6月4日放送分_細江歌塚について
(6月4日放送分154回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けして
まいります。
さて、気が付いてみるともう6月に入りました。
毎年のことですが、6月1日には、衣替えがありましたね。私たち社会人は、あまり
衣替えといっても制服のある企業でしか、お目にかかることは有りませんが、子供
たちを見ていますと、黒いイメージから白い制服のイメージになりますから、よく
わかりますね。
ただ、今年は、気温が低いですから、いくら子供が風の子とはいっても、ちょっと
寒いのではないでしょうか。
こういう気温の上下する時は、体温調節がいくら若くてもうまく出来ないと思います
ので、どうぞ、カーディガンとか一枚はおるように、お子さんに云われるといいと
思います。
先週も少しお話しましたが、この低温現象。どうも、世界的な兆候のようです。
先月、アイスランドの火山が噴火して、一時よりは落ち着きましたが、火山灰が
空気中に漂っていて、太陽の光を遮断しています。当然、地表に届く太陽光線、
特に赤外線を遮断していますから、なかなか気温が上がりません。
そんなこともあって、シベリアの高気圧が勢力が強くて、日本上空を覆っています。
そのためか、太平洋高気圧がなかなか北に上がって来れないという状況のようです。
この気温が低いという状況ですが、天保7年の大飢饉の時も同じような状況だったよう
です。この時は、高山市史によりますと、
「5月この頃雨多く6月土用に入っても止まず。気温降下して老幼綿入れを着る。
諸作不熟。栗栃の実まで熟さず。 9/3米価高値につき酒造高三分の2を減石させる。
11/23米価高値につき、酒造高を減らさせ売出樽数も制限。 12/22酒造高を4分の1に。
冬、山中村々の窮民、乞食のため高山町へ入り来るもの千人内外あり。飢寒によって
餓死するもの相次ぐ。浅井屋善右衛門は自費を投じて小屋を建てて雨風をしのぐに
使わせ、市中の裕福な人々は粥を煮て与えるが力及ばず。」などという記録が有ります。
世界的にもタイの政権争いがクーデターを巻き起こしたり、北朝鮮の情勢が非常に不安定
になってきています。こういうときは、経済も非常に不安定になりますから、やはり、
暑いときは暑く。寒い時は寒くなってくれないと、なかなか経済も安定しませんね。
さて、前置きが長くなりましたが、本日の放送に移りましょう。
今日の放送は、先週予告をしましたように、5月12日に飛騨市総合センターでありました、
講演会の内容についてお話したいと思います。

現在、飛騨市古川町と高山市国府町を中心に、「応永飛騨の乱600年祭」というイベント
を計画しております。一番メインのイベントになりますのは、9月に行う予定の姉小路氏・
廣瀬氏600回忌法要と、飛騨市美術館で行います記念展示会ですが、そのプレイベント
として、飛騨市の方で市民講演会を毎月開催しております。
次回は、6月9日に、国府町の郷土史研究家 菅田一衛先生によります「応永飛騨の乱と
廣瀬氏一族について」というお話をしていただきます。7時半から。入場料500円ですので、
飛騨市総合会館の方へお越しいただきたいと思います。
その市民講演会の一つとして、杉崎の斎藤実先生に、5月12日にご講演をいただきました。
先生には、「細江歌塚と姉小路氏一族」という題名でお話いただきました。

皆さんは、「細江歌塚」と聞いて、どこにあるかご存じでしょうか。
これはJRの杉崎駅の北100mのところに、信号が有りますが、その交差点のところに、
ある歌塚です。
ここには、飛騨の国司を務めた姉小路基綱と言う人とその息子の済継と言う人の和歌を
刻んだ石碑が立っています。そこには、二つの和歌が刻まれています。
ちょっとご紹介しますと、まず姉小路基綱の和歌として、
「ふるさとに、残る心はこころにて、みはなほひなの 身をなげくかな」
と言う歌と。済継の和歌として
「くもをわけ にごりをいてし こころもや おなじはちすの つゆの月影」
という二つの歌が刻まれています。
私も勘違いしていたのですが、この石碑、高山の国学者 田中大秀が建てた物だと
思っておりました。そうしたら、斎藤先生のお話でよくわかったのですが、大秀は
此の石碑の建立を願っていたらしいのですが、夢が実現せずに亡くなってしまった。
そのあと、大秀の門人や、古川の有志の方々が中心になって、明治時代にこの石碑が
建立されたということだそうです。後半ではその辺を詳しくお話しましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「狩人 あずさ2号」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、「細江歌塚と姉小路氏一族」というお話をしています。
お話くださいました斎藤実先生は、この歌塚のすぐ近くにお住まいになっていて、
子供の時からこの歌塚を見て育ったそうです。そういうこともあって、興味を持たれ、
姉小路氏の研究をなされたという事でした。
その歌塚の裏側に、この石碑を建立された方々のお名前が書かれています。
その中には、田中大秀の四天王の一人といわれた蒲八十村ですとか、野村健平、後藤基弘、
後藤重郷などといった門人たちの名前から、実際に建立に携わった、国井清廉(きよかど)、
杉下太郎右衛門、岡村利右衛門、桐山源兵衛といった、明治時代の名士の方々46人のお名前
が刻まれていたそうです。
なかでも、桐山源兵衛は、初代の古川町長の桐山玄豹さんのことですが、この歌塚の落成式
がきっかけで、新撰飛騨誌の編集を志したといわれ、町長辞任後、その研究に没頭されま
したが、6年余りにて亡くなったために、完成が見られず、収集した資料をもとに、岡村利平
氏が編纂されたというお話が残っています。
さて、この歌碑の建立のきっかけとなったのが、有名な国学者 田中大秀ですが、田中大秀
は、安永六年、高山一之町、現在の下一之町の鍋島茶舗のところで、生まれ、幼年より書や
歌を好み、寛政の終わり頃、京都に上り、本居宣長の門に入りました。
その後、宣長が没したため、伊勢松坂の宣長の養子本居太平に学んで高山に帰郷し、国学や
和歌を広めました。門弟も多く、その影響を受けた人は、飛騨はもとより、遠く遠江(今の
静岡県)や越前(福井県)、越中(富山)などにも及んでいます。
あまり知られていませんが、越中の富山城主の前田公も大秀の弟子の一人であったとされて
います。
なぜ、大秀が、姉小路基綱や済継を崇拝したか、ということですが、大秀は、この二人が、
飛騨文学の先駆けとしての功績があるとして、顕彰して永く後世に伝えようとしたのでした。
二人が京都と飛騨を行き来していたようですが、どうやら飛騨の地でなくなったということ
がわかり、二人の墓地を捜して、その場所にこの歌碑を建設しようとしたらしいのです。
その師匠の思いをかなえようと、門人たちも協力して墓探しをしました。
しかし、結局その墓地が見つからず、やむなく姉小路の家があった附近の地に歌碑を建設
しようと、歌も選定し、碑文のほうも天保7年(1836)正親町三条実愛(さねあい)に書いて
もらっていましたが、冒頭に申上げたとおり、天保7年は、大変な天保飢饉の真っ最中で、
なかなかこういう石碑を建てようと言う機運が盛り上がりませんでした。
そうこうしているうちに、弘化四年(1847)に71歳でこの世を去りました。
そういったことが、弟子たちの思いとして伝わり、また数々の紆余曲折を経た上で、時を
下がる事、明治20年(1887)になってようやく完成したのがこの細江歌塚です。
大秀が建立をしようと考えた天保七年からすると実に49年もたってからの建設となったわけです。
ところで、姉小路基綱と言う人はどういう人だったかと申しますと、飛騨の国司として、
室町時代に京都の町を焼き尽くしたといわれる応仁の乱の前後=15c中ごろに活躍していた
人です。
もともと姉小路家は、家綱が飛騨国司として建武2年(1332)に認められてから、6代ほど後の
人ですが、亡くなる前、文明17年(1485)には正三位。明應元年(1492)には参議。明應2年(1493)
には権中納言にまでなられた方です。
中納言と言うと今で言う国務大臣クラスでしょうか。
飛騨からこういった方がかつて出られた事があるんですね。
公家として宮中を中心に活躍され、特に和歌の達人として、雪玉和歌集に多く取り上げられる
など、京の都では歌の道で相当な地位を築かれた方として有名です。
また、息子の済継も参議までになった方で、碧玉和歌集に取り上げられるなど、こちらも和歌で
地位を築かれた方です。基綱は永正1年(1504)に63歳で、済継は、48歳の若さで、共に飛騨で
なくなられました。また、基綱の娘、済子(せいし)は、匂当内侍として宮中では大変有名な
方でしたし、基綱の娘は、浄土真宗の蓮如上人の5人目の正妻として嫁がれました。
このお話は、7月14日に東等寺の竹田さんがお話されますので、そちらでお聞き下さい。
もっと詳しくお話したいのですが、放送時間のほうが限られておりますので、詳しくは今度
発行します記念誌や、9月の展示会のほうで、ご覧いただきたいと思います。
さて、本日もお時間となりました。来週は、今回のイベントの一環として、先日、国府の
廣瀬城と高堂城に上ってまいりましたのでそのお話をしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は「しばたはつみ マイラグジュアリーナイト」
ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けして
まいります。
さて、気が付いてみるともう6月に入りました。
毎年のことですが、6月1日には、衣替えがありましたね。私たち社会人は、あまり
衣替えといっても制服のある企業でしか、お目にかかることは有りませんが、子供
たちを見ていますと、黒いイメージから白い制服のイメージになりますから、よく
わかりますね。
ただ、今年は、気温が低いですから、いくら子供が風の子とはいっても、ちょっと
寒いのではないでしょうか。
こういう気温の上下する時は、体温調節がいくら若くてもうまく出来ないと思います
ので、どうぞ、カーディガンとか一枚はおるように、お子さんに云われるといいと
思います。
先週も少しお話しましたが、この低温現象。どうも、世界的な兆候のようです。
先月、アイスランドの火山が噴火して、一時よりは落ち着きましたが、火山灰が
空気中に漂っていて、太陽の光を遮断しています。当然、地表に届く太陽光線、
特に赤外線を遮断していますから、なかなか気温が上がりません。
そんなこともあって、シベリアの高気圧が勢力が強くて、日本上空を覆っています。
そのためか、太平洋高気圧がなかなか北に上がって来れないという状況のようです。
この気温が低いという状況ですが、天保7年の大飢饉の時も同じような状況だったよう
です。この時は、高山市史によりますと、
「5月この頃雨多く6月土用に入っても止まず。気温降下して老幼綿入れを着る。
諸作不熟。栗栃の実まで熟さず。 9/3米価高値につき酒造高三分の2を減石させる。
11/23米価高値につき、酒造高を減らさせ売出樽数も制限。 12/22酒造高を4分の1に。
冬、山中村々の窮民、乞食のため高山町へ入り来るもの千人内外あり。飢寒によって
餓死するもの相次ぐ。浅井屋善右衛門は自費を投じて小屋を建てて雨風をしのぐに
使わせ、市中の裕福な人々は粥を煮て与えるが力及ばず。」などという記録が有ります。
世界的にもタイの政権争いがクーデターを巻き起こしたり、北朝鮮の情勢が非常に不安定
になってきています。こういうときは、経済も非常に不安定になりますから、やはり、
暑いときは暑く。寒い時は寒くなってくれないと、なかなか経済も安定しませんね。
さて、前置きが長くなりましたが、本日の放送に移りましょう。
今日の放送は、先週予告をしましたように、5月12日に飛騨市総合センターでありました、
講演会の内容についてお話したいと思います。

現在、飛騨市古川町と高山市国府町を中心に、「応永飛騨の乱600年祭」というイベント
を計画しております。一番メインのイベントになりますのは、9月に行う予定の姉小路氏・
廣瀬氏600回忌法要と、飛騨市美術館で行います記念展示会ですが、そのプレイベント
として、飛騨市の方で市民講演会を毎月開催しております。
次回は、6月9日に、国府町の郷土史研究家 菅田一衛先生によります「応永飛騨の乱と
廣瀬氏一族について」というお話をしていただきます。7時半から。入場料500円ですので、
飛騨市総合会館の方へお越しいただきたいと思います。
その市民講演会の一つとして、杉崎の斎藤実先生に、5月12日にご講演をいただきました。
先生には、「細江歌塚と姉小路氏一族」という題名でお話いただきました。
皆さんは、「細江歌塚」と聞いて、どこにあるかご存じでしょうか。
これはJRの杉崎駅の北100mのところに、信号が有りますが、その交差点のところに、
ある歌塚です。
ここには、飛騨の国司を務めた姉小路基綱と言う人とその息子の済継と言う人の和歌を
刻んだ石碑が立っています。そこには、二つの和歌が刻まれています。
ちょっとご紹介しますと、まず姉小路基綱の和歌として、
「ふるさとに、残る心はこころにて、みはなほひなの 身をなげくかな」
と言う歌と。済継の和歌として
「くもをわけ にごりをいてし こころもや おなじはちすの つゆの月影」
という二つの歌が刻まれています。
私も勘違いしていたのですが、この石碑、高山の国学者 田中大秀が建てた物だと
思っておりました。そうしたら、斎藤先生のお話でよくわかったのですが、大秀は
此の石碑の建立を願っていたらしいのですが、夢が実現せずに亡くなってしまった。
そのあと、大秀の門人や、古川の有志の方々が中心になって、明治時代にこの石碑が
建立されたということだそうです。後半ではその辺を詳しくお話しましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「狩人 あずさ2号」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、「細江歌塚と姉小路氏一族」というお話をしています。
お話くださいました斎藤実先生は、この歌塚のすぐ近くにお住まいになっていて、
子供の時からこの歌塚を見て育ったそうです。そういうこともあって、興味を持たれ、
姉小路氏の研究をなされたという事でした。
その歌塚の裏側に、この石碑を建立された方々のお名前が書かれています。
その中には、田中大秀の四天王の一人といわれた蒲八十村ですとか、野村健平、後藤基弘、
後藤重郷などといった門人たちの名前から、実際に建立に携わった、国井清廉(きよかど)、
杉下太郎右衛門、岡村利右衛門、桐山源兵衛といった、明治時代の名士の方々46人のお名前
が刻まれていたそうです。
なかでも、桐山源兵衛は、初代の古川町長の桐山玄豹さんのことですが、この歌塚の落成式
がきっかけで、新撰飛騨誌の編集を志したといわれ、町長辞任後、その研究に没頭されま
したが、6年余りにて亡くなったために、完成が見られず、収集した資料をもとに、岡村利平
氏が編纂されたというお話が残っています。
さて、この歌碑の建立のきっかけとなったのが、有名な国学者 田中大秀ですが、田中大秀
は、安永六年、高山一之町、現在の下一之町の鍋島茶舗のところで、生まれ、幼年より書や
歌を好み、寛政の終わり頃、京都に上り、本居宣長の門に入りました。
その後、宣長が没したため、伊勢松坂の宣長の養子本居太平に学んで高山に帰郷し、国学や
和歌を広めました。門弟も多く、その影響を受けた人は、飛騨はもとより、遠く遠江(今の
静岡県)や越前(福井県)、越中(富山)などにも及んでいます。
あまり知られていませんが、越中の富山城主の前田公も大秀の弟子の一人であったとされて
います。
なぜ、大秀が、姉小路基綱や済継を崇拝したか、ということですが、大秀は、この二人が、
飛騨文学の先駆けとしての功績があるとして、顕彰して永く後世に伝えようとしたのでした。
二人が京都と飛騨を行き来していたようですが、どうやら飛騨の地でなくなったということ
がわかり、二人の墓地を捜して、その場所にこの歌碑を建設しようとしたらしいのです。
その師匠の思いをかなえようと、門人たちも協力して墓探しをしました。
しかし、結局その墓地が見つからず、やむなく姉小路の家があった附近の地に歌碑を建設
しようと、歌も選定し、碑文のほうも天保7年(1836)正親町三条実愛(さねあい)に書いて
もらっていましたが、冒頭に申上げたとおり、天保7年は、大変な天保飢饉の真っ最中で、
なかなかこういう石碑を建てようと言う機運が盛り上がりませんでした。
そうこうしているうちに、弘化四年(1847)に71歳でこの世を去りました。
そういったことが、弟子たちの思いとして伝わり、また数々の紆余曲折を経た上で、時を
下がる事、明治20年(1887)になってようやく完成したのがこの細江歌塚です。
大秀が建立をしようと考えた天保七年からすると実に49年もたってからの建設となったわけです。
ところで、姉小路基綱と言う人はどういう人だったかと申しますと、飛騨の国司として、
室町時代に京都の町を焼き尽くしたといわれる応仁の乱の前後=15c中ごろに活躍していた
人です。
もともと姉小路家は、家綱が飛騨国司として建武2年(1332)に認められてから、6代ほど後の
人ですが、亡くなる前、文明17年(1485)には正三位。明應元年(1492)には参議。明應2年(1493)
には権中納言にまでなられた方です。
中納言と言うと今で言う国務大臣クラスでしょうか。
飛騨からこういった方がかつて出られた事があるんですね。
公家として宮中を中心に活躍され、特に和歌の達人として、雪玉和歌集に多く取り上げられる
など、京の都では歌の道で相当な地位を築かれた方として有名です。
また、息子の済継も参議までになった方で、碧玉和歌集に取り上げられるなど、こちらも和歌で
地位を築かれた方です。基綱は永正1年(1504)に63歳で、済継は、48歳の若さで、共に飛騨で
なくなられました。また、基綱の娘、済子(せいし)は、匂当内侍として宮中では大変有名な
方でしたし、基綱の娘は、浄土真宗の蓮如上人の5人目の正妻として嫁がれました。
このお話は、7月14日に東等寺の竹田さんがお話されますので、そちらでお聞き下さい。
もっと詳しくお話したいのですが、放送時間のほうが限られておりますので、詳しくは今度
発行します記念誌や、9月の展示会のほうで、ご覧いただきたいと思います。
さて、本日もお時間となりました。来週は、今回のイベントの一環として、先日、国府の
廣瀬城と高堂城に上ってまいりましたのでそのお話をしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は「しばたはつみ マイラグジュアリーナイト」
ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太