6月24日放送分_廣瀬氏とわさか姫の伝説について
(平成22年6月24日第157回放送分)
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けして
まいります。
今年の6月は、いつもより非常にお客様が少ないような気がしますが、いかがで
しょうか?この前、朝市のおばさんにお話を伺いましたら、「今年は客が少ない上
に、外国の人ばっかやで、ちっとも売れんのやさ。野菜とかおいとっても、地元の
人も少ないし、商売あがったりなんやさ。」というお話でした。
旅館やホテルを見ても、お客さんが少ないので、修学旅行の学生を入れておられたり、
台湾の観光客が多いような気がします。観光協会の統計によりますと、昨年、飛騨
高山へ訪れた観光客数は、298万6千人あったそうです。
国内不景気でマイナス要因が多い中で、一昨年ミシュランの「日本で必ず訪れるべき
まち」に最高の三ツ星でランクされたこともあり、全国的に全国を訪れた外国人観光客
数678万人と前年に対して-18.7%と落ち込む中で、高山は126870で、対前年-8.6%と
なり、国内外とも全国ほどの落ち込みはなかったとの事でした。
しかし、長引く不況の影響がボディーブローのように徐々に効いてきている中で、
ビジネスホテルの乱立や、行政予算の削減等で、高山はもとより、周辺地域の支所
地域でのイベントなどの開催が厳しくなってきています。その状況を考えると、観光
産業が多い飛騨地域においては、今後どこに需要を求めるかが課題だと思います。
私も、微力ながら、高山の魅力、高山の文化の底力、そういったものを、少しでも
掘り起こすために、この番組を通じて、まずは地元の皆さんに、高山の魅力を再発見
していただけるように頑張りたいと思います。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
さて、冒頭からちょっと重たい話になりましたが、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先日もお話しましたように、今年9月にかけて古川と国府町地区を
中心にして、「応永飛騨の乱600年祭」というイベントを展開します。今年が応永
18年(1411)に起った応永飛騨の乱から数えて、599年目にあたるということで、600
年記念法要、記念講演会、記念展示会などを企画しております。すでに、市民講演会
と称して、姉小路氏や廣瀬氏についての勉強会を古川地区・国府地区で展開して
おりますが、現在、その準備をいろいろと進めております。

今日のお話は、先日行いました市民講演会の内容から、広瀬氏についてのお話と、
その時に配られました資料にございました「和佐香姫の伝説」のお話をしたいと思い
ます。
去る6月9日(水)に午後7時半から、飛騨市総合センターの視聴覚室に於いて、
国府町の郷土史研究家 菅田一衛先生にお話をいただきました。先生は、86歳と
ご高齢で、しかも当日体調があまりすぐれなかったこと。ご本人も後ほどおっしゃ
っていましたが、思ったことの1割しか話せなかったとおっしゃっていました。
確かに、久しぶりの講演ということで、国府町の歴史の話。条里制が行われた頃からの
支配者がどのようになったかという話が中心になってしまい、肝心の廣瀬氏の話が
あまり出ませんでした。楽しみにしてくださった方には、大変申し訳ございません
でした。主催者側の一人として、お詫び申し上げます。
廣瀬という名前は、国府町に廣瀬町、上廣瀬、広瀬城などという名前が残っていますが、
室町時代の前期から天正7年に三木氏一族が飛騨を平定するまで、およそ300年にわたって、
国府町の上廣瀬・廣瀬地区を知行していた豪族でした。一般には、上廣瀬にある「桜野
公園」あの桜は、広瀬山城守が奈良の吉野から持ってきたものであるという伝承があり、
地元では、田植唄などにも取り上げられて、いい殿様だったととりあげられています。
ただし、広瀬氏一族は、どういう出自の人なのか、どうしてこの地域を支配することが
可能だったかについては、伝承や伝説の域を出ず、史実があまり残っていません。
昭和58年に地元の国府史学会が発行した国府史料という本には、中央の書類に出てくる
廣瀬氏と、地元に残る伝承をまとめた唯一の本です。これによりますと、應安5年(1372)
に京都の山科家古文書に出てくる廣瀬左近将監という人が古文書で確認できる「廣瀬氏」
という名前の初見となっています。
どうもその頃までは、武安郷は公家の山科家の領地だったと思われます。
その後、應安5年以降は武安郷は広瀬氏が知行する土地だったようです。
そのため別名廣瀬郷とも言われています。
この武安郷は、その後広瀬氏が公方に敵対したため、欠け所となったり、あるいは義満が
醍醐寺理性院に与えられたり、守護の京極氏に与えられたりして、所有者が二転三転する
という運命をたどりました。
このつづきは後半で詳しくお話したいと思います。ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「ザピーナッツで 恋のバカンス」をお届けします。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、広瀬氏と和佐香姫の伝説についてお話しています。
しかし、相変わらず、広瀬氏がその地域を領有していたようで、京の都から遠く離れた
飛騨の地では、京都の公方の思惑どおりに事が進まなかったようです。
結果的に、広瀬氏は、この地をずっと知行しており、とうとう永享元年(1429)に正式に
廣瀬氏に廣瀬郷が変換されました。
したがって、それまでの50年ほどは、持ち主と実際の知行者がことなる混沌とした時代を
過ごし、そのあと、永享元年から三木氏に滅ぼされる天正7年(1579)までの150年も廣瀬
氏が知行していたということになります。
その後、滅ぼされた廣瀬氏は、天正11年9/19に広瀬山城守は亡くなり、その後は皆さん
ご存知のように、金森氏が飛騨に入国する天正13年時点までは、越前大野に逃げ込み、
金森が飛騨入りする道案内を務めたとされています。
しかし、元の土地を論功行賞として期待していた廣瀬氏でしたが、結果的には、廣瀬郷を
追われることになり、その子孫は四散します。
私が調べたところでは、広瀬氏の子孫の行先は、高山、滋賀県、岐阜県の坂内村、富山県の
婦中町などとなっております。
ただし、もともとの由緒がはっきりしない上に、各家に伝わる廣瀬家略記が、たいてい江戸
時代中期に書かれたものが多く、信憑性に乏しいのが実状です。
国府町の郷土史研究家菅田先生を始めとする方々が、昭和58年頃に、広瀬氏の400回忌法要
を国府町で務められたことがあり、その折に全国から廣瀬氏の子孫の皆さんが国府町に
集まったことがあったそうです。
その時に上廣瀬にある廣瀬氏の墓に、供養するための石碑が建設されたり、ゆかりの高堂城
跡に石柱を建設されました。
その時に、広瀬氏一族の顕彰をされたそうですが、元郵政大臣の小池信三氏も廣瀬氏の子孫と
いうことで顕彰活動に参加されたと伺っております。
また、史実は確認していませんが、現在の大分県知事も廣瀬さんという方で、その祖先が
国府町だという伝承があるとのことでした。
さて、講演会当日に配布された資料に「和佐香姫の伝説」というのがありましたので最後に
ご紹介します。
これは、少し長いので要約してお話します。
「応永飛騨の戦いの時、広瀬から上広瀬へ行く宮川べりの道を、一人の姫とその郎従が3人、
夜道を戦火を逃れて逃げて来たが、上広瀬の人家の所まで来ると道ばたにへたり込んでしま
った。やがて道ばたに泉が湧き出ているのを見つけ3人はそれを飲んで息を吹き返した。
この泉はその姫の名に因んで「わさか清水」と呼ばれ、またその近くの家は、その由緒に
よって清水という姓を名乗って居られる。(今は水が出ていませんが、その地が現存します。)
3人が上の一軒の家をみるとまだ灯りがある。

姫が、「戦に追われて、やっとここ迄来た者です。どうか少し休ませて下さい。」と頼むと、
夫婦は、温顔と親切な態度で招き入れた。次の日、姫が「私は姉小路の妻のわさか姫です。」
と言うと、夫婦は大変驚いて、「もう残党刈りも無いようです。どうかゆっくり何日でも
休んで居て下さい。」と慰めた。
やがて村の人々も、「勘次さんの家に姫が来てござる」と見舞いに寄ってくれるようになった。
やがて、姫が持参された三体の木像を、今の加茂神社のあたりの、村の中心部広場)に小さな
お堂を建て村の人々は「小山観音」といって大切にした。
ある夜、このお堂に盗人が入り、お像を持って逃げた。ところが盗人が村山まで来ると急に
重くなり、やがて石より重くなって持てなくなった。
盗人は村山の草むらの中へお像を投げ込んで、去って行った。ある夜、村山の長老のお爺さん
の夢枕に、「あの三体の一つは、私、菅原道眞である。あの木像は私の自刻像である。私は
この村山が非常に気に入った。どうかこの村山で私の像を守って貰えないか」と頼まれた。

驚いて早朝探しに行くと、確かに菅公像が草むらに落ちている。
村山という村は十四、五軒の小さな村であるが、村中が感激して、村の中央広場に天満神社を
建てることにした。一夜にして広場は松林になった。
建立が始まると、昼間は村人や大工が造るし、夜中になると、木を削ったり、木にミゾ穴を
掘ったり、刻んだりする音がする。「ああ、昼間は私たちが奉仕で仕事をしているが、夜に
なると神様が造っていて下さる」と言う話が広まった。
学問の神様ということで、今でもお参りに来る人もあり、数多くある村々の神社の中で、
格も高く、由緒も高い神社として、格別に尊敬されている。」ということです。
この伝説は、上廣瀬にある諏訪神社に伝わる「光寿庵の伝説」として。そして、国府町の村山
にある「村山天満宮」の伝説として、江戸時代に書かれた古文書に残っています。
この古文書は今度発刊します本に記載したいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週の放送は、今日の話に出て来た「光寿庵について」
お話したいと思います。
本日はこの曲でお別れです。 曲は「来生たかお Good Bye Day」をお届けします。
ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けして
まいります。
今年の6月は、いつもより非常にお客様が少ないような気がしますが、いかがで
しょうか?この前、朝市のおばさんにお話を伺いましたら、「今年は客が少ない上
に、外国の人ばっかやで、ちっとも売れんのやさ。野菜とかおいとっても、地元の
人も少ないし、商売あがったりなんやさ。」というお話でした。
旅館やホテルを見ても、お客さんが少ないので、修学旅行の学生を入れておられたり、
台湾の観光客が多いような気がします。観光協会の統計によりますと、昨年、飛騨
高山へ訪れた観光客数は、298万6千人あったそうです。
国内不景気でマイナス要因が多い中で、一昨年ミシュランの「日本で必ず訪れるべき
まち」に最高の三ツ星でランクされたこともあり、全国的に全国を訪れた外国人観光客
数678万人と前年に対して-18.7%と落ち込む中で、高山は126870で、対前年-8.6%と
なり、国内外とも全国ほどの落ち込みはなかったとの事でした。
しかし、長引く不況の影響がボディーブローのように徐々に効いてきている中で、
ビジネスホテルの乱立や、行政予算の削減等で、高山はもとより、周辺地域の支所
地域でのイベントなどの開催が厳しくなってきています。その状況を考えると、観光
産業が多い飛騨地域においては、今後どこに需要を求めるかが課題だと思います。
私も、微力ながら、高山の魅力、高山の文化の底力、そういったものを、少しでも
掘り起こすために、この番組を通じて、まずは地元の皆さんに、高山の魅力を再発見
していただけるように頑張りたいと思います。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
さて、冒頭からちょっと重たい話になりましたが、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先日もお話しましたように、今年9月にかけて古川と国府町地区を
中心にして、「応永飛騨の乱600年祭」というイベントを展開します。今年が応永
18年(1411)に起った応永飛騨の乱から数えて、599年目にあたるということで、600
年記念法要、記念講演会、記念展示会などを企画しております。すでに、市民講演会
と称して、姉小路氏や廣瀬氏についての勉強会を古川地区・国府地区で展開して
おりますが、現在、その準備をいろいろと進めております。

今日のお話は、先日行いました市民講演会の内容から、広瀬氏についてのお話と、
その時に配られました資料にございました「和佐香姫の伝説」のお話をしたいと思い
ます。
去る6月9日(水)に午後7時半から、飛騨市総合センターの視聴覚室に於いて、
国府町の郷土史研究家 菅田一衛先生にお話をいただきました。先生は、86歳と
ご高齢で、しかも当日体調があまりすぐれなかったこと。ご本人も後ほどおっしゃ
っていましたが、思ったことの1割しか話せなかったとおっしゃっていました。
確かに、久しぶりの講演ということで、国府町の歴史の話。条里制が行われた頃からの
支配者がどのようになったかという話が中心になってしまい、肝心の廣瀬氏の話が
あまり出ませんでした。楽しみにしてくださった方には、大変申し訳ございません
でした。主催者側の一人として、お詫び申し上げます。
廣瀬という名前は、国府町に廣瀬町、上廣瀬、広瀬城などという名前が残っていますが、
室町時代の前期から天正7年に三木氏一族が飛騨を平定するまで、およそ300年にわたって、
国府町の上廣瀬・廣瀬地区を知行していた豪族でした。一般には、上廣瀬にある「桜野
公園」あの桜は、広瀬山城守が奈良の吉野から持ってきたものであるという伝承があり、
地元では、田植唄などにも取り上げられて、いい殿様だったととりあげられています。
ただし、広瀬氏一族は、どういう出自の人なのか、どうしてこの地域を支配することが
可能だったかについては、伝承や伝説の域を出ず、史実があまり残っていません。
昭和58年に地元の国府史学会が発行した国府史料という本には、中央の書類に出てくる
廣瀬氏と、地元に残る伝承をまとめた唯一の本です。これによりますと、應安5年(1372)
に京都の山科家古文書に出てくる廣瀬左近将監という人が古文書で確認できる「廣瀬氏」
という名前の初見となっています。
どうもその頃までは、武安郷は公家の山科家の領地だったと思われます。
その後、應安5年以降は武安郷は広瀬氏が知行する土地だったようです。
そのため別名廣瀬郷とも言われています。
この武安郷は、その後広瀬氏が公方に敵対したため、欠け所となったり、あるいは義満が
醍醐寺理性院に与えられたり、守護の京極氏に与えられたりして、所有者が二転三転する
という運命をたどりました。
このつづきは後半で詳しくお話したいと思います。ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「ザピーナッツで 恋のバカンス」をお届けします。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、広瀬氏と和佐香姫の伝説についてお話しています。
しかし、相変わらず、広瀬氏がその地域を領有していたようで、京の都から遠く離れた
飛騨の地では、京都の公方の思惑どおりに事が進まなかったようです。
結果的に、広瀬氏は、この地をずっと知行しており、とうとう永享元年(1429)に正式に
廣瀬氏に廣瀬郷が変換されました。
したがって、それまでの50年ほどは、持ち主と実際の知行者がことなる混沌とした時代を
過ごし、そのあと、永享元年から三木氏に滅ぼされる天正7年(1579)までの150年も廣瀬
氏が知行していたということになります。
その後、滅ぼされた廣瀬氏は、天正11年9/19に広瀬山城守は亡くなり、その後は皆さん
ご存知のように、金森氏が飛騨に入国する天正13年時点までは、越前大野に逃げ込み、
金森が飛騨入りする道案内を務めたとされています。
しかし、元の土地を論功行賞として期待していた廣瀬氏でしたが、結果的には、廣瀬郷を
追われることになり、その子孫は四散します。
私が調べたところでは、広瀬氏の子孫の行先は、高山、滋賀県、岐阜県の坂内村、富山県の
婦中町などとなっております。
ただし、もともとの由緒がはっきりしない上に、各家に伝わる廣瀬家略記が、たいてい江戸
時代中期に書かれたものが多く、信憑性に乏しいのが実状です。
国府町の郷土史研究家菅田先生を始めとする方々が、昭和58年頃に、広瀬氏の400回忌法要
を国府町で務められたことがあり、その折に全国から廣瀬氏の子孫の皆さんが国府町に
集まったことがあったそうです。
その時に上廣瀬にある廣瀬氏の墓に、供養するための石碑が建設されたり、ゆかりの高堂城
跡に石柱を建設されました。
その時に、広瀬氏一族の顕彰をされたそうですが、元郵政大臣の小池信三氏も廣瀬氏の子孫と
いうことで顕彰活動に参加されたと伺っております。
また、史実は確認していませんが、現在の大分県知事も廣瀬さんという方で、その祖先が
国府町だという伝承があるとのことでした。
さて、講演会当日に配布された資料に「和佐香姫の伝説」というのがありましたので最後に
ご紹介します。
これは、少し長いので要約してお話します。
「応永飛騨の戦いの時、広瀬から上広瀬へ行く宮川べりの道を、一人の姫とその郎従が3人、
夜道を戦火を逃れて逃げて来たが、上広瀬の人家の所まで来ると道ばたにへたり込んでしま
った。やがて道ばたに泉が湧き出ているのを見つけ3人はそれを飲んで息を吹き返した。
この泉はその姫の名に因んで「わさか清水」と呼ばれ、またその近くの家は、その由緒に
よって清水という姓を名乗って居られる。(今は水が出ていませんが、その地が現存します。)
3人が上の一軒の家をみるとまだ灯りがある。
姫が、「戦に追われて、やっとここ迄来た者です。どうか少し休ませて下さい。」と頼むと、
夫婦は、温顔と親切な態度で招き入れた。次の日、姫が「私は姉小路の妻のわさか姫です。」
と言うと、夫婦は大変驚いて、「もう残党刈りも無いようです。どうかゆっくり何日でも
休んで居て下さい。」と慰めた。
やがて村の人々も、「勘次さんの家に姫が来てござる」と見舞いに寄ってくれるようになった。
やがて、姫が持参された三体の木像を、今の加茂神社のあたりの、村の中心部広場)に小さな
お堂を建て村の人々は「小山観音」といって大切にした。
ある夜、このお堂に盗人が入り、お像を持って逃げた。ところが盗人が村山まで来ると急に
重くなり、やがて石より重くなって持てなくなった。
盗人は村山の草むらの中へお像を投げ込んで、去って行った。ある夜、村山の長老のお爺さん
の夢枕に、「あの三体の一つは、私、菅原道眞である。あの木像は私の自刻像である。私は
この村山が非常に気に入った。どうかこの村山で私の像を守って貰えないか」と頼まれた。
驚いて早朝探しに行くと、確かに菅公像が草むらに落ちている。
村山という村は十四、五軒の小さな村であるが、村中が感激して、村の中央広場に天満神社を
建てることにした。一夜にして広場は松林になった。
建立が始まると、昼間は村人や大工が造るし、夜中になると、木を削ったり、木にミゾ穴を
掘ったり、刻んだりする音がする。「ああ、昼間は私たちが奉仕で仕事をしているが、夜に
なると神様が造っていて下さる」と言う話が広まった。
学問の神様ということで、今でもお参りに来る人もあり、数多くある村々の神社の中で、
格も高く、由緒も高い神社として、格別に尊敬されている。」ということです。
この伝説は、上廣瀬にある諏訪神社に伝わる「光寿庵の伝説」として。そして、国府町の村山
にある「村山天満宮」の伝説として、江戸時代に書かれた古文書に残っています。
この古文書は今度発刊します本に記載したいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週の放送は、今日の話に出て来た「光寿庵について」
お話したいと思います。
本日はこの曲でお別れです。 曲は「来生たかお Good Bye Day」をお届けします。
ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太