(5月25日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、五月も第4週となりました。この頃、天候が何かおかしいですね。高山で4月の末に寒い日が
何日か続いていましたが、実はあのとき、益田郡から南の地方では、霜が降りたそうです。
今、八十八夜で新茶のシーズンですが、今年は、丁度収穫の前に霜にやられてしまったそうで、
新茶があまりできなかったようです。
お茶屋さんには、かなりの打撃ですが、これは、白川茶に限っての話で、現在、高山に入ってきて
いるお茶は、静岡のお茶もあるようですから、そちらの新茶は大丈夫だったようです。
また、GW過ぎから、今度は、高山でも30度を越す真夏日がありました。高山市では異常乾燥の
ために、毎日火災警報が発令されていましたが、ちょっと降水量が少ないですね。
これから高山周辺では田植えの時期になろうかというときですが、水不足と言うことはあまり懸念
されないものの、これが江戸時代ですと、旱魃の心配があったことと思います。
どうぞ、今年も作物の実りが十分にあることを祈りたいものです。
さて、この放送ですが、旱魃などの災害がなければ、毎週お届けしていきたいと思います。
改めて、放送時間をお知らせしますと、月曜夜7時半からと土曜日の午前10時半からの放送
です。どうぞ、今後ともご支援をいただきますよう、お願い申上げます。
さて、本日の放送に入りましょう。今日の放送は、先週予告をしましたように、「谷口与鹿の話
パート6」について、お話したいと思います。先月終りにパート5としてお話した内容を振り返って
見ましょう。
与鹿は、高山の麒麟台組の彫刻に携わり、唐子群遊という彫刻を完成させました。その次に
作ったのが、恵比寿台という屋台でした。屋台の設計から、彫刻に至るまで、かなりの部分を
谷口与鹿が設計したことになっています。その二台の屋台が建造された同時期に作られたのが、
東山白山神社の太鼓枠と、山王祭神楽台の龍の彫刻だったというお話をしました。

東山白山神社の太鼓枠については、現在も宝橋のところのお旅所蔵にありますというお話をしました
が、今月初めのお祭りの時に、ご覧になっていただけたでしょうか。
神楽台については、彫刻と屋台の持つ意味についてお話しましたが、今日は、創建年代のなぞに
ついて先ずお話したいと思います。
山王祭の神楽台の屋台蔵のところに、屋台の案内看板が2つあります。


そこには、嘉永7年大改造。明治年間大修理と書かれています。嘉永7年のところには、大工:谷口権守
彫刻:谷口与鹿 塗り師:藤田屋五右衛門 などとなっており、明治年間のところには、塗り師:田近卯之助
金具:井上芳之助となっています。
もう一つの看板には、嘉永7年 大工:谷口延寿 彫刻:谷口与鹿 明治改修には、大工:村山民次郎
塗り師:田近卯之助 金具:井上芳之助となっています。
2つの看板で記述が違うので、以前から不思議に思っていました。
平成19年の匠展の調査の時に、村山家から神楽台絵図が出てきました。それを見て、わかったことは、
その絵図が神楽台の明治改修以前のものだったことです。現在のものと違うところは、車輪の上の
獅子頭で、現在は、獅子の彫刻が取り付けられていますが、それまでのものには、獅子の頭の彫刻が
取り付けられていました。

ちょうど、前の年に神楽台の屋台蔵にある備品を全部調べてみたのですが、車輪に取り付けてあったと
いわれる獅子頭の彫刻が4つ残されていました。最初は、何に使われていたのかわかりませんでしたが、
この絵図ではっきりしました。

さて、話を元に戻しますが、どうも、神楽台の設計は、谷口与鹿のお父さんの谷口権守が行いましたが、
この人は、文化四年に亡くなります。その後をお兄さんの延恭さんが仕事を引き継ぎ、屋台の完成を
目指しますが、当時の神楽台は、太平楽台との分裂騒動があって、屋台建造の資金が思うように集らず、
少しのお金をためては、部分的に部品を買い足していったようです。
天保11年には、与鹿の師匠である中川吉兵衛がボタンの彫刻を納めています。これは箱書きが残って
いますので確認できました。
与鹿も、依頼のあった仕事だけを部分的にこなしていきますが、結局は全部を造る前に、嘉永4年に
高山からいなくなります。彼は、京都を経て伊丹に行きます。そのお話は後半の中でしたいと思います。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「野口五郎で 私鉄沿線」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、谷口与鹿パート6と題してお届けしています。
さて、最終的に、嘉永7年になって、ある程度の部品がそろったために、屋台建造がなされました。
ただ、このときは、まだ部分的な完成だったために、最終的には、嘉永7年から41年後の明治25年
になって、村山民次郎を棟梁として最初の設計図どおりの屋台が完成したものと思われます。
ですから、あとから追加された彫刻は、民次郎の長男の村山群鳳が仕上げたものと思われます。
これについては、さらなる史料の研究が必要です。
ちょうど、組内の協議で、それまで87年間分裂していた神楽台組と太平楽台組が合併し、明治26年に
最終的な完成を見た神楽台のことを組内の人が二重の喜びとして歌を残しています。
少し御紹介しますと、
「阿か祢さす 日枝の祭りの 御神楽と 名も高山の 誉れなりけり」
「笛太鼓 きくにつけても神津代の 磐戸のむかし 思ほゆるかな」
「鼓うち 笛吹きならし いさましく 是そ三国の 神いさめなふる」
というような歌が、神楽泰組の代表の方々によって数首詠まれています。
さて、与鹿は、この神楽台のほかにも、嘉永2年ごろには下三之町中組の仙人台の修復、
同じ頃に本町二丁目の応龍台なども作ったといわれておりますが、どちらの屋台も明治8年の
火災で焼失しており、史料が残っていません。特に、仙人台は、3度も火災に遭っていますので、
現在残っている屋台は、そのつど修復されたものです。
屋台組の皆さんも、何とか以前の形に修復しようと史料を探しておられますが、全く残っておらず、
もし情報があったら知りたいとおっしゃっていました。
こういう屋台をたくさん作りながらも、与鹿は、嘉永四年(1851)夏、放浪の旅に出てしまいます。
行き先は決めていなかったようですが、まず最初に与鹿が目指したのは、京都だったようです。
京都を目指したの理由は、よくわかっていませんが、私が調べたところでは、次の三人の人間が
浮かび上がります。
1)一人目は、宇治の環渓和尚。彼と後年つきあっているので、彼を宗猷寺の和尚に紹介されて
向かったか、あるいは禅宗に深く帰依していたから、宗猷寺の本山=臨済宗の総本山妙心寺に
身を寄せ、そこでしばらく過ごしたものとも考えられます。
2)また二人目は、記録によれば書家 吉田公均方へ南書(唐の書物)の研究に通ったとあるので、
彼を頼ったか。
3)また別の記録には、三人目となる「貫名海屋(ぬきなかいおく=書家)を頼る」とありますが、
海屋が天保八年から九年に高山国分寺に滞在したことがあり、おそらく寺で身を寄せているうちに
海屋と知り合いになり、面識があり直接世話になったかと思われます。
与鹿が京都を目指して歩いているとき、こんなエピソードが残されています。
「彼が益田街道を南へ歩いているとき、良く見ると冬の綿入れを着て裏返しに、左前に着て平気で
歩いていた。そこへ美濃から高山へ帰る顔見知りの魚屋(代清茂助)が注意すると、『昨晩泊まった
宿屋で蚤をひろったので、取るのも面倒だから裏返しに着たのだ』と語り、「ノミはそれでいいが、
冬の綿入れでは暑いだろう」と言ったら彼はびっくりして、『どうりで暑いと思った』といたく感心し、
着ていた綿入れを脱ぎ、越中ふんどし一つになって今度は手早く着物の破れから手を突っ込み、
あっという間に綿を引き抜いてしまった。
座っている回りは綿だらけ。『さあ、これで軽くなった』と子供のように喜んで、次の瞬間にはもう
南に向かって歩いていったという。」
これは、山本茂美さんの「高山祭」という本に紹介されていますが、事実の程は定かではありません。
与鹿は、しばらく京都に滞在していたようですが、結局は、現在大阪空港のある伊丹に行き、
そこで一生を終えることになります。
このことについては、元斐太高校の校長をつとめられた代瀬山彦さんが次のように書かれています。
「画家吉田公均方へ、南書の指導を受けるため通塾していましたが、公均と昵懇(じっこん)の間柄で
あった、伊丹の造り酒屋の岡田利兵衛の祖父が、与鹿の奇才を愛し、彼を食客として自宅に招き
優遇しました。」(代情山彦)
つまり、吉田公均が居候の与鹿に手を焼き、貫名海屋に預け、海屋も手を焼き、岡田利兵衛に相談した
ところ、利兵衛が他の文人墨客と同じように与鹿を伊丹に招待したことが推察されます。

次回の放送では、どうして与鹿が高山を去ったのか。その理由について探りたいと思います。
さて、今日も時間となりました。この続きは、来月の第四週にお話したいと思います。
来週の放送は、五月の第2週でお届けしました、「煥章学校の話」のパート2をお届けしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は「小坂恭子で 想い出まくら」 ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太