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山城跡を巡るツアーの御案内
故郷の歴史を学ぶ山城跡ツアーを下記により実施されますのでご案内します。
1.日時:10月30日(日)
2.訪問地 野口城跡、池の山城跡、袈裟丸城跡
3.ガイド 郷土史家 大門宏治氏(飛騨に誇りをもとう会)
4.参加費 昼食弁当、すぱーふる入浴券付き 3500円
5.最低催行人数 10名
6.主催:ホテル季古里ツアー部
共催:(社)飛騨市観光協会
申し込み先: 0577-74-3311 ホテル季古里
※お申込みいただいた方に、パンフ、行程表など詳細資料が送られます。
野口城跡(古川町野口)

池の山城跡(古川町中野)

袈裟丸城跡(古川町袈裟丸)

徳積善太
1.日時:10月30日(日)
2.訪問地 野口城跡、池の山城跡、袈裟丸城跡
3.ガイド 郷土史家 大門宏治氏(飛騨に誇りをもとう会)
4.参加費 昼食弁当、すぱーふる入浴券付き 3500円
5.最低催行人数 10名
6.主催:ホテル季古里ツアー部
共催:(社)飛騨市観光協会
申し込み先: 0577-74-3311 ホテル季古里
※お申込みいただいた方に、パンフ、行程表など詳細資料が送られます。
野口城跡(古川町野口)
池の山城跡(古川町中野)
袈裟丸城跡(古川町袈裟丸)
徳積善太
白川郷の荻町城3(完)
昨日、荻町城について、以前訪問した時の疑問について掲示しましたが、今日は、白川郷まで
行ってまいりました。
城郭研究家のDさん、そして専門家のSさんと一緒に、現場に行きました。
白川郷のKさんにお願いして、問題の山に連れて行ってもらいました。
まず、現地での説明。
この山には、城があったという伝承はなく、ふもとの土地も谷に水がなく、江戸時代以降に天生峠
からの谷から水を引いて、田んぼを作ったとのこと。
その説明の後、近くの公園まで車で行けるというので、そこへ向かいました。

車が上がれる林道を少し上がった所で、この道がクランクしてほぼ180度に曲がっている場所があり、
そこをあがると公園になっていました。この場所からは、後ろの牛首峠への街道があった道だということで、
細い尾根道が広がっていました。

また、昭和期には、トロッコ鉄道で、運材が行われていたということで、トロッコ軌道の跡と思われる
道のようなところが残っていました。
尾根道が続くのですが、結構細い尾根道で、道なき道を進んでいきました。

木は、しばらく伐られていなかったようで、樹齢100年を超えると思われる松が厳しい自然に対応して
このような太い、複雑な根を張っていました。

とにかく尾根道が細い。もしこの山の上に城があったとすれば、こういった麓の部分にも何らかの形跡
があるのですが、そういった城郭の一部と思われる場所が見当たりません。

先日報告した山は、城の場所としては立地条件がいいのですが、山の形状が城とするにはふさわしくない
そういう山であることがわかりました。

同行したSさんから「こういった場所が、城でないということを確認する事も城探しの一つの行動です。
決して、今回の行動は、マイナスではない。明日につながる活動ですよ。」と励ましていただきました。
やはり、地形から判断しても、その山の形状が城にふさわしいものとなるかどうか、立地的なもの
だけではなくて、山の形。縄張り。水の確保。などいろんな条件がそろって初めて城と言うものになる
ということを改めて勉強させていただきました。
ご協力いただきました皆さんには、ありがとうございました。
徳積善太
行ってまいりました。
城郭研究家のDさん、そして専門家のSさんと一緒に、現場に行きました。
白川郷のKさんにお願いして、問題の山に連れて行ってもらいました。
まず、現地での説明。
この山には、城があったという伝承はなく、ふもとの土地も谷に水がなく、江戸時代以降に天生峠
からの谷から水を引いて、田んぼを作ったとのこと。
その説明の後、近くの公園まで車で行けるというので、そこへ向かいました。

車が上がれる林道を少し上がった所で、この道がクランクしてほぼ180度に曲がっている場所があり、
そこをあがると公園になっていました。この場所からは、後ろの牛首峠への街道があった道だということで、
細い尾根道が広がっていました。

また、昭和期には、トロッコ鉄道で、運材が行われていたということで、トロッコ軌道の跡と思われる
道のようなところが残っていました。
尾根道が続くのですが、結構細い尾根道で、道なき道を進んでいきました。

木は、しばらく伐られていなかったようで、樹齢100年を超えると思われる松が厳しい自然に対応して
このような太い、複雑な根を張っていました。

とにかく尾根道が細い。もしこの山の上に城があったとすれば、こういった麓の部分にも何らかの形跡
があるのですが、そういった城郭の一部と思われる場所が見当たりません。

先日報告した山は、城の場所としては立地条件がいいのですが、山の形状が城とするにはふさわしくない
そういう山であることがわかりました。

同行したSさんから「こういった場所が、城でないということを確認する事も城探しの一つの行動です。
決して、今回の行動は、マイナスではない。明日につながる活動ですよ。」と励ましていただきました。
やはり、地形から判断しても、その山の形状が城にふさわしいものとなるかどうか、立地的なもの
だけではなくて、山の形。縄張り。水の確保。などいろんな条件がそろって初めて城と言うものになる
ということを改めて勉強させていただきました。
ご協力いただきました皆さんには、ありがとうございました。
徳積善太
白川郷の荻町城3(完)
昨日、荻町城について、以前訪問した時の疑問について掲示しましたが、今日は、白川郷まで
行ってまいりました。
城郭研究家のDさん、そして専門家のSさんと一緒に、現場に行きました。
白川郷のKさんにお願いして、問題の山に連れて行ってもらいました。
まず、現地での説明。
この山には、城があったという伝承はなく、ふもとの土地も谷に水がなく、江戸時代以降に天生峠
からの谷から水を引いて、田んぼを作ったとのこと。
その説明の後、近くの公園まで車で行けるというので、そこへ向かいました。

車が上がれる林道を少し上がった所で、この道がクランクしてほぼ180度に曲がっている場所があり、
そこをあがると公園になっていました。この場所からは、後ろの牛首峠への街道があった道だということで、
細い尾根道が広がっていました。

また、昭和期には、トロッコ鉄道で、運材が行われていたということで、トロッコ軌道の跡と思われる
道のようなところが残っていました。
尾根道が続くのですが、結構細い尾根道で、道なき道を進んでいきました。

木は、しばらく伐られていなかったようで、樹齢100年を超えると思われる松が厳しい自然に対応して
このような太い、複雑な根を張っていました。

とにかく尾根道が細い。もしこの山の上に城があったとすれば、こういった麓の部分にも何らかの形跡
があるのですが、そういった城郭の一部と思われる場所が見当たりません。

先日報告した山は、城の場所としては立地条件がいいのですが、山の形状が城とするにはふさわしくない
そういう山であることがわかりました。

同行したSさんから「こういった場所が、城でないということを確認する事も城探しの一つの行動です。
決して、今回の行動は、マイナスではない。明日につながる活動ですよ。」と励ましていただきました。
やはり、地形から判断しても、その山の形状が城にふさわしいものとなるかどうか、立地的なもの
だけではなくて、山の形。縄張り。水の確保。などいろんな条件がそろって初めて城と言うものになる
ということを改めて勉強させていただきました。
ご協力いただきました皆さんには、ありがとうございました。
徳積善太
行ってまいりました。
城郭研究家のDさん、そして専門家のSさんと一緒に、現場に行きました。
白川郷のKさんにお願いして、問題の山に連れて行ってもらいました。
まず、現地での説明。
この山には、城があったという伝承はなく、ふもとの土地も谷に水がなく、江戸時代以降に天生峠
からの谷から水を引いて、田んぼを作ったとのこと。
その説明の後、近くの公園まで車で行けるというので、そこへ向かいました。

車が上がれる林道を少し上がった所で、この道がクランクしてほぼ180度に曲がっている場所があり、
そこをあがると公園になっていました。この場所からは、後ろの牛首峠への街道があった道だということで、
細い尾根道が広がっていました。

また、昭和期には、トロッコ鉄道で、運材が行われていたということで、トロッコ軌道の跡と思われる
道のようなところが残っていました。
尾根道が続くのですが、結構細い尾根道で、道なき道を進んでいきました。

木は、しばらく伐られていなかったようで、樹齢100年を超えると思われる松が厳しい自然に対応して
このような太い、複雑な根を張っていました。

とにかく尾根道が細い。もしこの山の上に城があったとすれば、こういった麓の部分にも何らかの形跡
があるのですが、そういった城郭の一部と思われる場所が見当たりません。

先日報告した山は、城の場所としては立地条件がいいのですが、山の形状が城とするにはふさわしくない
そういう山であることがわかりました。

同行したSさんから「こういった場所が、城でないということを確認する事も城探しの一つの行動です。
決して、今回の行動は、マイナスではない。明日につながる活動ですよ。」と励ましていただきました。
やはり、地形から判断しても、その山の形状が城にふさわしいものとなるかどうか、立地的なもの
だけではなくて、山の形。縄張り。水の確保。などいろんな条件がそろって初めて城と言うものになる
ということを改めて勉強させていただきました。
ご協力いただきました皆さんには、ありがとうございました。
徳積善太
白川郷の荻町城2
先日、荻町城を対岸から見て、これは城でないということを確信しました。
といますのは、庄川をはさんで反対側のところに、台地があります。
この台地はかつて、「寺尾」という場所で、嘉念坊善俊の道場があった所とされています。

その寺尾の台地から見ると、荻町城が平行線状に見えます。
反対側からこのようにはっきりと城の動きがわかりやすい場所に、城など築くでしょうか?
私は、この場所は、ちょっとおかしいと思いました。

もう少し離れてみると、後ろに山がそびえ、この奥が天生峠となっています。
稜線が後ろの山につながっており、もしここに城があったとすると、背後から攻められれば一発でこの城は
落ちます。
よく見ると、左手の方に小さな小山があることに気づきました。
そこで、もう一度、例の荻町城跡と言われる展望台に行ってみると。。。。。

荻町城跡と言われている場所の背後にもうひとつ攻めにくそうな山が。
ここでしたら、上に城を築いても、背後が途切れているために、なかなか攻めにくそうです。
しかも、山自体が独立しており、ここだったら背後は攻めにくいし、左手の方は台地になっていて庄川へ切り立った
崖となって落ちているし、私が領主なら城を築くのはこっちだと思いました。
どなたか専門家に見てもらいたいですが、荻町城跡の後ろの山は、山が独立していて、しかも西側が小さな台地と
なっており、庄川にまっすぐ降りる崖になっています。これでしたら、西側は断崖絶壁。その上に武家屋敷を整備し、
背後の山は、城跡として上に廓を設ければ、立派な城郭が完成します。
ひょっとしたら、荻町城と言うのは、こっちがわにあって、現在、荻町城と言われている場所は、その出城だったのでは
という疑問がわきました。
どなたが、現在の展望台を荻町城跡とされたかわかりませんが、私が見るに、荻町城跡はその後ではないかと
思いました。
皆さんの御見解をお待ちしております。
徳積善太
といますのは、庄川をはさんで反対側のところに、台地があります。
この台地はかつて、「寺尾」という場所で、嘉念坊善俊の道場があった所とされています。

その寺尾の台地から見ると、荻町城が平行線状に見えます。
反対側からこのようにはっきりと城の動きがわかりやすい場所に、城など築くでしょうか?
私は、この場所は、ちょっとおかしいと思いました。

もう少し離れてみると、後ろに山がそびえ、この奥が天生峠となっています。
稜線が後ろの山につながっており、もしここに城があったとすると、背後から攻められれば一発でこの城は
落ちます。
よく見ると、左手の方に小さな小山があることに気づきました。
そこで、もう一度、例の荻町城跡と言われる展望台に行ってみると。。。。。

荻町城跡と言われている場所の背後にもうひとつ攻めにくそうな山が。
ここでしたら、上に城を築いても、背後が途切れているために、なかなか攻めにくそうです。
しかも、山自体が独立しており、ここだったら背後は攻めにくいし、左手の方は台地になっていて庄川へ切り立った
崖となって落ちているし、私が領主なら城を築くのはこっちだと思いました。
どなたか専門家に見てもらいたいですが、荻町城跡の後ろの山は、山が独立していて、しかも西側が小さな台地と
なっており、庄川にまっすぐ降りる崖になっています。これでしたら、西側は断崖絶壁。その上に武家屋敷を整備し、
背後の山は、城跡として上に廓を設ければ、立派な城郭が完成します。
ひょっとしたら、荻町城と言うのは、こっちがわにあって、現在、荻町城と言われている場所は、その出城だったのでは
という疑問がわきました。
どなたが、現在の展望台を荻町城跡とされたかわかりませんが、私が見るに、荻町城跡はその後ではないかと
思いました。
皆さんの御見解をお待ちしております。
徳積善太
白川郷の荻町城1
白川郷にもかつて、城跡と呼ばれる場所がありました。
荻町の現在の展望台と呼ばれているところは、中世の城跡であるという伝承があり、かつてここに
内ヶ島氏の一族で、山下氏と言う人の居城となっていたとの伝説があります。

現在、そこには、荻町城跡と言う標柱が建てられています。

伝櫓跡と呼ばれている場所。
え、伝と言うのはどういうことなのか、大変疑問を持ちました。

荻町城本丸跡と呼ばれる場所は、少し広い公園になっています。
ところが、後ろのドライブインのあるところの方が、高台になっており、おまけに、稜線続きです。
「こんなに防御のしにくい場所にはたして本丸を築いたのかな」という疑問が常に頭にありました。
でも、かつての人が、調査してここを城跡とされたということが、こういった看板の設置になっているのかなと
思っておりました。

いわゆる城跡と呼ばれている場所には、お堂が設置されていました。

城跡と呼ばれている場所は、現在は公園として整備されています。

城跡の背後には、堀切と思えますが、不思議なのは、廓と言われている場所より、後ろの駐車場になっている
場所の方が高いこと。どうもそういった疑問が解けませんでした。

確かにここは、眺めが非常によく麓の荻町の町並みが一望できます。
だから、展望台として指定されているんですね。
つづく
徳積善太
荻町の現在の展望台と呼ばれているところは、中世の城跡であるという伝承があり、かつてここに
内ヶ島氏の一族で、山下氏と言う人の居城となっていたとの伝説があります。

現在、そこには、荻町城跡と言う標柱が建てられています。

伝櫓跡と呼ばれている場所。
え、伝と言うのはどういうことなのか、大変疑問を持ちました。

荻町城本丸跡と呼ばれる場所は、少し広い公園になっています。
ところが、後ろのドライブインのあるところの方が、高台になっており、おまけに、稜線続きです。
「こんなに防御のしにくい場所にはたして本丸を築いたのかな」という疑問が常に頭にありました。
でも、かつての人が、調査してここを城跡とされたということが、こういった看板の設置になっているのかなと
思っておりました。

いわゆる城跡と呼ばれている場所には、お堂が設置されていました。

城跡と呼ばれている場所は、現在は公園として整備されています。

城跡の背後には、堀切と思えますが、不思議なのは、廓と言われている場所より、後ろの駐車場になっている
場所の方が高いこと。どうもそういった疑問が解けませんでした。

確かにここは、眺めが非常によく麓の荻町の町並みが一望できます。
だから、展望台として指定されているんですね。
つづく
徳積善太
小鷹利城跡1
先月は、小島城跡について、お知らせしましたが、今週は、小鷹利城跡について、
お知らせしたいと思います。
いずれも、6月1日に行われた、古城めぐりツアーの記録です。
さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。

地理的には、古川町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。


ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。

黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。

1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。

徳積善太
お知らせしたいと思います。
いずれも、6月1日に行われた、古城めぐりツアーの記録です。
さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。
地理的には、古川町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。
黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。
1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。
徳積善太