3月25日放送分_飛騨の屋台について_青龍台・大国台・陵王台
(3月25日放送分 第192回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、あるおばあさんからこういう事を聞きました。「風邪を引かないようにするため
には、昔から、板粕で甘酒を作って、しょうがを一杯入れて飲んで寝ると、体があった
まるし、風邪の予防になるんやよ。いっぺんやってみねいよ。」ということでした。
おばあさんの話によりますと、おばあさんのおばあさんの代からそういう風にしてきた
ということでした。
そこで先日、スーパーに行き、板粕を買いに行きましたら、どこにも置いてない。
店員の方に聞くと売り切れでした。そこで、最近、「さくら心中」舞台になっている
二木酒造さんに行きましたら、「申し訳ありませんが、二十四日市で全部出してしま
って売り切れです。次回、酒を搾るのはだいぶ先になるので、それまで酒粕がありま
せん。」とのこと。
仕方なく本町の酒屋さんに行ったら、やっと5袋だけありました。
酒屋さんでどうしてこれだけしかないのかと尋ねると、
「最近、酒を仕込む量が減っているから」との答えが返ってきました。
残念なことに、1月で下三之町の田辺酒造さんが廃業されたとの話題がありましたが、
それだけ日本酒の製造量が減ってきているとは思いませんでした。
ここ数年のうちに、老田酒造さんの建物が無くなり、上三之町の船坂酒造さんの経営者
が変わり、上一之町の平瀬さんの若旦那がお亡くなりになり、そして今度の田辺酒造の
廃業と酒造業の方々が何か呪われているのかと思えるくらいです。
私は、自分の家の周りの建物がどんどんなくなっていくので、昨年末から宴会の際に
こんなことを申し上げております。
「みなさん、せめて乾杯は日本酒でしようよ!」
これは、地酒のメーカーに頑張ってもらいたい。
かつてから高山祭・高山の文化を支えてきた旦那衆の皆さんを今度は私達庶民が支える
番だ。そう思うからです。
どうぞ、高山の町並みを守るためにも、皆さんもビールや焼酎ばかり飲んでいないで、
少しは日本酒を見直してはいかがでしょうか。
日本酒は余っても料理に使えますし、お風呂に入れても肌がすべすべになります。
高山の新しいお店も大切ですが、高山の伝統や文化・日本酒業界を支えるために、
高山の町を守るために、どうぞ、高山の古いものを大切にしてください!
ささやかなことかもしれませんが、皆さんのご協力をお願いしたいと思います。
さて本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、第4週ですので、高山の祭屋台のお話し。今週は、上川原町の大国台。
下川原町の青龍台。そして時間があれば、西町の陵王台のお話をしたいと思います。
まず、下川原町の青龍台ですが、青龍台という名前は、高山の山王祭と古川祭に見られ
ます。この青龍というのは、四神を表し、東に流水のある所を-青龍(せいりゅう)、
南に窪地(くぼち)-朱雀(しゅじゃく) 、 西に大道-白虎(びゃっこ)、 北に
丘-玄武(げんぶ)とする四神相応(しじんそう おう) の考え方からきています。
つまり、四神とは中国神話に登場する、世界の四方向を守る聖獣のことです。
四霊獣(龍、鳳凰、麒麟、亀)に数えられているものもいますね。
東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といい、それぞれ川、海、道、山などに対応
します。
青龍は、東を守護する聖獣で、姿は通常の龍と変わらなく、青い色をしています。
平安後期の説話集「古今物語集」には、夢殿にこもって聖徳太子の魂だけが青龍に
乗って中国に渡り、仏教の経典を取って来たという話があります。
対応するのは、色では青、季節では春、青春、五行では木、方位では東、臓器では肝臓、
食べ物では酸っぱいもの、環境では川を表します。
この名前ですが、地元の伝承では、金森長近が越前大野から飛騨に侵攻してきたときに
青龍山城からきたことに由来し、一般には高山城の天守閣を模したと言われていますが、
地元では青龍山城の天守閣を模したものと伝えられています。
したがって、他の屋台とは形が違い、四段型をしています。

この屋台の創建は、一番古く、高山祭の初めと言われる正徳六年(1766)に存在した記録が
あります。但しこの時には、台名の書きいれはありません。その後、文化三年には
「おどり」と称して14番を曳いています。
この拾四番はしんがりで、宮本として祭を統率したと云う理由があります。
この組は、「宮本組」「宮本台」とよばれていました。
当時の川原町は街道筋で、紙屋・大工・塗り師などが住んでいて、神輿を城内に入れる
ときは、供奉する習わしとなっていました。
おそらく、自分が関わった神輿であれば大切にするであろうという配慮だったのかも
しれません。そういうこともあって、この組には、祭礼を取り仕切る権限が与えられた
ことから、金森家の梅鉢紋の使用が認められています。
したがって、屋台の至る所に梅鉢紋の金具をみることができます。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲の方は「ザピーナツ 恋のバカンス」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、飛騨の祭屋台について。今日は青龍台と大国台、陵王台に
ついてお話ししています。
青龍台は、文化14年に再建されましたが、天保三年8月17日に組内より出火。
上川原町や中川原町、八軒町に至るまで119戸を焼きつくす火事で焼失してしまい
ました。その後再建されましたが、高山市郷土館には、当時中段に飾られていた、
宗猷寺の南寧和尚が書かれた額が保管されています。
また、この時の火事をきっかけに、高山に消防組が組織されました。
もともと川原町は大工さんがたくさん住んでいました。当時の消防方法は今の水を
かける消化方法とは違い、建物を壊す破壊消火という方法でしたから、家を創る大工
さんは家の壊し方も知っています。
そういうこともあり、消防にとっては持ってこいでした。
今でも、組内の笠原家には、郡代が発行した消防の鑑札が保管されています。

また、屋台を曳くときに着るカルサンと呼ばれる法被は、非常に分厚いきれでできて
おり、これは江戸時代の消防の衣装の名残です。男の粋を表すためか、生地の裏側には
立派な龍が刺繍されていて、リバーシブルになっています。
もし、祭の時に川原町の人を見かけたら、一度裏側を見せてもらってください。
さて、続いて大国台のお話をします。
この屋台は、もっとも古い記録が、寛政八年(1796)3月の祭に松樹台として曳いています。
松樹という名前は、松の樹と書き、そもそも江戸時代の日枝神社の別当だった寺院
松樹院から取ったものです。

この頃の屋台は、三段で上段は角柱であったと言われています。
この年から三年後の寛政十一年三月に上二之町の王王台から大黒天像を譲り受けて大国台
と改名したといいます。

そうすると、松樹台と呼ばれていたのは、わずか3年ほどになるので、本来の創建はもっと
古いのではないかと言われています。
文化年間の高山祭屋台絵図に、この屋台は「河原町上組 大黒」という名前で出ており、
現在の大きいに国と書く字ではなく、大きいに黒という文字が用いられています。
上段には、現在と同じような大黒様の人形が飾られ、屋根は今と違う唐破風屋根で、
下段の所には、打ち出の小槌を書いた幕が使われています。
この人形は、現在は祭神として祀られているために、カラクリの機能は失っていますが、
今でも首のところに糸と穴が残っており、糸を引くと首を振り舌を出す仕組みになって
います。そういうことから、カラクリがあった名残が残っていると言えます。

弘化四年に改修された時の工匠は神岡の名工石田春皐で、この人が前面の龍の彫刻などを
残しています。
この人は、古川の三光台などの建造も手掛けていますが、江戸時代末期に東本願寺の仏殿
建造を四代目の水間相模と一緒に担当した人です。
春皐は、神岡の吉田常蓮寺の山門を建造したり、大変立派な名工として知られている人
です。この屋台の特徴は、普通伊達柱は上部の重量を支えていない構造になっていますが、
この屋台だけは欄間や上段を支える構造になっているため、他の屋台と異なって左右に
揺れやすい構造となっています。
そのため、組の人の自慢は、左右に揺れる=しなう というもので、他の屋台より左右の
揺れが激しく、かつ美しいゆれ方をします。
また、いつの頃からか大国台の曳き順が若いと米の値段が上がり、その反対であれば米が
安いと、大正時代までは大国台の曳き番号は庶民の注目の的でした。
最後に、陵王台ですが、この屋台の事を知る人は少ないでしょう。
それもそのはず、屋台組はあるのですが、屋台のない、屋台組なんです。
場所は、西町一帯がこの屋台組です。しかし、安政4年(1857)にはこの屋台組が曳行順に
名を連ねています。
実は、昨年この組の屋台の台紋を調べに行きましたら、台紋もなかったことがわかり、
急遽総代さんたちで相談されて台紋が創られました。

陵王と言う名前の通り雅楽の陵王面を正面から見たものをかたどった台紋が昨年作られ、
台名旗を乗せる台車に取りつけられました。
ここの台名旗は屋台はなかったものの、大変立派なビロードに金文字が刺繍された旗を
使っておられます。

さて、本日も時間となりました。
ここでお知らせがあります。まことに勝手ながら、来月一カ月間だけ、この放送をお休み
させていただきたいと思います。
また、五月になりましたら、放送を再開させていただきますので、よろしくお願いいたし
ます。
それでは本日はこの曲でお別れです。「坂本九 上を向いて歩こう」
ではまた5月にお会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、あるおばあさんからこういう事を聞きました。「風邪を引かないようにするため
には、昔から、板粕で甘酒を作って、しょうがを一杯入れて飲んで寝ると、体があった
まるし、風邪の予防になるんやよ。いっぺんやってみねいよ。」ということでした。
おばあさんの話によりますと、おばあさんのおばあさんの代からそういう風にしてきた
ということでした。
そこで先日、スーパーに行き、板粕を買いに行きましたら、どこにも置いてない。
店員の方に聞くと売り切れでした。そこで、最近、「さくら心中」舞台になっている
二木酒造さんに行きましたら、「申し訳ありませんが、二十四日市で全部出してしま
って売り切れです。次回、酒を搾るのはだいぶ先になるので、それまで酒粕がありま
せん。」とのこと。
仕方なく本町の酒屋さんに行ったら、やっと5袋だけありました。
酒屋さんでどうしてこれだけしかないのかと尋ねると、
「最近、酒を仕込む量が減っているから」との答えが返ってきました。
残念なことに、1月で下三之町の田辺酒造さんが廃業されたとの話題がありましたが、
それだけ日本酒の製造量が減ってきているとは思いませんでした。
ここ数年のうちに、老田酒造さんの建物が無くなり、上三之町の船坂酒造さんの経営者
が変わり、上一之町の平瀬さんの若旦那がお亡くなりになり、そして今度の田辺酒造の
廃業と酒造業の方々が何か呪われているのかと思えるくらいです。
私は、自分の家の周りの建物がどんどんなくなっていくので、昨年末から宴会の際に
こんなことを申し上げております。
「みなさん、せめて乾杯は日本酒でしようよ!」
これは、地酒のメーカーに頑張ってもらいたい。
かつてから高山祭・高山の文化を支えてきた旦那衆の皆さんを今度は私達庶民が支える
番だ。そう思うからです。
どうぞ、高山の町並みを守るためにも、皆さんもビールや焼酎ばかり飲んでいないで、
少しは日本酒を見直してはいかがでしょうか。
日本酒は余っても料理に使えますし、お風呂に入れても肌がすべすべになります。
高山の新しいお店も大切ですが、高山の伝統や文化・日本酒業界を支えるために、
高山の町を守るために、どうぞ、高山の古いものを大切にしてください!
ささやかなことかもしれませんが、皆さんのご協力をお願いしたいと思います。
さて本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、第4週ですので、高山の祭屋台のお話し。今週は、上川原町の大国台。
下川原町の青龍台。そして時間があれば、西町の陵王台のお話をしたいと思います。
まず、下川原町の青龍台ですが、青龍台という名前は、高山の山王祭と古川祭に見られ
ます。この青龍というのは、四神を表し、東に流水のある所を-青龍(せいりゅう)、
南に窪地(くぼち)-朱雀(しゅじゃく) 、 西に大道-白虎(びゃっこ)、 北に
丘-玄武(げんぶ)とする四神相応(しじんそう おう) の考え方からきています。
つまり、四神とは中国神話に登場する、世界の四方向を守る聖獣のことです。
四霊獣(龍、鳳凰、麒麟、亀)に数えられているものもいますね。
東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といい、それぞれ川、海、道、山などに対応
します。
青龍は、東を守護する聖獣で、姿は通常の龍と変わらなく、青い色をしています。
平安後期の説話集「古今物語集」には、夢殿にこもって聖徳太子の魂だけが青龍に
乗って中国に渡り、仏教の経典を取って来たという話があります。
対応するのは、色では青、季節では春、青春、五行では木、方位では東、臓器では肝臓、
食べ物では酸っぱいもの、環境では川を表します。
この名前ですが、地元の伝承では、金森長近が越前大野から飛騨に侵攻してきたときに
青龍山城からきたことに由来し、一般には高山城の天守閣を模したと言われていますが、
地元では青龍山城の天守閣を模したものと伝えられています。
したがって、他の屋台とは形が違い、四段型をしています。

この屋台の創建は、一番古く、高山祭の初めと言われる正徳六年(1766)に存在した記録が
あります。但しこの時には、台名の書きいれはありません。その後、文化三年には
「おどり」と称して14番を曳いています。
この拾四番はしんがりで、宮本として祭を統率したと云う理由があります。
この組は、「宮本組」「宮本台」とよばれていました。
当時の川原町は街道筋で、紙屋・大工・塗り師などが住んでいて、神輿を城内に入れる
ときは、供奉する習わしとなっていました。
おそらく、自分が関わった神輿であれば大切にするであろうという配慮だったのかも
しれません。そういうこともあって、この組には、祭礼を取り仕切る権限が与えられた
ことから、金森家の梅鉢紋の使用が認められています。
したがって、屋台の至る所に梅鉢紋の金具をみることができます。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲の方は「ザピーナツ 恋のバカンス」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、飛騨の祭屋台について。今日は青龍台と大国台、陵王台に
ついてお話ししています。
青龍台は、文化14年に再建されましたが、天保三年8月17日に組内より出火。
上川原町や中川原町、八軒町に至るまで119戸を焼きつくす火事で焼失してしまい
ました。その後再建されましたが、高山市郷土館には、当時中段に飾られていた、
宗猷寺の南寧和尚が書かれた額が保管されています。
また、この時の火事をきっかけに、高山に消防組が組織されました。
もともと川原町は大工さんがたくさん住んでいました。当時の消防方法は今の水を
かける消化方法とは違い、建物を壊す破壊消火という方法でしたから、家を創る大工
さんは家の壊し方も知っています。
そういうこともあり、消防にとっては持ってこいでした。
今でも、組内の笠原家には、郡代が発行した消防の鑑札が保管されています。
また、屋台を曳くときに着るカルサンと呼ばれる法被は、非常に分厚いきれでできて
おり、これは江戸時代の消防の衣装の名残です。男の粋を表すためか、生地の裏側には
立派な龍が刺繍されていて、リバーシブルになっています。
もし、祭の時に川原町の人を見かけたら、一度裏側を見せてもらってください。
さて、続いて大国台のお話をします。
この屋台は、もっとも古い記録が、寛政八年(1796)3月の祭に松樹台として曳いています。
松樹という名前は、松の樹と書き、そもそも江戸時代の日枝神社の別当だった寺院
松樹院から取ったものです。

この頃の屋台は、三段で上段は角柱であったと言われています。
この年から三年後の寛政十一年三月に上二之町の王王台から大黒天像を譲り受けて大国台
と改名したといいます。

そうすると、松樹台と呼ばれていたのは、わずか3年ほどになるので、本来の創建はもっと
古いのではないかと言われています。
文化年間の高山祭屋台絵図に、この屋台は「河原町上組 大黒」という名前で出ており、
現在の大きいに国と書く字ではなく、大きいに黒という文字が用いられています。
上段には、現在と同じような大黒様の人形が飾られ、屋根は今と違う唐破風屋根で、
下段の所には、打ち出の小槌を書いた幕が使われています。
この人形は、現在は祭神として祀られているために、カラクリの機能は失っていますが、
今でも首のところに糸と穴が残っており、糸を引くと首を振り舌を出す仕組みになって
います。そういうことから、カラクリがあった名残が残っていると言えます。
弘化四年に改修された時の工匠は神岡の名工石田春皐で、この人が前面の龍の彫刻などを
残しています。
この人は、古川の三光台などの建造も手掛けていますが、江戸時代末期に東本願寺の仏殿
建造を四代目の水間相模と一緒に担当した人です。
春皐は、神岡の吉田常蓮寺の山門を建造したり、大変立派な名工として知られている人
です。この屋台の特徴は、普通伊達柱は上部の重量を支えていない構造になっていますが、
この屋台だけは欄間や上段を支える構造になっているため、他の屋台と異なって左右に
揺れやすい構造となっています。
そのため、組の人の自慢は、左右に揺れる=しなう というもので、他の屋台より左右の
揺れが激しく、かつ美しいゆれ方をします。
また、いつの頃からか大国台の曳き順が若いと米の値段が上がり、その反対であれば米が
安いと、大正時代までは大国台の曳き番号は庶民の注目の的でした。
最後に、陵王台ですが、この屋台の事を知る人は少ないでしょう。
それもそのはず、屋台組はあるのですが、屋台のない、屋台組なんです。
場所は、西町一帯がこの屋台組です。しかし、安政4年(1857)にはこの屋台組が曳行順に
名を連ねています。
実は、昨年この組の屋台の台紋を調べに行きましたら、台紋もなかったことがわかり、
急遽総代さんたちで相談されて台紋が創られました。
陵王と言う名前の通り雅楽の陵王面を正面から見たものをかたどった台紋が昨年作られ、
台名旗を乗せる台車に取りつけられました。
ここの台名旗は屋台はなかったものの、大変立派なビロードに金文字が刺繍された旗を
使っておられます。
さて、本日も時間となりました。
ここでお知らせがあります。まことに勝手ながら、来月一カ月間だけ、この放送をお休み
させていただきたいと思います。
また、五月になりましたら、放送を再開させていただきますので、よろしくお願いいたし
ます。
それでは本日はこの曲でお別れです。「坂本九 上を向いて歩こう」
ではまた5月にお会いしましょう!
徳積善太