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250614白川郷の浄土真宗調査について

(平成25年6月14日放送分 第296回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 5月30日でしたか、東海地方も梅雨入りしました。ところが、そんなに雨が降っていませんよね。
先日、5月の降水量の発表が気象庁よりありましたが、5月の関東地方は、例年の30%。新潟地方は
例年の45%しか雨が降らなかったそうです。このままいきますと、昔でしたら干ばつになる様な気候
ですよね。昨年の放送原稿を見直して居りましたら、昨年も雨が少なかったようです。
西日本では、あまり雨が降らないので、干ばつ傾向。ところが、東日本では逆に雨が多くて、十和田湖
などでは遊覧船の桟橋が水につかってしまっているというお話しをしております。そう考えると昨年は、
東北地方では、夏の間の長雨。そして冬になったら大雪で大変だったわけですから、さぞかし昨年の
年間降水量が凄かったのではと思います。

 そういうことを考えると、高山は、ほどほどに雨が降って、ほどほどに晴れて、しかも乗鞍が有ります
から断水などという目に遭わずに済んでいます。そういうことは有難いことだと思います。
これが、断水などとなりますと、農業被害から飲み水から大変なことになります。
過去、高山は天保の飢饉のときにも、食べるものには困っても飲む水には困らなかったようですから、
たへん有難い土地だと思います。
 ただ、今年は全体的に気温が低い事も問題です。
農作物がこれから成長する時に、朝晩の気温が低すぎる。これは全国的な傾向のようですが、昼には
夏場と変わらないくらいの気温になっていますからまだ救いですが、朝晩の気温の低いので、ハウス
経営をされている方は、暖房費がかさんでいるようです。自然の事ですから、大変難しいですが、
いつもの気候に戻って貰いたいと思います。

さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は先週予告をしましたように、5月22日から24日まで
白川郷で浄土真宗の調査活動をお手伝いしました。そのときのお話しをしたいと思います。
250614白川郷の浄土真宗調査について
今回の調査は、白川村に伝わる文化財を再発見するとともに、そういった文化財を見直して改めて
後世に伝えていこうという目的で行われました。
実は、今から十数年前に、高山別院の飛騨真宗学会の皆さんが、蓮如上人に関する史料について、
飛騨全部の悉皆調査を行いました。調査された物については、展覧会を行うと同時に、『飛騨と蓮如上人』
という本にして発表されました。
実はその時に、地元の皆さんの反対があり、全く協力していただけなかったのが、この白川村を中心
とする地域でした。

今回は、白川村教育委員会が中心になって行われましたが、前の教育委員長で早稲田大学名誉教授の
柿崎京一先生が動かれ、白川村にある耕雲塾というNPO団体が段取りをされました。
実際、信仰心の厚い地域ですので、当初、「よそから見える人に見せる必要があるのか」とか「先祖代々
守って来た物を簡単に見せるわけにはいかない」とか住民感情が高ぶっていた事も有り、まず住民の
説得から始められ、今年の2月と3月の2回にわたり住民説明会を開かれました。
そして、担当される先生には、浄土真宗の調査研究では日本の第一人者であり、本願寺史料調査研究所
副所長の金龍静先生と、先ほどお話しした飛騨と蓮如上人に深く携われた高山の東等寺のご住職 竹田
さん、夏厩の蓮徳寺のご住職 三本さんの三人が携わる事になりました。私は、かねてから竹田さんの
お手伝いをずっとさせて頂いている関係で、お三人の助手としてお声かけをいただきました。

実際当日は、三本さんが急きょ入院されたために、金龍先生と竹田さん、そして私の3人が中心になり、
浄土真宗のご本尊である「方便法身尊形」ですとか、「南無阿弥陀仏」の六字名号。「帰命甚十方無偈光如来」
という十字名号。「南無不可思議光如来」という九字名号の調査を行いました。
250614白川郷の浄土真宗調査について
方便法身尊形というのは、阿弥陀如来様が描かれている絵像で、浄土真宗のお寺が開かれた時に本願寺
より下付されたものです。真中に阿弥陀様の立たれたお姿があり、後ろには丸い後光が描かれており、阿弥陀
様のおでこのところから四方八方に後光がさしていると云う絵像です。
飛騨の寺院にはほとんどが蓮如上人が福井の吉崎におられた時に下付されたもので、今から大体500年前
から400年前のものが大半です。
これには、裏書というものがついており、そこには、「方便法身尊形、下付した人、日付、願主(願い出た人と住所)」
が記されています。
250614白川郷の浄土真宗調査について
これは大変貴重な文字情報で、現在はない地名が記されていたり、そのお寺の開かれた年代の証明になっています。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は太田裕美で「雨だれ」をお届けします。
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本日の放送は、白川郷の浄土真宗調査についてお話ししております。

今から五年前に「姉小路と廣瀬」というイベントを行い、姉小路基綱の娘が蓮如上人に嫁いだことで、姉小路氏
と浄土真宗の関係が大変深いと云うお話しを本にまとめた事が有ります。
その時に、この方便法身尊形の裏書に「富安郷」という地名が書かれていたことで、この富安郷が現在の飛騨の
どのあたりになるのかと云うことを本に掲載しました。
今までは、多賀秋五郎先生がお書きになった「飛騨史の研究」と云う本に記された場所=現在の国府町鶴巣地区
というのが通説となっていましたが、この方便法身尊形の裏書を分析してみると、飛騨市河合町保の一帯である
ことがわかりました。
同じように、徳永郷という場所も、この裏書から、高山市清見町の西ウレ峠より北の地域であったことが証明されて
います。このように、こういった宝物を調査する事で、今から500年前のことが窺えると云う一端が有るんです。

また、六字名号、九字名号、十字名号については、浄土真宗の本山本願寺よりその時の当主が下付しています。
例えば、8代蓮如上人やその子供の9代実如上人・10代証如上人が、寺院が開かれた時に下付されたものが
現在も寺院や一般の家庭のお仏壇に残っています。
その時のご先祖が、浄土真宗を篤く信仰されていて、上納金を納められてその金額に応じて大きさの違うものを
下付されています。

また、その時代から100年ほど後になりますが、11代顕如上人や12代教如上人が下付されたものは、分析が必要
ですが、織田信長と戦った摂津石山本願寺の戦いのときに、出陣したお礼として下付されたものが多いです。
そういう事実がわかりますので、こういったシラミツブシの調査が飛騨の歴史を解明する上で非常に重要になります。

今回、5月22日から24日まで、のべ20カ所の寺院や個人宅を調査させていただきました。
私も同行して大変びっくりしたのですが、白川村の方にあるお仏壇が大変大きい事に驚きました。
また、「うちには何もありません」といっておられたお寺を訪問した所、実際には御本尊の下あたりに保管されている
のに、ご住職ですら御存じない物が出てきたり、かなりの物が発見されました。
個人宅でも、毎日拝んでおられるお仏壇に、実は蓮如上人筆の南無阿弥陀仏の六字名号がかけられていたり、
実如上人のものであったり、「毎日拝んでいるのにそんなに大変なものだとは思わなかった。知らなかった。それは
もっと大事にしないといけないですね。見て頂いて良かったです。」というお話しを沢山聞く事が出来ました。
250614白川郷の浄土真宗調査について
最終的には、20カ所で30点以上の宝物を確認、あるいは発見されたわけですが、それはそれは、新しい発見の
連続でした。とある寺院では、飛騨の歴史の事を書いた『飛州志』や『斐太後風土記』には、永正元年(1504)甲子
の草創と書いてあるのに、実際に確認した方便法身尊形には、「癸亥」という文字が確認出来、実際はその一年前
の元亀三年(1503)であることがわかったということもありました。そんな発見も有った次第です。

また、金龍先生のお手伝いをしていて大変勉強になったことは、和紙に墨で書かれたものが、400年以上年代が
経つと何故かわかりませんが、紙面に黒いドットが表れるのでそれが本物かどうかの証拠になるということや、
方便法身尊形の着物の模様がその年代によってデザインが異なる事。
当時描かれている絵像が絹に描かれているので、そのタテ糸と横糸の本数に依っても年代が特定できるといった
かなり専門的なことを知ることが出来ました。

また、同じ南無阿弥陀仏の文字でも、下賜した人に依って書き方が異なり、南無阿弥陀仏の南無阿の3文字が
くっついていたり、文字の跳ねが違ったり、また楷書か草書かでも誰が書いた物か、筆跡で鑑定できると云う事
でした。さすがは、1500点以上も同じ物を比較調査されている金龍先生だけあって、とても専門的なお話しを
窺う事が出来ました。
私も竹田さんのお手伝いをして飛騨のあちこちの寺院で調査をさせていただき、今まで御本尊を多数見てきました
が、今回の調査は大変勉強になりました。

この調査報告書は、いずれ教育委員会か、耕雲塾のほうで本にまとめられると思いますが、興味のある方は
楽しみになさってください。また、今回調査できなかった場所もまだまだありますので、今後、時間を取って調査
していきたいと思います。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、第三週ですので飛騨市の話題。
今日のお話しの続きで、飛騨北部の浄土真宗のご本尊のお話しをさせて頂きます。どうぞお楽しみになさってください。
本日はこの曲でお別れです。三善英史で「雨」をお届けします。それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太
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この記事へのコメント

寺院調べ大好き老人 さんのコメント

飛騨の歴史再発見、2012年07月13日放送分 牧戸城の謎について、渡邊家が寺ケ洞に長瀧寺の末寺長専寺を建て供養されていたが、一代で終わった寺院だった。で話は終わっていますが、富山市内に牛丸山長専寺(住職渡邊さん)天保4年(1833年)頃から存在してるようです。富山県南砺市上見城の城主 渡邊 照についても探究してほしいです。 
Posted on 2016年11月23日 12:36

rekisyrekisy さんのコメント

寺院調べ大好き老人様

貴重な情報をありがとうございます。
浄土真宗本願寺派の寺院として存在するようですね。
さっそく調べてみます。ありがとうございました。
Posted on 2016年11月28日 22:52

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