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6月15日放送分_古川増島城について
(6月15日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし ながせきみあきがお届けしてまいります。
6月といえば梅雨の季節ですが、今年はちょっと雨が少ないような気がしますね。この前、ある
マスコミ関係者の方とお話しておりましたら、「今年の成り物はちょっと駄目かもしれない」とお
っしゃっていました。春の山菜も、4月末に降った遅霜で、やられてしまい、打撃だったそうです。
また、桃や林檎もちょうど剪定を終えたところに霜が降ったために、残した花芽がやられてしまい、
ちゃんと秋に結実するか心配だそうです。
今度は、稲が雨が降らずにやられるとなると、今年の農業生産高が危うい状況になります。
長く続く不景気があって、しかもそこへ、豚インフルエンザの大騒ぎがあってただでさえ、経済へ
の影響が懸念されるところへ、今度は、農業生産が悪いとなると、今年の飛騨の経済が、非常に
悪そうな感じがします。
ただ、日銀の経済短観によりますと、GDPが3月まではマイナス15%に成ったとの事でしたが、
底を打ったという見方がされています。
悪い事の後には、いいことがある。これから景気が上向く事を祈る次第です。
さて、今日は第三週目ですので、古川のお話をしたいと思います。今日は先週予告を致しました
ように、「古川増島城」についてお話したいと思います。

現在、増島城では、古川小学校を移転する為に、発掘調査が行われています。
つい最近まで、古川の図書館があった場所ですが、図書館は、飛騨市庁舎の敷地内に移転されて、
来月7月にオープンの運びとなっています。
その西側のグランドがあった場所ですが、以前はここに、吉城高校がありました。
先月の終わりに、第一回の飛騨市民への調査報告会がありました。
私も、知り合いから連絡をいただいたので、現場を見に行ってまいりました。
すでに、新聞等で発表されていますので、ご存知の方も多いかとは思いますが、改めて、お知らせ
したいと思います。
増島城が作られたのは、今から420年前の天正17年(1589)に古川の増嶋野という場所に建設
されました。建設したのは、金森長近。飛騨を天正13年に平定し、翌14年に飛騨の国主となった
人です。古川は、養子の可重という人に、1万石を分け与えました。
最初、可重は、古川にもともとあったお城、蛤城というところに居住していましたが、そこで築城の
計画を策定したのでしょう、そこから、東北東の地 増嶋野というところに、新しいお城を建設しました。
それが、増島城です。
このお城の建設状況については、浄土真宗のあらましについて書かれた本「岷江記」という本に
書かれています。
この本は、江戸時代中期に今の円光寺の前身 正覚寺というお寺の浄味という人によって書かれた
ものです。
少しだけ中身をご紹介しますと、
「住民が徹夜で女性が松明をともし、男性が掘りを掘るといった具合で、住民の総力によって作られた
お城であること。通常の建設よりも速いスピードで建設されたお城であること。また、飛騨には唯一の
平城という城として建設されたこと」、などが書かれています。
それまでの、お城といいますのは、普段はふもとに生活していて、有事の場合にだけ、裏山にあった
山城に駆け込み、そこを拠点として戦いをするといった形態のものでしたから、山城が殆んどでした。
しかし、金森氏によって作られたこの増島城は、風水を取り入れて、自然の地形を上手く利用し、
荒城川の流れを変えたり、湿地を防禦に使ったりして建てられた当時としてはまさに近代的なお城
でした。
また、武器の形態も弓矢から鉄砲へと変化していった時代でしたから、そういう戦法も考えられた
でしょうし、何より、信長が安土城を築いて天守閣を始めて作った直後でしたので、そういった天守閣も
備えた立派なお城だったということです。
さて、今回の発掘調査ですが、今回で4回目になります。前の3回については昨年古川で行いました、
金森展でも展示を致しましたが、ご覧いただきましたでしょうか。
最初は平成9年、その次が平成17年春秋に行われました。


どちらかというとこの時は本丸の場所や二之丸が本当にあったのかどうか。ということについて確認が
行われました。そのときの調査結果は、ほぼ「飛州志の絵図面の通り」ということが確認されました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「欧陽菲菲 雨の御堂筋」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、「増島城について」お話しています。
この飛州志という書物は、江戸時代の中ごろ、徳川吉宗の時代に、飛騨に赴任してきた代官 長谷川
忠崇という人によって書かれました。
当時の飛騨の民俗や地誌などについて、克明に調査されまとめられたものです。

以前、このコーナーでもお話したことがありますが、吉宗の命によって長谷川代官が仕上げたのですが、
最終的には、吉宗の卒去によって、なかなか表に出ることがなく、幕府にようやく献上されたのが、
長谷川忠崇の孫の時代になってからでした。
飛騨に入ってきたのも、大分遅くて、文化4年(1808)に飛騨の国学者 田中大秀という人が、この
飛州志のうわさについて江戸で聞き、4冊の本に写させたというのが最初です。
ところが、そのときは時間もお金もなかったために、大秀はあきらめて飛騨に帰りました。
その後、その話を大金持ちの田中半十郎という人に話して、何とかしてほしいと持ち掛けたところ、
田中半十郎は江戸に行った折に、その原本の所在をつきとめ、10冊の本にして飛騨に持ち帰りました。
文政元年(1828)のことです。
さて、話をお城の話に戻しますが、その10冊本の中の一番最後の章に飛騨のお城の絵図が掲載されて
います。当時はコピーなどありませんので、こういった絵図はすべて、手書きの書写によります。
私も、こういった書写本を10種類位調べましたが、絵心のある人は、少し立体的に書いたり、周辺の山々の
樹木を画いたりしています。比較してみるのもなかなか楽しいものですよ。


また話が脱線しましたが、この飛州志。実は今ご紹介した10冊本のものと13冊で一まとめにしたものと
2種類があります。高山市郷土館に展示してあるものがそれですが、増島城の研究者、茂住さんにより
ますと、その13冊本にあった増島城の図だけが他のものと少しだけ違っている事が判りました。

それは、堀の幅です。
先ほどご紹介した10冊本にはなくて、13冊本の中には、荒城川側の堀の幅が八間と書かれています。
それによって、全体の概観や規模・寸法がわかり、発掘調査にとても役に立ったようです。
さて、今回の試掘では、二之丸とその東にあった東之丸の接合がどのようなものであったか。そして、
二之丸にあったと思われる櫓についてどのような規模であったかの確認が行われたわけです。
最初、二之丸と東之丸の間が木橋か土橋かの調査が行われました。木橋であれば、石垣が真っ直ぐ。
土橋であれば石垣がかぎ状になっていると思われましたが、結果的には、石垣が真っ直ぐであったので、
飛州志に書かれている場所は、木橋であったろうと想像されました。
ところが、二之丸の櫓にあたる部分を調査したところ、そこには櫓の形ではなくて、東之丸のほうへ
向かっている土橋らしきものが確認されたのです。


これによって、飛州志の図の通りではなかったことが確認されたのです。
古川の増島城は、一国一城令が出されたあと、古川旅館として改められましたので、その時に、土橋と
して作られたのかと思いきや、どうも最初からあったもののようです。
では、飛州志の絵図と現在の調査結果との違いは何だったのか。
今回の調査によって、新たな謎が出てきたというわけです。
また、今回発見された土橋と思われる遺構の下のところに、高さ10cm、奥行き20cm、長さ約7mの
材木が発見されました。

これは、名古屋城などを造るときの工法にも見られるものですが、ぬかるんだ地面などに石垣を積む
場合に、そういった木を置いて、その上に石垣を積み上げるという工法です。
石垣を積むのに、専門家が来ていて、そういう指導をしながら積ませていったものだと考えられます。
これも、今回の大発見でした。
まだ、この見事な石垣をご覧になっておられない方は、ぜひともご覧になってください。
教育委員会のお話では、今月の28日頃まで埋めるのを延期し、その頃に第2回の現地説明会を行なう
らしいとの事ですので、いまご覧にならないと、次は50年以上後にしか見ることが出来ないと思います。
詳しくは、飛騨市教育委員会のほうにお尋ね下さい。

現在、萩原の桜洞城でも発掘調査が行われています。萩原には諏訪城があり、古川には増島城、そして、
金山には下原城というのがあって、一国一城令のあとに、この3つは旅館として使われました。
いま、これらがいつ壊されたのか、文献で調べていますが、また判ったらお知らせしたいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週は、「谷口与鹿の話パート7」についてお話したいと思います。
今日は、この曲でお別れです。「松田聖子で ボーイの季節」ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし ながせきみあきがお届けしてまいります。
6月といえば梅雨の季節ですが、今年はちょっと雨が少ないような気がしますね。この前、ある
マスコミ関係者の方とお話しておりましたら、「今年の成り物はちょっと駄目かもしれない」とお
っしゃっていました。春の山菜も、4月末に降った遅霜で、やられてしまい、打撃だったそうです。
また、桃や林檎もちょうど剪定を終えたところに霜が降ったために、残した花芽がやられてしまい、
ちゃんと秋に結実するか心配だそうです。
今度は、稲が雨が降らずにやられるとなると、今年の農業生産高が危うい状況になります。
長く続く不景気があって、しかもそこへ、豚インフルエンザの大騒ぎがあってただでさえ、経済へ
の影響が懸念されるところへ、今度は、農業生産が悪いとなると、今年の飛騨の経済が、非常に
悪そうな感じがします。
ただ、日銀の経済短観によりますと、GDPが3月まではマイナス15%に成ったとの事でしたが、
底を打ったという見方がされています。
悪い事の後には、いいことがある。これから景気が上向く事を祈る次第です。
さて、今日は第三週目ですので、古川のお話をしたいと思います。今日は先週予告を致しました
ように、「古川増島城」についてお話したいと思います。
現在、増島城では、古川小学校を移転する為に、発掘調査が行われています。
つい最近まで、古川の図書館があった場所ですが、図書館は、飛騨市庁舎の敷地内に移転されて、
来月7月にオープンの運びとなっています。
その西側のグランドがあった場所ですが、以前はここに、吉城高校がありました。
先月の終わりに、第一回の飛騨市民への調査報告会がありました。
私も、知り合いから連絡をいただいたので、現場を見に行ってまいりました。
すでに、新聞等で発表されていますので、ご存知の方も多いかとは思いますが、改めて、お知らせ
したいと思います。
増島城が作られたのは、今から420年前の天正17年(1589)に古川の増嶋野という場所に建設
されました。建設したのは、金森長近。飛騨を天正13年に平定し、翌14年に飛騨の国主となった
人です。古川は、養子の可重という人に、1万石を分け与えました。
最初、可重は、古川にもともとあったお城、蛤城というところに居住していましたが、そこで築城の
計画を策定したのでしょう、そこから、東北東の地 増嶋野というところに、新しいお城を建設しました。
それが、増島城です。
このお城の建設状況については、浄土真宗のあらましについて書かれた本「岷江記」という本に
書かれています。
この本は、江戸時代中期に今の円光寺の前身 正覚寺というお寺の浄味という人によって書かれた
ものです。
少しだけ中身をご紹介しますと、
「住民が徹夜で女性が松明をともし、男性が掘りを掘るといった具合で、住民の総力によって作られた
お城であること。通常の建設よりも速いスピードで建設されたお城であること。また、飛騨には唯一の
平城という城として建設されたこと」、などが書かれています。
それまでの、お城といいますのは、普段はふもとに生活していて、有事の場合にだけ、裏山にあった
山城に駆け込み、そこを拠点として戦いをするといった形態のものでしたから、山城が殆んどでした。
しかし、金森氏によって作られたこの増島城は、風水を取り入れて、自然の地形を上手く利用し、
荒城川の流れを変えたり、湿地を防禦に使ったりして建てられた当時としてはまさに近代的なお城
でした。
また、武器の形態も弓矢から鉄砲へと変化していった時代でしたから、そういう戦法も考えられた
でしょうし、何より、信長が安土城を築いて天守閣を始めて作った直後でしたので、そういった天守閣も
備えた立派なお城だったということです。
さて、今回の発掘調査ですが、今回で4回目になります。前の3回については昨年古川で行いました、
金森展でも展示を致しましたが、ご覧いただきましたでしょうか。
最初は平成9年、その次が平成17年春秋に行われました。
どちらかというとこの時は本丸の場所や二之丸が本当にあったのかどうか。ということについて確認が
行われました。そのときの調査結果は、ほぼ「飛州志の絵図面の通り」ということが確認されました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「欧陽菲菲 雨の御堂筋」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、「増島城について」お話しています。
この飛州志という書物は、江戸時代の中ごろ、徳川吉宗の時代に、飛騨に赴任してきた代官 長谷川
忠崇という人によって書かれました。
当時の飛騨の民俗や地誌などについて、克明に調査されまとめられたものです。
以前、このコーナーでもお話したことがありますが、吉宗の命によって長谷川代官が仕上げたのですが、
最終的には、吉宗の卒去によって、なかなか表に出ることがなく、幕府にようやく献上されたのが、
長谷川忠崇の孫の時代になってからでした。
飛騨に入ってきたのも、大分遅くて、文化4年(1808)に飛騨の国学者 田中大秀という人が、この
飛州志のうわさについて江戸で聞き、4冊の本に写させたというのが最初です。
ところが、そのときは時間もお金もなかったために、大秀はあきらめて飛騨に帰りました。
その後、その話を大金持ちの田中半十郎という人に話して、何とかしてほしいと持ち掛けたところ、
田中半十郎は江戸に行った折に、その原本の所在をつきとめ、10冊の本にして飛騨に持ち帰りました。
文政元年(1828)のことです。
さて、話をお城の話に戻しますが、その10冊本の中の一番最後の章に飛騨のお城の絵図が掲載されて
います。当時はコピーなどありませんので、こういった絵図はすべて、手書きの書写によります。
私も、こういった書写本を10種類位調べましたが、絵心のある人は、少し立体的に書いたり、周辺の山々の
樹木を画いたりしています。比較してみるのもなかなか楽しいものですよ。
また話が脱線しましたが、この飛州志。実は今ご紹介した10冊本のものと13冊で一まとめにしたものと
2種類があります。高山市郷土館に展示してあるものがそれですが、増島城の研究者、茂住さんにより
ますと、その13冊本にあった増島城の図だけが他のものと少しだけ違っている事が判りました。
それは、堀の幅です。
先ほどご紹介した10冊本にはなくて、13冊本の中には、荒城川側の堀の幅が八間と書かれています。
それによって、全体の概観や規模・寸法がわかり、発掘調査にとても役に立ったようです。
さて、今回の試掘では、二之丸とその東にあった東之丸の接合がどのようなものであったか。そして、
二之丸にあったと思われる櫓についてどのような規模であったかの確認が行われたわけです。
最初、二之丸と東之丸の間が木橋か土橋かの調査が行われました。木橋であれば、石垣が真っ直ぐ。
土橋であれば石垣がかぎ状になっていると思われましたが、結果的には、石垣が真っ直ぐであったので、
飛州志に書かれている場所は、木橋であったろうと想像されました。
ところが、二之丸の櫓にあたる部分を調査したところ、そこには櫓の形ではなくて、東之丸のほうへ
向かっている土橋らしきものが確認されたのです。
これによって、飛州志の図の通りではなかったことが確認されたのです。
古川の増島城は、一国一城令が出されたあと、古川旅館として改められましたので、その時に、土橋と
して作られたのかと思いきや、どうも最初からあったもののようです。
では、飛州志の絵図と現在の調査結果との違いは何だったのか。
今回の調査によって、新たな謎が出てきたというわけです。
また、今回発見された土橋と思われる遺構の下のところに、高さ10cm、奥行き20cm、長さ約7mの
材木が発見されました。
これは、名古屋城などを造るときの工法にも見られるものですが、ぬかるんだ地面などに石垣を積む
場合に、そういった木を置いて、その上に石垣を積み上げるという工法です。
石垣を積むのに、専門家が来ていて、そういう指導をしながら積ませていったものだと考えられます。
これも、今回の大発見でした。
まだ、この見事な石垣をご覧になっておられない方は、ぜひともご覧になってください。
教育委員会のお話では、今月の28日頃まで埋めるのを延期し、その頃に第2回の現地説明会を行なう
らしいとの事ですので、いまご覧にならないと、次は50年以上後にしか見ることが出来ないと思います。
詳しくは、飛騨市教育委員会のほうにお尋ね下さい。
現在、萩原の桜洞城でも発掘調査が行われています。萩原には諏訪城があり、古川には増島城、そして、
金山には下原城というのがあって、一国一城令のあとに、この3つは旅館として使われました。
いま、これらがいつ壊されたのか、文献で調べていますが、また判ったらお知らせしたいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週は、「谷口与鹿の話パート7」についてお話したいと思います。
今日は、この曲でお別れです。「松田聖子で ボーイの季節」ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太