坂の上の雲(廣瀬中佐)7_飛騨春秋より4
◇ 煥章学校

現在の煥章館
高山へ移住した廣瀬は煥章学校に入学した。十歳だった。高山市東小学校の廣瀬中佐解説
資料(副読本)では明治九年転入学したとなっているが、高山来住は明治十年十月である
から、父重武の高山裁判所赴任の年(明治九年十一月二十八日)と混同したものであろう。
煥章学校は明治六年十二月高山市勝久寺を仮校舎として開設、後に高山別院に移ったが
明治八年の大火で類焼、明治九年馬場町に新校舎を建てた。いわゆる「馬場学校」である。
正しくは第二大学区二十番中学一番小学で廣瀬が転入したのは木の香も新しいその馬場学
校だった。
廣瀬は下等五級に入ったが、翌年三月二日卒業、四級に進むべきところ成績優秀とあって
大試験(特別進級試験)の結果一級飛んで三級に進んだ。この大試験の答案が遺品として
現東小学校に残っている。外国歴史(現在の世界史)の試験答案で朱筆で添削採点、五十点
満点の四十点と評価されている。当時廣瀬の同級では一番小出龍之助・二番廣瀬・三番杉下
元次郎・四番牛丸安太郎で、もっとも親交があり同時に漢籍の同門だった福田吉郎兵衛は
上級生だった。
少年廣瀬はどちらかというとウェット型でよく泣きべそをかいたといわれる(女中有巣かの
女追憶談)、半面元気者で運動神経が発達し友情に厚かった。この友情のこまやかさは死ぬ
まで変わらなかった。後年親友福田吉郎兵衛にあてた幾通かの手紙がよくその真情を伝えて
いる。
多くの友人のうち特記すべきは福田吉郎兵衛(後年の高山町長・春慶塗製造販売業)で、
学業のかたわら漢籍を共に学んだ無二の親友だった。漢籍の師は川島小泉・福田朴堂で、
後年硬質な漢文調の名文をよくしたかれの素養はこのころ培われたものである。
福田の外、直井佐兵衛(後年の高山町長)・富田豊彦(富田禮彦の子、神職・教師)、
杉下元次郎(後年の煥章学校教師)など出色の人士が多い。

直井佐兵衛(左。右は坂千秋岐阜県知事。明治大正昭和史所収)

富田豊彦(県社昇格の時、日枝神社史所収)
子供の遊び場だったのが西町の森川邸とその界隈(一本杉境内)で、裁判所官舎に移って
からも弟の潔夫が森川家に養子していた関係だろう。福田・富田・直井・杉下や弟の潔夫たち
悪童どもと十分腕白ぶりを発揮したころの廣瀬の風貌は、そのまま二十余年後、旅順港外で
杉野、杉野と部下の身を案じながら爆死していった壮烈な散華に連っていくのである。
◇ 代用教員
明治十五年春、廣瀬は優秀な成績で卒業した。十五歳だった。学校ではかれの才能に着目し
代用教員を委嘱した。廣瀬は兄勝比古が海軍兵学校卒業間近だったので、自らも海兵を志願し、
そのため海兵の予備校とされていた攻玉社に入学する希望を抱いていたようである。しかし
母校の強っての委嘱で教壇に立った。十五歳の代用教員である。
教員時代の廣瀬は子供を可愛がるいい教師だったといわれている。成績はいいし友情に
厚く、運動神経が発達していたのだから。第一資質的に純粋で、後年の戦死も部下の身を
案じて自爆寸前の船内を三度もさがし歩いた、そういう血がすでに十五歳の少年教師の躰を
流れていたことを考えれば、いい教師だったことは十分推察される。
廣瀬には別の面で硬骨の気概を物語る“伝説”が残されている。伝説として書添えよう。
煥章学校の幹事某は横柄な男だった。教員に支払う給料はあたかも自分の懐からでも恵んで
やるような威張り方だったので誰もが不愉快な思いをしていた。廣瀬は代用教員だから某に
とっては物の数ではなかった。給料をやりから取りに来いという態度に業を煮やした廣瀬は
がんとして応ぜず、数カ月取りに行かなかった。某の方も持て余して折れて出、廣瀬は某の
態度を厳しく面責してようやくけりがついたという話である。廣瀬の意地っ張りの一面を物語
る一事であるが、廣瀬の意地っ張り、というより、純粋さに徹しようとする潔癖さのあらわれ
ともいえるのであって、こういう潔癖さが後年ロシア留学中の恋愛(?)めいた挿話(後述)
の中にもにじみでてくる。
廣瀬の代用教員生活は一年余だけだった。明治十六年、父の岐阜転任、兄の海兵卒業などで
環境がかわり、かれもまた宿願の海兵予備校攻玉社入学のため高山を去った。
高山から岐阜への転居の日付について、父の岐阜裁判所への転任より数ヶ月早くなっている。
その間の経緯について角竹資料もわからないとしている。
つづく
徳積善太 写す
現在の煥章館
高山へ移住した廣瀬は煥章学校に入学した。十歳だった。高山市東小学校の廣瀬中佐解説
資料(副読本)では明治九年転入学したとなっているが、高山来住は明治十年十月である
から、父重武の高山裁判所赴任の年(明治九年十一月二十八日)と混同したものであろう。
煥章学校は明治六年十二月高山市勝久寺を仮校舎として開設、後に高山別院に移ったが
明治八年の大火で類焼、明治九年馬場町に新校舎を建てた。いわゆる「馬場学校」である。
正しくは第二大学区二十番中学一番小学で廣瀬が転入したのは木の香も新しいその馬場学
校だった。
廣瀬は下等五級に入ったが、翌年三月二日卒業、四級に進むべきところ成績優秀とあって
大試験(特別進級試験)の結果一級飛んで三級に進んだ。この大試験の答案が遺品として
現東小学校に残っている。外国歴史(現在の世界史)の試験答案で朱筆で添削採点、五十点
満点の四十点と評価されている。当時廣瀬の同級では一番小出龍之助・二番廣瀬・三番杉下
元次郎・四番牛丸安太郎で、もっとも親交があり同時に漢籍の同門だった福田吉郎兵衛は
上級生だった。
少年廣瀬はどちらかというとウェット型でよく泣きべそをかいたといわれる(女中有巣かの
女追憶談)、半面元気者で運動神経が発達し友情に厚かった。この友情のこまやかさは死ぬ
まで変わらなかった。後年親友福田吉郎兵衛にあてた幾通かの手紙がよくその真情を伝えて
いる。
多くの友人のうち特記すべきは福田吉郎兵衛(後年の高山町長・春慶塗製造販売業)で、
学業のかたわら漢籍を共に学んだ無二の親友だった。漢籍の師は川島小泉・福田朴堂で、
後年硬質な漢文調の名文をよくしたかれの素養はこのころ培われたものである。
福田の外、直井佐兵衛(後年の高山町長)・富田豊彦(富田禮彦の子、神職・教師)、
杉下元次郎(後年の煥章学校教師)など出色の人士が多い。

直井佐兵衛(左。右は坂千秋岐阜県知事。明治大正昭和史所収)

富田豊彦(県社昇格の時、日枝神社史所収)
子供の遊び場だったのが西町の森川邸とその界隈(一本杉境内)で、裁判所官舎に移って
からも弟の潔夫が森川家に養子していた関係だろう。福田・富田・直井・杉下や弟の潔夫たち
悪童どもと十分腕白ぶりを発揮したころの廣瀬の風貌は、そのまま二十余年後、旅順港外で
杉野、杉野と部下の身を案じながら爆死していった壮烈な散華に連っていくのである。
◇ 代用教員
明治十五年春、廣瀬は優秀な成績で卒業した。十五歳だった。学校ではかれの才能に着目し
代用教員を委嘱した。廣瀬は兄勝比古が海軍兵学校卒業間近だったので、自らも海兵を志願し、
そのため海兵の予備校とされていた攻玉社に入学する希望を抱いていたようである。しかし
母校の強っての委嘱で教壇に立った。十五歳の代用教員である。
教員時代の廣瀬は子供を可愛がるいい教師だったといわれている。成績はいいし友情に
厚く、運動神経が発達していたのだから。第一資質的に純粋で、後年の戦死も部下の身を
案じて自爆寸前の船内を三度もさがし歩いた、そういう血がすでに十五歳の少年教師の躰を
流れていたことを考えれば、いい教師だったことは十分推察される。
廣瀬には別の面で硬骨の気概を物語る“伝説”が残されている。伝説として書添えよう。
煥章学校の幹事某は横柄な男だった。教員に支払う給料はあたかも自分の懐からでも恵んで
やるような威張り方だったので誰もが不愉快な思いをしていた。廣瀬は代用教員だから某に
とっては物の数ではなかった。給料をやりから取りに来いという態度に業を煮やした廣瀬は
がんとして応ぜず、数カ月取りに行かなかった。某の方も持て余して折れて出、廣瀬は某の
態度を厳しく面責してようやくけりがついたという話である。廣瀬の意地っ張りの一面を物語
る一事であるが、廣瀬の意地っ張り、というより、純粋さに徹しようとする潔癖さのあらわれ
ともいえるのであって、こういう潔癖さが後年ロシア留学中の恋愛(?)めいた挿話(後述)
の中にもにじみでてくる。
廣瀬の代用教員生活は一年余だけだった。明治十六年、父の岐阜転任、兄の海兵卒業などで
環境がかわり、かれもまた宿願の海兵予備校攻玉社入学のため高山を去った。
高山から岐阜への転居の日付について、父の岐阜裁判所への転任より数ヶ月早くなっている。
その間の経緯について角竹資料もわからないとしている。
つづく
徳積善太 写す