7月1日放送分_200回放送特別番組
(7月1日放送分 第203回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
このところ雨が多いですね。沖縄が史上最速の梅雨明けとなったようですが、先日、九州も
梅雨明けとなりました。ただ、例年沖縄の梅雨明けの早い年は、中部地方や関東地方では
梅雨明けが遅くなるという傾向が有るそうです。
今年は、飛騨近辺に前線が留まり、南からの暖かい湿った空気が流れ込むために、各所で
集中豪雨となっているようです。
つい先日も、上高地と松本の間で、局地豪雨となり、国道158号線が土石流によって寸断
され、被害が出ました。一週間ほどで回復したのでよかったですが、高山の観光にも少な
からず影響が有ったようです。
農作物も日差しがないために生育が遅れていたり、益田地方では笹の花が咲いたなどという
ニュースも有ります。
天保時代に飢饉が有った時にこの笹の花が咲いたことが記録にありますが、早く梅雨明け
しないと、農作物の生長に影響が出てまいります。そうなると、飛騨の経済にかなり影響
しますから、早く梅雨が明けてほしいですね。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、放送200回特別番組ということでお届けしたい
と思います。
既にお知らせしておりますが、前月の放送で記念すべき200回目の放送となりました。
これもこの番組を支えていただきましたリスナーのみなさんのお陰であると思います。
どうもありがとうございます。
毎回、申上げることですが、「あなたは歴史に詳しいね」とか「よく勉強しているね」とか、
おほめの言葉をいただきますが、私がすごいのではなくて、今皆さんが住んでおられるこの
飛騨という土地がすごいのだと思います。
御紹介してもしきれないくらいの内容がこの飛騨にはあります。
皆さんのお住まいになられているこの飛騨という地域を少しでも誇りに思い、見直して戴けれ
ばと思います。
今回特別番組と言いましても、何も特別なことは有りません。
番組をちょっと振り返ってみようと思い、特別番組という名称をつけさせていただきました。
この放送は、私が付けています記録によりますと、平成19年4月3日からスタートしました。
今日まで4年ちょっとやっているわけですが、早いものですね。あっという間でした。
当所、始めました頃は、ヒッツFMのナビゲーター村田恵子さんとのやり取りでスタートしま
した。
始めたときは、毎週月曜夜7時半からの放送で、生放送という番組でした。
第1回から第28回目の放送までは、ゲストをお招きし、実際に飛騨の歴史に関わっておられる
方をお招きしてインタビューするという内容でした。
今思い出してみますと、のべ22人の方にゲストとしてお越しいただいたのですが、それぞれの
分野で専門的な方が多かったので、私の知らないことを随分お話しいただき、大変勉強になり
ました。
でも、生放送ゆえに、専門的な言葉などが出ることも多くて、番組進行に不慣れな私には、
なかなか難しかった覚えがあります。
10月からは番組が改編になり、それからは私一人でお話しするようになりました。
29回目から今日までという事になりますので、原稿は171回分以上を書いていることになります。
そう考えると、本当に沢山の原稿を書いてきたなあと自分でも感心します。
放送の方は、一カ月に4本づつになりましたので、テーマを決めて向かいました。
第一週、第二週はその時にお調べしたことや、金森氏についてのお話をさせていただきました。
高山にはかつて68軒もの造り酒屋さんが有った事が知られていますが、そういったお話しや、
ぶり街道の話。花もちの話などを出来るだけお調べしてお話ししました。
第三週は、このヒッツFMの放送エリアが高山だけではなくて、古川も含まれていますから、
古川のお話をしました。
姉小路家の話や山城の話。中世の飛騨のお話などをさせていただきました。
第4週は、匠の話をさせていただきました。
最初は高山の祭屋台を造った谷口与鹿のお話しをシリーズでお届けさせていただきました。
そしてそのシリーズが終わってから、江戸時代に活躍した大工さんの話。
そして最近では祭屋台のお話をシリーズでお届けしております。
春祭りの屋台から始まり、2台づつ紹介させていただいております。
後半では、それぞれについて、もう少し詳しく振り返ってみましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。「加山雄三 海・その愛」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「200回記念特別番組 今までの放送について」振り返って
お話しています。
今までお話ししました原稿は、すべてブログの方に掲載しております。
ひだっちブログで「飛騨の歴史再発見」というブログの方に掲載しております。
それ以外にも数々の調べた事を掲載しております。
YahooやGoogleなどの検索サイトからも、「飛騨の歴史再発見」という項目を入れて
検索していただきますと、私のブログが出てまいります。
過去のお話について、ご覧になりたい方は、そちらの方をご利用ください。
さて、今までどんなことをお話ししてきたか。ちょっと振り返って参りましょう。
200項目もあると、大変な量になりますので、ここでは内容というより、御紹介にとどめ
たいと思います。
まず、シリーズでお届けしたものは、一番最初に、高山祭の屋台を造った谷口与鹿について。
こちらは二番目に長い7回シリーズでお届けしました。
谷口与鹿が生まれてから43歳で亡くなるまでの彼の行動がどのようであったか、お話して
まいりました。
高山で生まれ、17歳で彫刻家としてデビューし、29歳で高山を去るまで、どのような作品を
残したか。その後、兵庫県の伊丹に行き、亡くなるまでどのような余生を送ったかについて
お話しいたしました。
このために、実際に伊丹に4回も行き、いろいろとお調べしたことをお話ししました。
一番長いシリーズものとしては、先ほどもお話ししましたが、飛騨の祭屋台についてです。
これは現在も継続しておりますが、今回までに12回のシリーズとなっております。

高山祭の屋台は、春祭りが12台。秋祭りが11台ありますが、実は国の有形民俗文化財と
なっているものは、それ以外に、東山の神楽台と総社の神楽台の2台を含めて25台の屋台が
現存しています。
しかしこれ以外にも焼けてしまったとか他の地域に売却された屋台が春祭りで3台、秋祭りで
4台ありますので、こういったものも含めながら私のお調べした範囲内でお話しております。
これからは、古川祭の屋台や高山周辺地域に現存する三日町白山神社の神楽台などの屋台。
祭の森の平成の屋台なども含めてお話していこうと思っています。
もう一つ、シリーズとしては、飛騨で江戸時代に活躍した大工さんのお話をしてきました。
大工さんと言ってもものすごい数に上りますので、ここでは、江戸時代に○○守とか、公家の
称号を獲得した大工さんについてお話してきました。
平成19年に匠学会で飛騨の匠展を開催しましたが、その時に展示した飛騨の匠の祖 藤原
宗安の系統を持つ水間相模家ですとか、松田太右衛門、屋台建造で有名な谷口権守家、村山
陸奥守家、昭和の時代まで活躍した坂下甚吉家などを取り上げました。
私が力を入れてきたものについては、飛騨の酒造業について。
かつて元禄時代には飛騨に68軒あったと言われる酒造メーカーが現在は、高山8軒。古川
2軒、神岡1軒、萩原1軒、金山1軒の12軒になってしまいました。
最近になって、高山の酒造メーカーが廃業されるなどその数がまた減ってしまいましたが、
その栄枯盛衰についてお話しいたしました。
次に良くお話ししたものは、金森家について。
金森長近が天正13年(1585)に飛騨に侵入し、高山の町をどのように作ってきたか。
どのような政治を行ってきたか。また街道などの整備をどのようにしてきたか。浄土真宗と
どのようにしてつきあってきたかについて、お話ししました。
こちらもまだまだたくさん調べておりますが、お伝えしていない内容がかなりございます。
引き続きお調べしたことからお話しております。
そして、古川地区のお話では、姉小路家について、応永飛騨の乱について。
昨年開催した姉小路と廣瀬のイベントについて。山城について。古川盆地の古寺院について。
増島城について、瀬戸川用水を造った快存上人について・・・などとこちらも沢山のお話を
して参りました。
こうして振り返ってみますと、まだまだお話していないことだらけだなあと思います。
こうやってお話しするためには当然それなりの資料などを見なくてはいけないのですが、
例えば高山市史という本を開いても、厚さが8cm程もある本ですので、ものすごく時間が
かかります。
そこで、パラパラとめくっては付箋を貼り、マーキングをして原稿を書くときに引っ張って
くると云うことをしています。
当然漏れも有りますので、間違ってはいないと思いますが、こんなこともあるよという事を
御存知でしたらお知らせいただきたいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週はちょっと志向を変えまして、飛騨の鶏ちゃんについて
お届けしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は「坂本冬実 恋は火の舞剣の舞」をお届けします。
また来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
このところ雨が多いですね。沖縄が史上最速の梅雨明けとなったようですが、先日、九州も
梅雨明けとなりました。ただ、例年沖縄の梅雨明けの早い年は、中部地方や関東地方では
梅雨明けが遅くなるという傾向が有るそうです。
今年は、飛騨近辺に前線が留まり、南からの暖かい湿った空気が流れ込むために、各所で
集中豪雨となっているようです。
つい先日も、上高地と松本の間で、局地豪雨となり、国道158号線が土石流によって寸断
され、被害が出ました。一週間ほどで回復したのでよかったですが、高山の観光にも少な
からず影響が有ったようです。
農作物も日差しがないために生育が遅れていたり、益田地方では笹の花が咲いたなどという
ニュースも有ります。
天保時代に飢饉が有った時にこの笹の花が咲いたことが記録にありますが、早く梅雨明け
しないと、農作物の生長に影響が出てまいります。そうなると、飛騨の経済にかなり影響
しますから、早く梅雨が明けてほしいですね。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、放送200回特別番組ということでお届けしたい
と思います。
既にお知らせしておりますが、前月の放送で記念すべき200回目の放送となりました。
これもこの番組を支えていただきましたリスナーのみなさんのお陰であると思います。
どうもありがとうございます。
毎回、申上げることですが、「あなたは歴史に詳しいね」とか「よく勉強しているね」とか、
おほめの言葉をいただきますが、私がすごいのではなくて、今皆さんが住んでおられるこの
飛騨という土地がすごいのだと思います。
御紹介してもしきれないくらいの内容がこの飛騨にはあります。
皆さんのお住まいになられているこの飛騨という地域を少しでも誇りに思い、見直して戴けれ
ばと思います。
今回特別番組と言いましても、何も特別なことは有りません。
番組をちょっと振り返ってみようと思い、特別番組という名称をつけさせていただきました。
この放送は、私が付けています記録によりますと、平成19年4月3日からスタートしました。
今日まで4年ちょっとやっているわけですが、早いものですね。あっという間でした。
当所、始めました頃は、ヒッツFMのナビゲーター村田恵子さんとのやり取りでスタートしま
した。
始めたときは、毎週月曜夜7時半からの放送で、生放送という番組でした。
第1回から第28回目の放送までは、ゲストをお招きし、実際に飛騨の歴史に関わっておられる
方をお招きしてインタビューするという内容でした。
今思い出してみますと、のべ22人の方にゲストとしてお越しいただいたのですが、それぞれの
分野で専門的な方が多かったので、私の知らないことを随分お話しいただき、大変勉強になり
ました。
でも、生放送ゆえに、専門的な言葉などが出ることも多くて、番組進行に不慣れな私には、
なかなか難しかった覚えがあります。
10月からは番組が改編になり、それからは私一人でお話しするようになりました。
29回目から今日までという事になりますので、原稿は171回分以上を書いていることになります。
そう考えると、本当に沢山の原稿を書いてきたなあと自分でも感心します。
放送の方は、一カ月に4本づつになりましたので、テーマを決めて向かいました。
第一週、第二週はその時にお調べしたことや、金森氏についてのお話をさせていただきました。
高山にはかつて68軒もの造り酒屋さんが有った事が知られていますが、そういったお話しや、
ぶり街道の話。花もちの話などを出来るだけお調べしてお話ししました。
第三週は、このヒッツFMの放送エリアが高山だけではなくて、古川も含まれていますから、
古川のお話をしました。
姉小路家の話や山城の話。中世の飛騨のお話などをさせていただきました。
第4週は、匠の話をさせていただきました。
最初は高山の祭屋台を造った谷口与鹿のお話しをシリーズでお届けさせていただきました。
そしてそのシリーズが終わってから、江戸時代に活躍した大工さんの話。
そして最近では祭屋台のお話をシリーズでお届けしております。
春祭りの屋台から始まり、2台づつ紹介させていただいております。
後半では、それぞれについて、もう少し詳しく振り返ってみましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。「加山雄三 海・その愛」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「200回記念特別番組 今までの放送について」振り返って
お話しています。
今までお話ししました原稿は、すべてブログの方に掲載しております。
ひだっちブログで「飛騨の歴史再発見」というブログの方に掲載しております。
それ以外にも数々の調べた事を掲載しております。
YahooやGoogleなどの検索サイトからも、「飛騨の歴史再発見」という項目を入れて
検索していただきますと、私のブログが出てまいります。
過去のお話について、ご覧になりたい方は、そちらの方をご利用ください。
さて、今までどんなことをお話ししてきたか。ちょっと振り返って参りましょう。
200項目もあると、大変な量になりますので、ここでは内容というより、御紹介にとどめ
たいと思います。
まず、シリーズでお届けしたものは、一番最初に、高山祭の屋台を造った谷口与鹿について。
こちらは二番目に長い7回シリーズでお届けしました。
谷口与鹿が生まれてから43歳で亡くなるまでの彼の行動がどのようであったか、お話して
まいりました。
高山で生まれ、17歳で彫刻家としてデビューし、29歳で高山を去るまで、どのような作品を
残したか。その後、兵庫県の伊丹に行き、亡くなるまでどのような余生を送ったかについて
お話しいたしました。
このために、実際に伊丹に4回も行き、いろいろとお調べしたことをお話ししました。
一番長いシリーズものとしては、先ほどもお話ししましたが、飛騨の祭屋台についてです。
これは現在も継続しておりますが、今回までに12回のシリーズとなっております。
高山祭の屋台は、春祭りが12台。秋祭りが11台ありますが、実は国の有形民俗文化財と
なっているものは、それ以外に、東山の神楽台と総社の神楽台の2台を含めて25台の屋台が
現存しています。
しかしこれ以外にも焼けてしまったとか他の地域に売却された屋台が春祭りで3台、秋祭りで
4台ありますので、こういったものも含めながら私のお調べした範囲内でお話しております。
これからは、古川祭の屋台や高山周辺地域に現存する三日町白山神社の神楽台などの屋台。
祭の森の平成の屋台なども含めてお話していこうと思っています。
もう一つ、シリーズとしては、飛騨で江戸時代に活躍した大工さんのお話をしてきました。
大工さんと言ってもものすごい数に上りますので、ここでは、江戸時代に○○守とか、公家の
称号を獲得した大工さんについてお話してきました。
平成19年に匠学会で飛騨の匠展を開催しましたが、その時に展示した飛騨の匠の祖 藤原
宗安の系統を持つ水間相模家ですとか、松田太右衛門、屋台建造で有名な谷口権守家、村山
陸奥守家、昭和の時代まで活躍した坂下甚吉家などを取り上げました。
私が力を入れてきたものについては、飛騨の酒造業について。
かつて元禄時代には飛騨に68軒あったと言われる酒造メーカーが現在は、高山8軒。古川
2軒、神岡1軒、萩原1軒、金山1軒の12軒になってしまいました。
最近になって、高山の酒造メーカーが廃業されるなどその数がまた減ってしまいましたが、
その栄枯盛衰についてお話しいたしました。
次に良くお話ししたものは、金森家について。
金森長近が天正13年(1585)に飛騨に侵入し、高山の町をどのように作ってきたか。
どのような政治を行ってきたか。また街道などの整備をどのようにしてきたか。浄土真宗と
どのようにしてつきあってきたかについて、お話ししました。
こちらもまだまだたくさん調べておりますが、お伝えしていない内容がかなりございます。
引き続きお調べしたことからお話しております。
そして、古川地区のお話では、姉小路家について、応永飛騨の乱について。
昨年開催した姉小路と廣瀬のイベントについて。山城について。古川盆地の古寺院について。
増島城について、瀬戸川用水を造った快存上人について・・・などとこちらも沢山のお話を
して参りました。
こうして振り返ってみますと、まだまだお話していないことだらけだなあと思います。
こうやってお話しするためには当然それなりの資料などを見なくてはいけないのですが、
例えば高山市史という本を開いても、厚さが8cm程もある本ですので、ものすごく時間が
かかります。
そこで、パラパラとめくっては付箋を貼り、マーキングをして原稿を書くときに引っ張って
くると云うことをしています。
当然漏れも有りますので、間違ってはいないと思いますが、こんなこともあるよという事を
御存知でしたらお知らせいただきたいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週はちょっと志向を変えまして、飛騨の鶏ちゃんについて
お届けしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は「坂本冬実 恋は火の舞剣の舞」をお届けします。
また来週、お会いしましょう!
徳積善太