格統制ということが一つの
大切な仕事だったようです。

そのため、大阪の近隣の伊丹(摂津)、灘(神戸)、伏見(京都)といった酒どころでは、淀川や海運をして
米を大量に運び、お酒に変えられたのです。
その作られたお酒は、大消費地である江戸へ海運されました。
江戸時代の飛騨の酒造業について2 菱垣廻船と樽廻船
最初は、大坂から菱垣廻船で、江戸まで運搬されましたが、困った問題が起きました。
それは、江戸まで日数がかかるために、お酒が腐ってしまう事でした。
そのため、悩んだ酒造メーカーでは、酒のもとである、酒粕を濾しとって、加熱殺菌することを考えました。
これが、現在に伝わる「清酒」というものです。伊丹のメーカーが開発したそうです。

そのため、伊丹の酒造メーカーは、江戸に海運して清酒の販売で大もうけをしました。

ところが、ライバルメーカーが登場しました。それが、灘の酒造メーカーです。
菱垣廻船を仕立てるのに、大坂から近いことを利用して、大坂までの船賃をやすくしたために、それまでの
価格では、立ち行かなくなり、どんどん灘の酒へとシフトしていったのです。

また、菱垣廻船の場合、酒ダルは重いので船の一番下に積まれます。
そうすると、港に着いたときに、運び出されるのが一番最後となります。
当時、大坂から江戸までは一週間くらいで運搬されたそうですが、船底にある樽を運び出すのにそれから
また一週間もかかりました。これではせっかくのお酒も傷むものも出てきました。

おまけに、ときどき、海難事故で、船が沈む事があります。

そのときは、一番重い酒ダルは、船と共に沈んでしまいます。
上のほうに積んだ軽い荷物は、運がよければ水に浮いて、近くの海岸に流れ着く事もあります。
ところが、当時の保険では、一番下に積むものほど、保険料が高く、上のほうに積むものほど安い
保険料で済みました。

一度遭難に遭うと、荷物は海の藻屑と消えるばかりでなく、膨大な船の損害金額も負担させられるために
荷主は、この不公平を是正するように、努めました。ところが、一向に船会社の方は、保険料の制度を
変えようとしませんでした。

そのため、酒造メーカーでは、酒だけを運ぶ運送ができないかと考えるようになり、そうしてできたのが
樽廻船というものでした。
樽だけ運べば、保険料も公平になるばかりでなく、港についてからの陸揚げの時間も大幅に短縮できます。
そうして、樽廻船は、一躍脚光をあびることになったのです。

徳積善太
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