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1月11日放送分_金森長近と浄土真宗

(1月11日放送分134回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。

まだ今年になってお会いしていないみなさん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。今年は年明けして、とってもいいことがありました。
高校卒業30周年と言うことで、同窓会が開催されまして、懐かしいみんなと話をすることが
できました。もう何年も会っていない人もいましたが、同窓会と言うのは不思議なものですね。
会えばたちまち学生時代に戻る。
考えてみれば、たった3年間しか一緒にいなかったはずなのに。しかも一緒のクラスになった
ことがないメンバーでも、同じ時を過ごしたというだけで、同じ世界に戻る。
いでたちは、おじさんおばさんになって、頭の毛は薄くなったり、白くなったりしていたり、
体型が私も含めて、デブになったりしているのに、話す話題は、高校の時の話。
あっという間に青春時代に戻りますから、不思議なものです。
おそらく、相手が総理大臣になっていても、同じなんだろうなあと思いますが、どんなに偉く
なった奴でも、馬鹿呼ばわりできるのは、同窓会の醍醐味だと思います。

 同窓会といえば、最近よく思うのは、小学校の時の話です。私たちの頃には、1970年に
大阪で万国博覧会が開催されて、タイムカプセルと言うのがありました。その時に流行した
ものや、手紙を入れて、数十年後の自分に送るというもの。
1月11日放送分_金森長近と浄土真宗
数年前に、南小学校では、建物の改築がありましたので、広く同窓生に呼びかけて、埋めら
れたものを掘り起こそうという企画がありましたが、私が卒業した東小学校では、まだグランド
のあちこちにタイムカプセルが埋まっています。
そろそろ掘り起こさないと、亡くなった奴もいますし、行方知れずの奴も居ますから、ちゃんと
しないといけないなあって思います。

先日、ある会から講演を頼まれたら、その担当が小学校の同級生だったということがありま
した。彼女とはほぼ35年ぶりに会ったんですが、二人で会話すると小学校の時のままで、
呼び方も当時のあだ名で呼び合ったりして。。。ふるさとってとてもいいもんだなあと思い
ました。

さて、余談が長くなりましたが、本日の放送にうつりましょう。
今日のお話ですが、先週お知らせしましたように「金森長近と浄土真宗」について、お話したい
と思います。

金森長近が飛騨に侵攻したのは、天正13年(1585)の夏のことです。豊臣秀吉から命を受けて、
それまで越前大野の城主だった長近に、「飛騨一国を与える」といったものでした。
1月11日放送分_金森長近と浄土真宗
当時、飛騨は三木自綱がやっと統一したばかりでしたから、いわゆる人の土地を秀吉は与えた
わけです。長近は、飛騨に入るときに、当然この三木自綱を倒すことを考えたんでしょうが、
その前に、行ったことは、浄土真宗の門徒の心を把握することでした。

皆さんすでに御存じのように、金森長近の金森と言う姓は、近江の金ケ森という地名から来て
います。長近のお父さん、大畑定近が、元は土岐の支族の末裔で、大桑の戦いで齊藤道三の
一族に破れ、多治見の大畑と言う地に移って大畑と改姓しました。
その時に、長近は誕生して、五郎八と呼ばれたんですが、その後、大畑一族は、多治見を離れて、
垂井に行きます。
ここには、後に長近が養子にした、二代目可重のおじいさんの長屋一族が住んでいて、元の
土岐氏の家来だったためにそこを頼って行きます。
しばらくそこに滞在しますが、やがて垂井を離れて向かった先が、近江の金が森でした。

当時、近江の金が森には、何があったかといいますと、蓮如上人のお弟子さんの道西という
お坊さんが建てた善立寺という寺院がありました。江戸時代の寛政ではなくて、正しいと書く
寛正(かんしょう)2年(1461)には、蓮如が御文を与えて建立された善立寺は、近江の堅田と
共に浄土真宗の一大拠点でした。この金が森は周囲を城郭にめぐらされ、門前町を形成し、
近江周辺の商人たちによって大変な繁盛をみせていました。

享禄元年(1528)金が森に移住した大畑定近は、森本先生の説によれば、どうやら浪人の身
から商人に転進し、郎党達の運ぶ伊吹山に生える薬草=伊吹もぐさなどの販売を手がけて、
一族の再起に備えていたとの事です。
後に、長近が越前大野城主となるに及んで家臣となった方が多いことから、そう考えられて
います。ただしこのお話については、想像の域を超えず、定かなことは分かりません。

ただし、後に金森家の経済を支える町衆の中に、矢嶋氏とか屋貝氏とか、天領時代にも町年寄
を務める家柄がありますが、この2家は、もともとこの近江の金が森の地名を苗字にしたといわ
れており、現在もこの2つの地名が存在します。

続きは、後半でお話したいと思います。
ちょっとブレイクしましょう。曲は「舟木和夫 高校三年生」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、金森長近と浄土真宗についてお話しています。

この金が森は、もともと鎌倉時代には在地土豪川那邊氏の本拠地で、環濠城塞と呼ばれる、
砦でしたが、永享3年(1431)にその金森城の跡に「惣道場」が構築されました。川那邊氏は
深く浄土真宗に帰依していたこともあり、彼等の主導の元に浄土真宗は深く、村人達に浸透し、
惣村による念仏道場として金ケ森は発展していきました。
1月11日放送分_金森長近と浄土真宗
いま、手元に守山市史がありますが、当時の金が森の状態を復元した地図があります。
それを見ると、中心に道場があり、そのまわりに住宅。その外側には、環濠と呼ばれる川や
水路がめぐらされており、さしずめ、堀に囲まれた城郭のような形をしています。

この金ケ森は2度、戦乱にあっており、一度目は寛正6年(1571)の比叡山の弾圧。そして2度目は
その百年後の元亀2年(1571)に起った、織田信長による南近江の一向宗門徒の拠点弾圧です。
この時に、金ケ森は焼き討ちに遭いました。
この年の秋には、信長によって同じく比叡山の焼き討ちがされています。
1月11日放送分_金森長近と浄土真宗
この比叡山の焼き討ちが余りに有名なので、陰をひそむ形になっていますが、同じ年に金が森も
焼き討ちに遭いました。

五郎八は18歳の時に、兄政近と共に、織田信秀に仕官します。織田信秀は、五郎八を信長の小姓
として採用しますが、おそらく、この金ケ森が焼き討ちされた時に、五郎八は、自分の故郷を、
主君信長によって、焼き討ちされているということです。
五郎八の心境たるやいくばくかのものがあったと思われます。

さて、時は下って、天正元年(1573)、8月13日信長は大軍を率いて朝倉攻めに向かう。この頃、
信長は一向宗と全面対決をしており、石山本願寺の戦いを始め、各地の本願寺に味方する武将
を討伐しています。
一方、本願寺顕如は、武田信玄と手を結び、自身の長男 教如の嫁に信玄の娘をもらったり、
朝倉氏とも血縁を結ぶなど、信長包囲網を広げつつあった。
そういう意味では、信長と本願寺顕如は真っ向から対立していました。

結果的に朝倉氏は敗れて朝倉義景は逃亡しました。この時討ち取った首は3000余り。
その後朝倉氏は大野郡山田庄六坊に逃げ込みますが、8月24日義景は、一族の景鏡(かげあきら)
によって腹を切らされ、首を信長に献上しました。そのことで朝倉氏は一応領地安堵をされました
が、一向一揆の門徒によって殺され、信長は前波播磨守を守護代として派遣しました。

天正2年(1574)1月19日、先年信長が任命した越前守護代前波播磨守が国中の侍どもに殺された。
信長は越前一向一揆の討伐を決意し、羽柴・武藤・丹羽・不破・九尾・若州衆を敦賀へ差し向けた。
この時、一向宗の大虐殺が行われ、その殺害された真宗門徒は1万とも言われます。
同時期に、伊勢桑名でも一向宗の討伐が行われました。これが有名な、伊勢長島の戦いです。

そういったこともありましたが、長近は、兆略によって浄土真宗の門徒を味方につけ、越前大野を
わずか半年で平定し、天正3年に越前大野の3分の2を信長から知行地として与えられました。
後、秀吉の命で、飛騨を平定するときも、目指す相手は三木自綱唯一人ということで、早くから
浄土真宗の門徒を味方につけ、照蓮寺明了と互に危害を企てないという起請文を交わし、わずか
半月で飛騨を平定したのでした。
そのとき、本願寺教如とも茶会で会うなど、用意周到な準備をしていました。そのときの長近の
書状が残っていますが、そこには、不可侵条約とも読み取れる内容が書かれていて、長近は照蓮寺
に対し、本領安堵を約束しています。

余り知られていませんが、後に、慶長5年の関ヶ原の戦いのときにも、本願寺教如と連絡を取り
あって、徳川家康の大津にあった本陣を尋ね、家康に教如を紹介したのも、長近であるといわれて
います。それほど、本願寺の門徒とは関係の深い、長近でした。

高山城の城主 金森長近と言う人は、単なる地方の武士ではなく、中央に居て宗教と政治を巧みに
操りながら、戦国の世の中を生きてきたすごい人であったというお話です。

さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、久しぶりに「高山祭りの屋台」のお話をしたいと思います。
どうぞ、今年も「飛騨の歴史再発見」をご愛顧いただきますよう、よろしくお願いいたします。
今日は、この曲でお別れです。「松田聖子 蒼いフォトグラフ」ではまた来週!

徳積善太
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