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6月18日放送分_応永飛騨の乱について

(平成22年6月18日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいり
ます。

 今週の初めに、梅雨に入りました。例年より3日から一週間ほど遅い、梅雨入り
とのことですが、今年は雨が少ないですよね。うちに小さな庭があるのですが、
石灯篭についている苔を何とか育てたいといつも気にしているのですが、ああいう
苔の類は、もともと水分の多い所に生えますので、今年のように雨が少ないと、
乾いてしまって、なかなか根がちゃんと付いていません。
水をかけると、捲き方によっては、根元からはがれてしまいます。少しづつ、
じょうろでかけるようにかけないといけません。地面もからからに乾いています
から、どんなにたくさん水をまいてもすぐに染み込んでしまいます。
うちの庭でさえこんな状態ですから、農業をやっておられる方は、水まきがたい
へんでしょうね。
高山は先日の雷で被害がありませんでしたが、今年は、益田地方では雷を伴って
大変大きな氷が降ったそうです。つい先日、金山の先生のお宅にお邪魔したときに、
「高山ではひょうは降りませんでしたか?」といわれました。

先生のお宅では、直径が38mmものおおきな氷の塊が降ってきたそうです。
おかげで、この季節に、益田地方では、ほうばずしを各家で作られるのですが、
そのほうばが、そのひょうでやられてしまって、近くでは、ほうばが全く取れ
なかったそうです。高山の名物にほうばみそがありますが、それもほうの葉っぱ
を使います。今年は、益田郡地方では、あまりほうばをとることができないそう
です。

さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先日お話しましたように、今年9月にかけて古川と国府町地区を
中心にして、「応永飛騨の乱600年祭」というイベントを展開します。
今年が応永18年(1411)に起った応永飛騨の乱から数えて、599年目にあたるという
ことで、600年記念法要、記念講演会、記念展示会などを企画しております。

すでに、市民講演会と称して、姉小路氏や廣瀬氏についての勉強会を古川地区・
国府地区で展開しておりますが、現在、その準備をいろいろと進めております。
今日のお話は、その中間報告のお話をしていきたいと思います。

 この番組でも再三、お話しておりますが、この応永飛騨の乱というのはどう
いう乱であったか、改めておさらいをしてみましょう。
いろいろと調査をしておりましたら、慶応大学文学部非常勤講師の大藪海先生が、
最近、この乱について論文を発表されていることがわかりました。
従来の研究とは異なりますので、最新の研究ということでご紹介したいと思います。

論文をご紹介する前に、ちょっと時代背景を振り返ってみたいと思います。
時の将軍は、京都の金閣寺を作った足利義満が亡くなって、次の四代足利義持の
時代になっています。
このころの政府は、現在の国会で、自民党と民主党がいれかわったように、南朝と
北朝の天皇による二つの政権があって、非常に混沌としていました。
南朝方は、後醍醐天皇からはじまり、後村上天皇に至るまで、三代の天皇を中心と
した政治がおこなわれていました。
その南朝方から飛騨の国司として任じられていたのが、姉小路氏というわけです。

一方で、北朝方は、武家による政治を進めようとしていました。そこで将軍足利家は、
各国に対して守護を任じ、その守護が治め切れない場所を収めていたのが、守護代
とか地頭という任を任せられた武家たちでした。
したがって、ここ飛騨におきましても、南朝の天皇が任じた、国司姉小路氏を中心
とした一派と、北朝が任じた京極氏という守護という二つの政府が治めていたわけ
です。

今までの研究では、山科家の所領をめぐる問題に端を発したのがこの応永飛騨の乱
という乱であるとの考え方が主流でした。
再三にわたって、問題となっていたのが、現在、国府町の広瀬という名前の残って
いる場所=武安郷という土地の所有権問題です。
この土地は、確かな資料によると應安五年(1372 )に、江名子・松橋を領有していた
山科家が、垣見蔵人という人に横領されたため、幕府に訴えたとき、12/14に廣瀬
左近将監に将軍より命令が下された書状が残っています。
この書状が広瀬氏の名が出てくる初見です。

この土地=武安郷と現在その場所が確定していない富安郷という場所が、いつしか、
将軍の持ち物になってしまっていました。

よく調べてみますと、その前の年、應安4年(1371)年にまだ足利氏と斯波氏が勢力
争いをしていた頃に、飛騨国司の姉小路氏が富山を知行していた斯波方の桃井氏に
援軍を出し、大敗しています。
当時、負けた方は、勝った方に知行地を分譲するというのが、ならわしでした。
そのため、姉小路家では、富安郷を足利氏に渡し、武安郷は廣瀬が将軍に敵対した
ため欠所となっています。この続きは後半でお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲は「井上陽水 傘がない」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、應永飛騨の乱600年祭の中間報告についてお話しています。

その後、康暦元年(1379)足利義満は武安郷を、醍醐寺理性院に料所として与えてしまい
ます。ところが、広瀬は相変わらずこの武安郷を知行したままになっています。
京都の山科家では、自分の土地が勝手に垣見にとられ、その後廣瀬にとられたと思って
いますから、再三にわたり将軍に返還してもらうように働きかけていました。

しかし、将軍は醍醐寺の領地ということで、山科家では自分の土地であることを主張
するのをあきらめ、できれば京都の近くの丹波に知行地を与えてほしいと、幕府に
嘆願を出しています。そういった古文書の存在から今までは、山科家の領有地争い
という事が応永飛騨の乱の勃発の原因であると考えられてきました。

確かに土地の所有権をめぐっての争いがありましたが、大藪先生は、山科家が家来を
飛騨に遣して調査させ、その家来が主人に宛てた手紙を発見され、
「姉小路尹綱が斯波義将から頂いた土地であるということを主張している」
ことを指摘されました。

つまり、尹綱の背後に斯波義将がいて、当時の足利家をとりまく、管領の利権争いも
絡んでいたと指摘されています。
つまり、義満が亡くなってすぐに斯波義将が亡くなり、義持が実権を握るにあたって
斯波氏の勢力を排除する動きがあったというのです。
今までの研究では、姉小路尹綱と広瀬常登の二人が殺され、乱が終結したとされて
いましたが、その戦後処理を見ますと、姉小路の所領はそのまま姉小路家に戻され、
武安郷や石浦、江名子など従来山科家の所領であったものは、欠所として一時的に
幕府が預かり、その後守護の京極氏に預けられています。

山科家をめぐる土地争いであれば、尹綱と常登を排除すれば山科家に所領を返して
あげればよかった。そうしなかったことからも、斯波氏の排除が目的だったとされて
います。

また、先ほどお話した富安郷ですが、義満がなかなか富安郷という場所を放そうと
しなかったことも注目されます。
現在、この富安郷がどこにあったか、スタッフの間でも議論が行われていますが、
浄土真宗のお寺がこの時代に作られていて、河合町にある羽根の願徳寺、新名の願念寺、
保の憶念寺の本尊裏書などに、富安郷の文字がみられることから、小鳥川の流域エリア
で、そこには金山があったために、そのことが理由ではなかったかという説と、
国府町の広瀬関係の文書に古河郷と武安郷から数町歩づつを供出して富安郷を作った
という説=これは、古川町の大野から少し上の所に大日という場所がありますが、
あの辺りではなかったかという説と2つの説があります。

そうしているうちに、将軍義満が亡くなり、義満の右腕で姉小路氏の後ろ盾をしていた
斯波義将も亡くなり、四代将軍義持の時代になりました。
義持は、近江と隠岐の京極氏、越前の朝倉氏、信州の小笠原氏、甲斐の武田氏に命じて
斯波氏の勢力下にあった姉小路尹綱と広瀬常登の2人を征伐する命令を出しました。
これは、義満政治から脱却するために、斯波氏の勢力から、義持派の勢力に切り替わっ
たことを意味します。

大将を命ぜられた京極氏は、室町幕府においては、細川、畠山、斯波の三管領の下で、
四職といって赤松、一色、山名と並ぶ大守護でした。
何人の兵が送られたかは明らかではありませんが、続太平記という軍記物には、
5000人もの兵が飛騨に攻め入ってきたと書かれています。

最終的に飛騨に攻め入ってきた全軍がどこでどう戦ったか、これもよくわかりません。
蛤城のあった古河城の付近であるとか、小島城付近だとか、もっと北の小谷城付近だ
とかいろいろといわれています。
しかし、最終的に、千人塚が国府町の支所の裏にあったり、姉小路尹綱と広瀬常登の
首塚と称される場所が、国府町の廣瀬神社に伝わっていることからすると、一番南の
古河城あたりではなかったかと思われます。
現在、その場所を特定すべく、私どものスタッフが調査しております。
いろいろとわかってきておりますので、これについては、9月の展示会で発表したいと
思っておりますので、そちらの発表をお楽しみにしていただきたいと思います。

また、姉小路氏・広瀬氏のゆかりの展示ということで、9/4~9/26まで古川町の飛騨市
美術館にて展示会を開催しますが、こちらにも今まで発表されていなかった数々の物を
展示できる見通しになってまいりました。
過去を振り返ってみても、最近行われた展示会でも、昭和9年に真宗寺で行われた展示会
が一番新しいものですから、おそらく史上初めての量と内容の展示会になる見通しです。

この機会に、ぜひ飛騨の中世について、いろいろと知っていただければと思います。
どうぞ、お楽しみに!

最後にちょっとここでお知らせがあります。来週6/24、午後7時より名張公民館にて
市民講演会を行います。今度の行使は前郷土館長の田中彰先生に「広瀬城と高堂城に
ついて」お話しいただきます。資料代400円が必要ですが、ぜひお越しください。
駐車場が少ないので、アピタの駐車場から歩いていただくか、乗り合わせてお越し下さい。
6月18日放送分_応永飛騨の乱について
さて、本日も時間となりました。来週は、第四週ですのでいつもなら匠の話をお話する
週ですが、実は先日、行われました市民講演会のお話をしたいと思います。
今日のお話の続きで、「廣瀬氏についてのお話」と、その時資料で配られました
「和佐香姫の伝説」についてお話します。

本日はこの曲でお別れです。 曲は「かぐや姫 賀茂の流れに」をお届けします。
ではまた来週お会いしましょう!

徳積善太
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