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10月22日放送分_飛騨の屋台3_麒麟台_石橋台

(10月22日放送分 第172回)みなさんこんにちは、飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、私ながせきみあきがお届けしてまいります。

この前、まちなみコンサートで、高山市内のスパホテルアルピナさんにお世話になり、
ストリートジャズフェスティバルの参加者を泊めていただきました。その際に、無料
入浴券をいただきましたので、先日お風呂に入れていただきました。
そこのお風呂は、大名田温泉という別名が付けられていて、弱アルカリ性低調性低温泉
という温泉が出ているそうです。飲んでみると少ししょっぱい味がしましたが、ナトリ
ウムが多いんですね。それもそのはず、泉源は地下1100mの所から出ていて、高山の
海抜が564mですから、海の下なんですね。

海水が混じっているわけではありませんが、勉強になりました。
抽出する時は31.4度となっていましたから、少し沸かして温泉として使われているよう
です。

入浴時に気づいたのですが、高山の町って、上から見ると曲がっているんですね。
旧市街の辺りは碁盤の目になっていると思っていたら、三町通りから上の方は、
左から右に大きく曲がっているんですね。
また、新しくできた町=名田町の方向へは、本町の信号から左の方へ大きくカーブ
しているんです。そのため、スパホテルさんから城山を見ると、花兆庵さん、本陣
平野屋さん、宝生閣さんが一直線になるんですね。これは意外でした。

ずっと昔から高山って、海老坂から駅までまっすぐだと思っていたのに、途中が大きく
椀曲しているなんて、知りませんでした。私にとっては正に再発見でした。

さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、飛騨の祭屋台についてパート3をお届けします。
山王祭りの神楽台から始まって、先月は三番曳と黄鶴台のお話しをしました。
今週は、山王祭りの麒麟台のお話から始めたいと思います。
10月22日放送分_飛騨の屋台3_麒麟台_石橋台
ここで、山王祭りの麒麟台とあえて申し上げましたのは、古川祭にも麒麟台がございます
ので、それと区別するためです。
麒麟台組の区域は、上一之町の老田酒造の上に消防車の車庫がありますが、あそこから
下の部分になります。西側は、上一之町の柳橋から延びる三叉路の所から下になります。
下の方は、安川の平田書店の隣まで。ぶんねもん坂の上は、途中のあきつ屋さんの所まで
です。

実は、提燈を見ますと、馬場町の2丁目の辺りも同じ形の提燈がついています。

ここは橘組といって、かつては麒麟台の一部でしたが、神輿組として独立しました。
麒麟台には、もともと橘神社という神社があって、老田酒造さんの裏の所に祀られて
いました。
今は、老田酒造さんが無くなってしまいましたので、日枝神社の方へ合祀されましたが、
跡地は現在も老田酒造さんの跡地の高台の所に鳥居と建物が残っています。
この神社の氏子となっていたのが、麒麟台組と橘組の2つの組です。

 麒麟台は、文化三年の能登屋半右衛門組として文書に出てきますが、天明四年(1784)
以前にも屋台があったという伝承が残っています。
この能登屋さんというのは、現在の石川薬局のことで、そこには、金森家から拝領した
という麒麟の香炉が現在も伝わっていますが、その香炉にちなんで屋台の台名をつけた
とされています。

 現在の屋台は、弘化2年(1845)秋に、谷口家によって着手され、2年後に完成しています。
大工は谷口延恭、彫刻は御存知の通り、谷口与鹿の作品です。
しかし、与鹿の彫刻は、下段の有名な籠伏せの鳥など唐子群遊と呼ばれる彫刻だけで、
中段と上段の牡丹彫刻は、与鹿の師匠の中河吉兵衛の作。中段の麒麟の彫刻は、明治に
なってから村山郡鳳によって作られた彫刻です。
10月22日放送分_飛騨の屋台3_麒麟台_石橋台
かつて、私が谷口与鹿の調査で屋台かたづけにお邪魔した時、組の人達が特別に唐子群遊
の彫刻を外して下さったことがありました。外すとまったく板きれに彫られた欄間のような
雰囲気で、取り付けた時とは雰囲気がまったく違います。
10月22日放送分_飛騨の屋台3_麒麟台_石橋台
麒麟台の屋台は、彫刻を取り付けている部分が、少しいりこんだ形になっていますが、
わざと影を造ってコントラストを強めています。はめ込むと、奥行きが見事に表現されて、
大変立派な彫刻になりました。
組の人をして「外しても取り付けても見事なのが郡鳳の彫刻。外すとただの板きれになる
のが、与鹿の彫刻」とまで言って居られました。

 麒麟台は、大正10年にも大改修が行われ、群鳳の彫刻が取り付けられたり、見送りや
瓔珞も取り付けられて現在の立派な形になりました。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「松山千春 良生ちゃんとポプラ並木」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、飛騨の屋台パート3についてお届けしております。

昭和50年頃に書かれた、「高山祭」という本には、屋台キチの話しが紹介されています。
私も晩年までお付き合いさせていただきましたが、ぶんねもん坂にある菓子屋谷松の2代目 
谷鉄こと谷松之助さんは、相当な屋台キチでした。

あるとき、屋台に車がぶつかりそうになり、屋台を守るために、自分が屋台の前に飛び出し
て車を止めたとか。文化庁の検査の時に、検査員の方が素手で彫刻を触ろうとした時に、
怒鳴り散らして顔を真っ赤にして怒ったとか、いろんな逸話のある方でした。

どの屋台にも必ず一人は屋台キチと呼ばれる方が昔はおられましたが、最近はそういう
有名人がおられなくなりました。
屋台のことになると、自分のことよりも屋台の事の方が大事で、すぐに喧嘩が起ったもの
です。

私の子供のころでさえ、こうした屋台キチの人同士がけんかをしていたのを思い出します。


 さて、次にご紹介しますのは、上二之町の石橋台です。
10月22日放送分_飛騨の屋台3_麒麟台_石橋台
この屋台組は、上二之町の上組が中心となりますが、東側は今のNTTの駐車場の所まで。
西は、現在、船坂酒造のレストランの上隣りまでです。
船坂酒造のレストランと長瀬旅館は、慶祥組といって、かつては石橋台組にも下の南車台組
にも所属しない、単独の神輿組でした。

上の方は、市政記念館の東側と裏側の所、神明町四丁目の西側一帯が石橋台組なんです。
ところが、有名な料亭洲岬さんと、隣りのソバ屋さん野川さんは、石橋台の屋台蔵の前で
ありながら、石橋台組ではありません。

洲岬さんは恵比寿台組、野川さんは、昔は神楽組の所属でしたから、歴史って面白いです
よね。こういう例外もあるんです。

 神明町の人達について、屋台雑考にはこんなことが書かれています。
「当時神明町に家持ちの人、つまり自分の土地に自分の家を建てている人」は三件のみで、
肩身の狭い思いをしていた。そこで新しい幕を預って隠岐、いざこざの出た時幕をおさえて
おけば屋台は裸では曳けないから優位に立てるというので、運動して後藤屋の土蔵にあずかる
ことにしたという。この習慣は昭和の初期まで続いた」ということです。

 以前の屋台は、谷口家によって造られたと思われ、設計図が残っています。
その屋台も文久三年に改造することになり、古屋台は古川町の麒麟台組にカラクリ人形と
共に譲りました。現在、その人形は残っていませんが、人形の入れてあった箱が残されて
おり、そこには京都の人形師 亮長という人によって造られたことがわかっています。
一位一刀彫で有名な松田亮長と同名のために、その人ではないかという話もありましたが、
後の調査で別人であることがわかりました。
10月22日放送分_飛騨の屋台3_麒麟台_石橋台
 さて、石橋台は、現在からくりの奉納を行う屋台として有名ですが、これは、昭和55年に
復活されたものです。
ボタンの花を持った美女が踊りながら体がうつむくと打掛けがめくれて、上体を包み、
尻から獅子頭が出て赤色金糸模様の湯単に包まれた獅子となって踊るからくりですが、
これが、明治時代に警察から注意があり、風紀上思わしくないということで、中止された
とされています。

ただ、この話にはもう一つ説があって、夜になると屋台曳きが宮川に落ちて怪我をする。
子供が曳かれて死ぬ。警護が抜刀して怪我をさせるなどの出来事があり、石橋は人を食う
などと言われるようになり、占うと、人形が女だからと言われたことが原因とされたと
いう話もあります。

 この屋台組にも、屋台キチのすごいおじいさんがおられ、高松の自転車屋のじさまは、
相当な屋台キチでした。普段は、小学生が自転車を直しに行く時はものすごく優しいのに、
屋台の事となると目の色が変わる。石橋台のことをけなそうものなら、子供でも大人でも
ものすごく怒られました。

また、先ほどお話しした谷鉄とのけんかは見もので、子供ながらに、この二人が何でこんな
に熱くなって喧嘩するのか、不思議だった覚えがあります。

さて、本日も時間となりました。
ちょっと、ここでお知らせがあります。
古川町史編纂室より、古川町歴史探訪という本が3500円で発売されております。残数が
少なくなっておりますので、お早めにお求めください。書店では買えませんので、古川町
史編纂室74-1130井端さんまでお問い合わせ下さい。

 来週は、10月が5週ありますので、一週間の休みをいただき、11月の5日の放送となります。
次回の放送は、先日、ヒッツFMのナビゲーター遠藤直美さんに、CATVのために高山の事を
教えて欲しいというのでお話ししました。
その時にお話ししました、高山のミニ観光案内についてお話ししたいと思います。

 今日は、この曲でお別れしたいと思います。
曲の方は、「小泉今日子 ヤマトナデシコ七変化」ではまたさ来週お会いしましょう!

徳積善太
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