匠街道踏破の記録7日目 4/30
4/30(土)約22.5㎞ 参加者7人
岐阜県岐阜市 藍川橋 ~ 本巣市国領
・岐阜市 藍川橋
・ 雄総
・ 方県
・ 北方
・ 国領
本日のルート
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塚原さんのところでお世話になり、朝を迎えました。

朝日が差し込んできました。

みんな、連日の疲れのためか日が差しているのに熟睡しています。
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今日からは、わらじで歩くことにします。

初日に、松田君がわらじで歩きましたが、途中で断念。
というのも、わらじが濡れたら、非常に歩きにくかったことと、家に飾ってあったわらじが、非常に乾燥していて、もう少しでわらが切れそうになっていました。
今日は、地下足袋をはいて、その上でわらじをはきました。
砂地を歩く時には、わらじは非常に快適だったようです。

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長良川の河川敷に到着しました。

ここには、鵜飼の鵜匠船がいっぱい停めてあります。
夏には、ここで、たくさんの観光客の皆さんが、鵜飼を楽しむんですね。

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しばらく長良川の河川敷をひたすら歩きます。

お陰さまで、天気も良く、川風が心地よいです。

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長良川河川敷から、国道21号線にぶちあたり、大垣方面にいくと、中山道河渡宿まで2kmのところまできました。
国道沿いには、案内看板が出ていました。

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中山道の河渡宿に行ってみました。

中山道69次の内、河渡宿は、54番目の宿場町で、岐阜の加納と美江寺(瑞穂市)の間にある宿場町です。名前の通り、長良川を横断するための宿場町で、大井宿のように川止めになった場合によく利用される宿場町でした。
河渡宿(ごうどじゅく)は中山道54番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県岐阜市。
加納宿から河渡宿へは長良川を渡る必要があったため、1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまでは「河渡の渡し」を利用していた。
河渡宿は、長良川右岸堤下から東町、中町、西町の三町で構成されるが、全長は三町なので、330mという短さである。「 本陣は水谷治兵衛、問屋は久衛門、庄屋は水谷徳兵衛が務めていた 」と徳川幕府太平の記録にある。
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徳川政権は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦以降、江戸中心の道路網を全国的なものに発展させ、慶長6年(1601)には東海道に伝馬制を実施、翌年には中山道にも宿駅を設定しました。
さらに、江戸を起点とする主要な陸上交通路として、五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)の整備を進め、慶長9年(1604年)には、江戸日本橋を起点として、各街道に一里塚を築かせました。
街道整備のため、幕府は万治2年(1659)に道中奉行を設置し、街道改修・整備、架橋、渡船、並木、一里塚、宿駅および人馬賃銭などの管理にあたらせるとともに、諸街道には関所を設け、人改め等を行いました。
中山道についてのページはこちら
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河渡から、裏道を通り、大垣方面を目指すと、長良川があり、長良川を渡ったところに瑞穂市が有ります。ここは、旧本巣町で、平成の大合併のあと、瑞穂市となりました。
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まもなく、岐阜市と瑞穂市の境目まで来ました。

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中山道をひたすら歩くと、ところどころに一里塚の標識が有ります。
現代人でこの標識を頼りに歩いた人というのは私たち位じゃないでしょうか。

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瑞穂市から大垣方面に行くと、揖斐川が有ります。
この揖斐川を渡ると、大垣市です。

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大垣市内に入ると、「左大垣墨俣に至る、右大垣赤坂に至る」の標柱がありました。

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by 徳積善太
岐阜県岐阜市 藍川橋 ~ 本巣市国領
・岐阜市 藍川橋
・ 雄総
・ 方県
・ 北方
・ 国領
本日のルート
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塚原さんのところでお世話になり、朝を迎えました。


朝日が差し込んできました。

みんな、連日の疲れのためか日が差しているのに熟睡しています。
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今日からは、わらじで歩くことにします。

初日に、松田君がわらじで歩きましたが、途中で断念。
というのも、わらじが濡れたら、非常に歩きにくかったことと、家に飾ってあったわらじが、非常に乾燥していて、もう少しでわらが切れそうになっていました。
今日は、地下足袋をはいて、その上でわらじをはきました。
砂地を歩く時には、わらじは非常に快適だったようです。


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長良川の河川敷に到着しました。

ここには、鵜飼の鵜匠船がいっぱい停めてあります。
夏には、ここで、たくさんの観光客の皆さんが、鵜飼を楽しむんですね。

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しばらく長良川の河川敷をひたすら歩きます。

お陰さまで、天気も良く、川風が心地よいです。

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長良川河川敷から、国道21号線にぶちあたり、大垣方面にいくと、中山道河渡宿まで2kmのところまできました。

国道沿いには、案内看板が出ていました。

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中山道の河渡宿に行ってみました。



中山道69次の内、河渡宿は、54番目の宿場町で、岐阜の加納と美江寺(瑞穂市)の間にある宿場町です。名前の通り、長良川を横断するための宿場町で、大井宿のように川止めになった場合によく利用される宿場町でした。
河渡宿(ごうどじゅく)は中山道54番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県岐阜市。
加納宿から河渡宿へは長良川を渡る必要があったため、1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまでは「河渡の渡し」を利用していた。
河渡宿は、長良川右岸堤下から東町、中町、西町の三町で構成されるが、全長は三町なので、330mという短さである。「 本陣は水谷治兵衛、問屋は久衛門、庄屋は水谷徳兵衛が務めていた 」と徳川幕府太平の記録にある。
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徳川政権は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦以降、江戸中心の道路網を全国的なものに発展させ、慶長6年(1601)には東海道に伝馬制を実施、翌年には中山道にも宿駅を設定しました。
さらに、江戸を起点とする主要な陸上交通路として、五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)の整備を進め、慶長9年(1604年)には、江戸日本橋を起点として、各街道に一里塚を築かせました。
街道整備のため、幕府は万治2年(1659)に道中奉行を設置し、街道改修・整備、架橋、渡船、並木、一里塚、宿駅および人馬賃銭などの管理にあたらせるとともに、諸街道には関所を設け、人改め等を行いました。
中山道についてのページはこちら
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河渡から、裏道を通り、大垣方面を目指すと、長良川があり、長良川を渡ったところに瑞穂市が有ります。ここは、旧本巣町で、平成の大合併のあと、瑞穂市となりました。
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まもなく、岐阜市と瑞穂市の境目まで来ました。

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中山道をひたすら歩くと、ところどころに一里塚の標識が有ります。
現代人でこの標識を頼りに歩いた人というのは私たち位じゃないでしょうか。

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瑞穂市から大垣方面に行くと、揖斐川が有ります。
この揖斐川を渡ると、大垣市です。


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大垣市内に入ると、「左大垣墨俣に至る、右大垣赤坂に至る」の標柱がありました。

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by 徳積善太