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坂の上の雲8(廣瀬中佐)_飛騨春秋より5

◇ 飛騨の雪景は如何・・・想い出し候
   高山を去った廣瀬は、物理的には高山との絆は断絶したわけであるが、精神的にはなお
深い連りを持ち続けた。その一は多くの友人、特に福田吉郎兵衛との濃密の文通、その二は
終生忘じ難い印象を受けた飛騨山脈の追憶である。
   廣瀬が福田にあてた文通の内、残された書簡は長短次の十一通がある。紙面の都合で
件名のみを挙げる。
(イ) 明治二十七年十二月二十一日付(軍艦扶桑・日清戦争)
(ロ) 同    年十二月二十八日付(同上)
(ハ) 同 二十八年 一月  五日付(同上)
(ニ) 同    年 一月二十八日付(同上)
(ホ) 同    年十一月 十七日付(第十八号水雷艇・留学前)
(ヘ) 同 二十九年 六月二十五日付(日清戦直後)
(ト) 同 三十三年 二月二十一日付(ロシア留学中)
(チ) 同    年 六月二十五日付(同上)
(リ) 同 三十六年十二月二十六日付(同、開戦直前)
(ヌ) 同 三十七年 二月  三日付(帰国、日露戦争)
(ル) 同    年 二月 十七日付(日露戦争、戦死直前)
  文面概ね硬質であるが、文旨は或は豪気に溢れ、或は綿々と人間関係の機微に及び、
かれの律気さを単的にあらわしている。この外にも高山の知友にあてた数多くの書簡が
残っている。
坂の上の雲8(廣瀬中佐)_飛騨春秋より5
 家郷忘じ難い今一つの強い絆は、飛騨の山河への畏敬と愛着であった。少年時に過した
高山、朝夕仰いだ白き神々の座アルプスの景観、そのアルペングリュエンの美しさは鮮烈
な印画紙のように稚い廣瀬の胸に焼きついていた。かれはロシアに赴いた際、父重武に
あてた絵ハガキにこう書いている。

  ・・・今日正午当「ウラヂカフカス」市に安着仕候。途上は露人の尤も誇る絶景なりと
雖も日本信飛の景を踏みたる武夫などには左まで思はれず。云々

 このハガキの日付は明治三十二年八月である。当時、飛騨山脈はチェンバレンやウェス
トンによって“日本アルプス”と呼ばれはじめ、近代的登山思想が漸やくこの国にも新しい
開眼をもたらしはじめたころであった。が、廣瀬が子供心に印象づけられたころの「信飛
の景」はまだ近ずき難い白き神々の座であった。そういうアルペングリュエンの壮大さを
単的にウラル山系のそれと比較し廣瀬は望郷の思いを熱くしたのである。

 家郷の山河への追慕は最後に戦死直前の壮烈な遺言となって昇華する。明治三十七年二月
十七日付で廣瀬は福田あてに手紙を送り、最後に次のように結んでいる。

  時下厳寒にて折々哨兵当直勤務などには稍々こたへ候も、最早永く続かざる可しと存じ
  候、飛騨の雪景は如何、今日も疾風雪を捲き居申候間、想い出し候
   再拝(傍点菱村)                       武 夫

この十日後、明治三十七年二月二十七日午前二時四十五分、廣瀬の身体は福井丸船上で瞬時に
散華した。「飛騨の雪景は如何」と呼びかけた言葉が、広瀬が高山の山河に送る最後の遺言と
なった。三十七歳だった。

「廣瀬中佐を弔う
連合艦隊司令長官東郷平八郎、麾下一同を代表し、謹んで故海軍中佐広瀬武夫君の霊に告ぐ、
君在世の間豪邁不撓の心を以て能く軍事に尽瘁し、今回敵港閉塞せんとするに当り前後二回、
其業に従事して具に辛酸を嘗め、而も従容として最も能く其功を奏し、終に敵弾の為めに斃
る、君の如きは真の其終を全うしたるものと謂つべし、嗚呼今や軍国多事、君の如き勇士の
貢献に待つ所多し、而して君既に亡し、豈に哀悼に堪う可けんや、然れども君が功績は不滅
の好鑑を遺し、其威風は能く後生を起さしむるに足る、君以て快とすべし、而して君が薫陶
せる許多の健児と、巍然たる艨艟とは我に健在す、其終局の戦捷を収めんこと蓋し遠きにあ
らざるべきを信ず、君亦以て瞑すべし、恭しく弔す。
坂の上の雲8(廣瀬中佐)_飛騨春秋より5
連合艦隊司令長官東郷平八郎

謹んで海軍中佐広瀬君の霊に告ぐ、嗚呼君の功や偉大、君の死や壮烈、世を挙りて君の名を
嘖々し、君の精神を欽慕する洵とに宜なる哉、而して吾人の特に感謝せざるべからざるは精
神上の教訓を垂れられたること是なり、君の徳に感じ、君の志を継ぐ者応さに長へに尽るな
けん、嗚呼君は萬古死せざる人と謂うべし、今や質素にして盛大なる君の葬儀に方り、桜花
爛漫沿道に送迎し、君の雄魂を慰めんとす、是れ亦天意と人心とを表するに庶幾し、謹んで
弔す。
坂の上の雲8(廣瀬中佐)_飛騨春秋より5
乃木希典」
以上、坂の上の雲HPより


◇ 清童散華
  廣瀬が高山市N家の娘さんにあてた艶書が、現在でも同家に秘蔵されているという“伝説”
がある。それは相当信憑性の高い話として伝わっている。その娘さんは廣瀬の艶書にはかかわ
りなく良縁を得、現在はもう故人である。
  わたしはその事実をせんさくする興味は全然ない。廣瀬は三十七歳の清童のまま散華した
と信じている。

  廣瀬は煥章学校の教員時代はわずか十五歳の少年である。兵学校在学中もしばしば高山に
帰省(家族はもう岐阜に転居していた)し旧友と交誼を温めていた。明治二十二年八月少尉
候補生として来飛し、金桶小学校長杉山元次郎を訪れている。そういう高山への慕情の中に
N家令嬢が含まれていたのかどうか、忖度のかぎりではあるまい。

  廣瀬の恋愛(めいた話)について一般に知られているのはロシア留学(後に大使館付武官)
中の二人の女性、ペテルセン博士の娘マリヤ・オスカロヴナ(二一・二歳)と、今一人海軍水路
部長ウラジミール・コワレフスキー少将の末娘アリアズナ・ウラジミローヴナ・コワレフスカヤ
(一八歳)、この両女性との交際があった。両女性とも廣瀬に並々ならぬ好意(以上のもの)
を寄せていたようである。結局双方ともそのままに終った。アリアズナは廣瀬の戦死を聞いて
溢れる涙をじっとこらえた弔問の手紙を遺族に寄せている。ロシア人には珍しい東洋的な節度を
身につけた女性だったようで、廣瀬には打ってつけの人だったようである。

  廣瀬がこれらを受入れなかったのは女性問題に潔癖に過ぎたためか、或は来るべき日露戦を
控えて敵国顕官の娘なるが故に敢てそうしたのか、廣瀬だけが答えられる問題である。廣瀬が
女性に対して潔癖だったのは、或は母の存命中に父が側妾をもち、母の死後、側妾の身柄のまま
琴子が家庭に入り込んで母の座にすわったことに対する潜在的な抵抗感があったのかも知れない。
  とまれ、廣瀬はただ一人の女性をも真に愛することなく、三十七歳の清童のまま旅順港外で
散華した-そう見るのが一番ふさわしいようだ。

つづく

徳積善太 写す
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