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8月10日放送分_高山城の破却について_パート2

(8月10日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし ながせきみあきがお届けしてまいります。

いよいよ8月もお盆休みになり、高山も観光シーズンとなりました。今年は、高速道路がETC割引で
このお盆休みの期間も1000円ということですから、たくさんの観光客の方で賑わっていますね。
ただ、海外旅行が韓国へ9800円のツアーがあったり、台湾が9800~19800円。グアムでも19800円
などというものが出てきています。
また、先日ネットで見つけたツアーでは、国内でも軽井沢のコンドミニアムに宿泊すると、一泊二食で
500円というモニターツアーなどが出てきています。
これは、かなり破格値ですが、個人の別荘をホテルとして借り上げ、ツアーにして組むという企画です。
その会社が、モニターを募って、こういう企画がうけるかどうかを試すモニターツアーの一環です。
ネットには宿泊施設の写真などが出ていましたが、ずいぶん立派な建物です。お金持ちの別荘を借り
上げるというもののようですが、それにしても、信用のある会社がこういった企画を出しているくらい
ですから、景気が悪いからか、とんでもない商品が出るようになったものだと思います。

さて、本日の放送に移りたいと思います。今日の放送は、先週予告を致しましたように、「高山城の
破却について パート2」として、お話したいと思います。

先週もお話しましたが、去る6月の24日に、金沢まで調査に行ってまいりました。石川県歴史資料館と
玉川図書館の2つの場所に行って、かなりの資料を撮影してまいりました。今日はそのときの内容を
お話したいと思います。
8月10日放送分_高山城の破却について_パート2
さて、ちょっとここで、先週のお話を振返ってみたいと思います。
高山城が破却された時の城主は、6代目の金森頼ときでした。この人は、元禄2年(1689)4月、
20歳の時に将軍綱吉の奥詰衆、そして5月には側用人を命ぜられましたが、やがて、将軍の意に
合わず、翌年元禄三年四月、職を免ぜられ、元禄4年6月には、屋敷替え、そして元禄5年7月28日に
金森氏が出羽上山に転封されてしまいました。
先週お話したのは、この転封の理由が何であったかについてですが、一番の理由とされているものは、
「幕府が飛騨の鉱山・山林に目をつけた」というものです。

ところで、今回の調査で、次のような資料を見つけました。
これが、転封の理由になるかどうかはわかりませんが、次のような内容のものです。
これは、松雲公採集遺編類纂五十八 地理部十六というのにありました。

「徳川四代家綱将軍印書の写」というもので、「飛騨国一国三万八千七百六十石余 目録並別幣 
事如前二宛息之託全所領地者也仍如件  寛文四年四月五日朱印 金森長門入道立軒」となって
います。この立軒というのは、頼旹のおじいさんの四代頼直公のことです。
つまり、幕府にそれまで残っていた、金森氏の石高は38760石という形で登録されていたのです。
ところが、その前のページに、

元禄五年に金森頼旹から幕府に出された書状には、「益田郡・大野郡・吉城郡三郡の草高は、
60423石6斗5升一合 内
 38764石4斗 拝領高
 20009石2斗5升8合 古開高
 1649石9斗9升5合 新開高
 外浮役之覚 として
   銀566匁6分1厘 川役銀
   吹金5匁 吉城郷森歩村川金方運上
   銀十三匁 高原郷蔵柱村金山家役
   銀二百目 杦(杉)原村鱒川役
   銀43匁 月ヶ瀬村同断
   呉服錦42貫249匁七分益田郡
此代銀 4貫651匁2分8厘 酉年より銀納に成 云々」

と 各所でかなりの役銀の取立てがあったことが記されています。つまり、私はこの書面を見て
思ったことは、
「それまで、金森氏によって報告されていた石高に対して、かなりの石高の増加が見られている。
ということです。つまり、現代でいえば、確定申告のときに過少申告していたものが、あるとき突然に、
多額の申告がなされれば、それまで納めていた税金を脱税していたことと同じになるということです。
こういったことが、金森氏の転封の直接の原因だったのではないか。そう考えました。

また、頼旹が、家を継いだのが4歳の時。その父親の頼業が亡くなったのが28歳の時ですから、
こういった申告に対して十分な引継ぎがなされていたとは思えません。
頼旹の家臣が、忠実に申告したものが、幕府にとって見れば、金額にものすごい開きがある。
これは脱税だ、ということになったのではないでしょうか。
これについては、大変興味深い内容ですので、ちゃんと論文にして、発表したいと思います。

さて、ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ナイアガラトライアングル A面で恋をして」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、加賀藩の高山城破却についてお話しています。

さて、この時の転封の理由ばかりお話していますと、加賀藩のお話しに入れませんので、後半では、
加賀藩の高山城破却の話をしたいと思います。

 高山城破却までに、まず幕府は、元禄五年8月22日に加賀藩に在番を命じました。
老中戸田山城守正昌より、加賀藩の門番三好助左衛門に、

「飛州高山城主 金森出雲守頼ときを出羽の国上ノ山に所替とするので、飛騨高山之城を明渡し、
隣国であるから在番するように。一万石積り人数、弓、鑓、鉄砲等遣わす。」とか、

「浅野伊佐衛門を現地に行かせ、引き渡すようにするから、最初は、江戸にいた永井織部・中村
為兵衛・平田清左衛門らを在番とするように。」などと申し渡されました。顔見知りのものを配置せよ
ということだったのだと思われます。

8月26日に、領主の前田綱紀は、金森頼旹の家来に、杉江杢左衛門という者を使者ににたて、
転封になったことをこっそり伝えました。
その後、高山の様子を聞くために橋爪治兵衛と片岡豊内という人を遣わしました。

翌、27日は時々雨が降っていました。天も泣いていたようですが、前田公は正式に使者を立て、
転封になったことや、高山の城を加賀藩が受け取ることになった旨を金森氏に伝えています。
心中を察してか、前田家は非常に丁寧に金森氏を気遣ったようですが、頼旹もこのときはすでに
腹が座っていたらしく、直ぐに返事をされ、
「先日浅野伊右衛門氏より手紙が来て、高山へ連れて行く家来等を書き付けておくようにとお話が
あった」旨述べられています。

永井織部ほか一行は、9月11日に江戸をたち、19日には金沢へと帰りました。
そこで3日間の逗留の後、24日には、高山へ向けて出発しました。
出発の時、馬が70匹、荷駄馬が100匹。人足が50人と、宿宿で人馬をうちたてて、行列して高山に
向いました。

これについては絵図が残っていますが、参勤交代に準じたたくさんの人たちの行列が描かれています。
石川県歴史資料館の濱岡先生のお話によると、
「この高山城の在藩は、加賀藩にとっては一大事でした。そのため、ちゃんと責任を果したことを示すために、
わざわざ絵師にたのんで、たくさんの絵図を描かせたようです。そのため、家来がそれぞれにこの大役に
ついて描かせたために、複数の絵図が残る結果となりました。子々孫々にこの出来事を伝えるという意味が
あったのかもしれません。それほど加賀藩にとっては一大事件でした。」ということでした。
 ルートは、24日金沢発、27日古川に到着しました。
1日に浅野伊右衛門が高山に到着したので、3日朝に幕府の官吏より加賀藩に首尾よく城を引き渡したとの
事です。

その後、永井は、元禄5年5月まで在番しますが、途中3月8日半田惣兵衛が引継ぎ、元禄6年4月7日まで
務めました。その後、4月30日に藤田平兵衛が引継ぎ交替し、永井はようやく金沢に帰りました。

その後も、元禄6年10/6津田求馬、元禄7年5/16野村五郎兵衛、9/26山崎源五左衛門、元禄8年1/7
和田小右衛門が在番しました。

しかし、高山の民謡「飛騨やんさ」にもあるように、「お城番 勤めかねたよ 加賀の衆が」とあるように、
加賀藩にとってこの在番はたいへんな出費となったようです。
そこで、加賀藩は2月13日に廃城として家来を引き上げたい旨、幕府に訴えます。それが認められて、
4月に幕府は高山城を廃城とすることに決め、加賀藩ではその御用横目に矢部権丞、作事奉行 兼 普請
奉行に近藤三郎右衛門、普請奉行に前田清八が選ばれ、
3月10日に惣奉行 奥村市右衛門が決定し、与力14人と数百の役人を委嘱されました。

彼等は、金沢を4月9日に出発し、後から来た大工とともに15日には高山に到着しました。
廃城となるには、比較的早かったようで、5月19日には廃城の為の検分が行なわれています。

最終的には6月10日に在番の人々が金沢へ帰り、同日江戸にも仕事完了の報告をするため使者 
生駒萬兵衛を遣わしています。
建設するのに、十数年かかったであろう高山城は、わずか1ヵ月半あまりの間に解体され、その役目を
終えたのです。

現在、残っていれば、たいへんな観光客で賑わったであろう、立派なお城だったと思いますが、その運命は、
建設が始まった天正14年(1586)から数えると、元禄8年(1695)までわずか91年の運命でした。
今日のお話については、本のご紹介に過ぎません。今後、時間をかけてたくさんの資料を分析調査します
ので、また新たな事実がわかりましたら、お知らせしたいと思います。

今日も時間となりました。来週は、第三週ですので、古川のお話をしたいと思います。お楽しみに!
今日はこの曲でお別れです。「TUBE シーズンインザサン」ではまた来週お会いしましょう!

徳積善太
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