7月22日放送分_八幡祭りの屋台_文政台・牛若台・大八台
(7月22日放送分 第206回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、母校の京都産業大学同窓会の岐阜県支部総会を高山で行いました。
ご参加いただきました方にはありがとうございました。
今回は、現役の学長先生を始め、50数名の方に高山までお越しいただき、飛騨牛のしゃぶしゃぶ
を召しあがっていただきました。
やはり、本物の飛騨牛は大変おいしかったらしく、参加いただきました皆さんには、大変満足していただきました。

その懇親会の席上、高山のめでたと、古川の若松様をご出席の皆さんにご披露申し上げました。
同窓会となると、高山の皆さんもおられれば、古川の皆さんもおられます。そこで、高山の宴席文化
について知っていただこうと、めでたの由来をお話しし、
めでたの席というものが、食べ物を十分にいただき、作った人に対して感謝すると云うこと。
最初は席を立たずに、十分に食事を召しあがりながら、近隣の人と会話を楽しむものだと云う事。
結果的にそれが悪酔いを避ける事になる事。
そして、めでたが済んだら、無礼講になって、初めて席を立って他の席の方と交流をしていただく、
いわゆるけじめの意味が有ると云う事を申し上げました。
学長先生はじめ、高山の宴席は初めてという事もあって、私たちが披露するめでたに、大変感動された
ばかりか、古川のめでた=古川では若松様と言いますが、を2つも同時に効く事が出来た事。
そのあとに、ぜんぜのこまんまのこという歌を聴けたと云う事が非常に意義のあることだと感心して
おられました。
披露した私たちも、こういった文化が残っているということが非常に素晴らしいことだと実感いたしました。
ただし、そのあとで、これが余興芸だと勘違いした司会の方が、その後に続いて、他の方で宴会芸を
披露していただける方がないかと言ったようなアナウンスをされたことが非常に残念でした。
思わず、めでたの意味と、宴会芸ではないと云う事を申上げて、理解していただきましたが、一般には、
めでたをそういう感覚でつかまれるのだと思い、現代日本人の感覚が自由を得たのはいいですが、
けじめという事に関しては、少しずれてきているのかなとも思いました。
高山に住む一人として、こういった宴会でのマナーや所作について、私たちは知らず知らずのうちに
マナーを体得しているといったことがこのめでたの作法によって教えられている部分が有るんだと
思いました。
私たちは、飛騨に住まいをしておりますが、誰に習ったと云う事無く、こういった文化の中で育てられ、
気品と言いますか、モラルを会得しているんだなと実感しました。
さて、本日の放送に移りましょう。本日の放送は、もう1年になりますが、飛騨の屋台の話をお届けして
おります。今週は、下一之町の屋台、「文政台」「牛若台」と「大八台」についてお話したいと思います。
みなさん、大八台は御存じでしょうが、「文政台」「牛若台」と聞いて、え、どこの屋台?と思われたかも
しれません。それもそのはず、この2つの屋台は現在は屋台組があるのですが、屋台そのものは焼失
してしまって、現存しておりません。
この屋台組は、それぞれ下一之町の下組の屋台なんですが、どちらも明治8年の高山大火の時に焼失
してしまって、現在までに再建されることが無かった屋台なんです。
まず、屋台組のエリアですが、「牛若台」のエリアについてお話しましょう。
下一之町の所に高山信用金庫の本店が有りますが、その建物の裏あたり。そこにはかつて寺うちまちと
書いて、寺内町という町内が有りました。
高山別院照蓮寺のお坊さんやその方々を補佐した人たちが住んでいたと言われる町内で、金森時代は
一之町村の町年寄の下に所属せず、完全な治外法権の町と言われて居たエリアです。
現在ちょうちんで見る限りでは、そのエリアは、別院の下寺内坂付近から、裏通り一帯。そして江名子川を
ぐるっと回って、別院の裏の暎芳寺のあたりまでがこの寺内町のエリアとなっているようです。
次に、文政台と大八台ですが、まず文政台組のエリアは、下一之町でも一番下、通りの西側の方の山下
税理士事務所から大町というラーメン屋さんまでの7軒ほど。
大八台は、西側のその続きの、浦田の酒屋さんから江名子川の角を廻って屋台蔵までのエリアが大八台
組です。
ですから、家の数はやはり7~8件という少ない件数で屋台組の運営がされて居るんです。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。「沢田研二 カサブランカダンディ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「八幡祭りの屋台 牛若台、文政台、大八台」についてお話しています。
先月の放送でもお話ししたように、金鳳台と文政台=この二つの組は、かつて板屋組として享保年間には
「猩々」という1つの屋台組でしたが、その後、上の金鳳台組と文政台組に分裂しました。
大八台組の草創は不明ですが、提灯の形式が味楽に台紋をつけただけの形式であることや、文政元年に
文政台ができたときに、大八台組も同時にできていることから、かつて板屋組の一員だった屋台組が金鳳、
文政、大八の3つに分裂した屋台組なのではないかと思われます。
さて、それぞれの屋台についてお話したいと思います。まず、大八台から。
この屋台は、高山に現存する屋台でも、もっとも変った形をしております。
一番異なる部分は、中段の部分で、たいていの屋台が御簾といってすだれを下げ、中が見えなくしているの
に対して、この屋台は朱塗りの匂欄を撒き、六本の黒塗りの柱を立てた吹き抜けとなっています。

また、下段は、赤黄緑白黒の五色の堅幕が巻かれて、後部からの出入りは、この幕を上げて出入りする
構造になっています。
この屋台の御所車は、高山祭の屋台中最も大きな御所車で、直径が五尺三寸といいますから、約1.6m強
ある巨大な物です。

上段には、側面と後部に五つの小さな几帳を立て、屋根には、大きな金の御幣が二つ取り付けられています。
この御幣は金の御幣で前面のものが八幡宮。後ろのものが春日宮を表しています。

天幕に鏡があるのは、上段に神様をお祀りしていると云うことから、中段から上段には上がれない様に、
中段の天井が金の格天井になっているのも特徴です。

かつては、烏帽子直衣の六人の子供が笛・太鼓・小太鼓・摺金の楽器を担当し、大八の曲を演奏しました。
他の屋台組にこの大八台の曲が伝えられ、大八崩しとしてお囃子に使っている屋台が高山で6つ、古川で
1つあります。
この屋台は、三輪ですが、一番最初に作られた三輪屋台と言われ、大工の光賀屋清七が作ったものです。
それまで曳き綱や大梃子が屋台を操作していたのを、肩綱で回転で小回りが出来るような構造にしたそう
です。
当時としては大冒険で、完成して初めての祭に郡代が見参するというので、屋台を上町まで曳いて行った
ことがありました。
その折、中橋のたもとの橋番に挨拶して橋を渡るときに、木橋である橋はそりが急で、無事渡ることができる
かどうか、大変注目されました。
ところが、清七は、無事にわたるという自信がなく、布団をかぶって寝ていたそうですが、無事にわたったと
聞いて飛び起きたという逸話が残されています。
次に、文政台ですが、組内に伝わる伝承によりますと、かつてこの屋台は、屋根は唐破風で、文の字崩し
の台紋を付け、上段には簾、中段には猩々緋の大幕が張りめぐらされ、下段は黒銀砂子に朱塗格子、
車は大板車四輪で、※大瓶猩々の人形(カラクリ)を飾ったと伝えられています。

私もこの屋台については何も知らなかったのですが、丁度今年の八幡大祭の時に、組内にこの文政台の
車輪と御簾を飾ったコーナーが有り、初めて文政台の遺品を見ることが出来ました。

御簾は、現在の屋台と同じような形をして、御簾の上に緑色の布がついたものでしたが、車輪は古老の
伝承では、板車四輪となっていますから、あの時展示されていたものは、御所車で、大きさも小さいもの
でしたから、車は台銘旗の台車の車輪ではないかと思われます。

さて、最後に牛若台ですが、もともと「橋弁慶」という名前の屋台でした。

建造したのは、飛騨の匠の名工と言われた水間相模一族といわれています。
年代からすると大雄寺の山門を造った二代目の水間相模の頃ではないかと思われます。
この屋台の形については、何も史料が残っていませんが、長倉三郎先生の「屋台雑考」には、次の様に
書いてあります。
「車は三輪で、外の二輪の大車は弁慶の紋所の法輪を崩した物で、法輪型の金具が打ってあった。
下段には朱塗り格子に波と千鳥の彫刻を入れ、中段の匂欄は中橋の橋の欄干のような擬宝珠を
つけた橋の欄干型に龍虎の彫刻を施し、中段には緋羅紗幕に簾を吊り。上部には墨絵の雲流の
水引幕、欄間には極彩色の桜と菊の彫りで、四隅には烏天狗が瓔珞を咥えて下げていた。
上段は朱塗りの匂欄を廻らし、上段柱は朱塗りの丸柱。天幕は紫縮緬。屋根は切破風。天井には
九陽星の模様を付けていた」
ということですから、現在の他の屋台に近い、かなり立派なものだったと思われます。
その屋台も、明治八年四月二十四日。下弐之町桐山源兵衛宅より出火した、俗に言う桐山焼けの時に、
屋台蔵が無かったため、各家々に部品をばらして保管していた為、ほとんどを焼いてしまったという事
です。一部、緋羅紗幕、雲龍の水引幕、天幕、簾、弁慶の長刀が焼け残ったという事ですが、現在は
どちらに保管されているのでしょうか。その存在が分かりません。
ご存じの方がありましたらお知らせください。
さて、本日も時間となりました。今月は金曜日が2回ありますので来週は、お休みになります。
差来週の放送では、文化13年に大雄寺に来高した徳本上人のお話をしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は「松田聖子 セイシェルの夕陽」をお届けします。
それでは、またさ来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、母校の京都産業大学同窓会の岐阜県支部総会を高山で行いました。
ご参加いただきました方にはありがとうございました。
今回は、現役の学長先生を始め、50数名の方に高山までお越しいただき、飛騨牛のしゃぶしゃぶ
を召しあがっていただきました。
やはり、本物の飛騨牛は大変おいしかったらしく、参加いただきました皆さんには、大変満足していただきました。

その懇親会の席上、高山のめでたと、古川の若松様をご出席の皆さんにご披露申し上げました。
同窓会となると、高山の皆さんもおられれば、古川の皆さんもおられます。そこで、高山の宴席文化
について知っていただこうと、めでたの由来をお話しし、
めでたの席というものが、食べ物を十分にいただき、作った人に対して感謝すると云うこと。
最初は席を立たずに、十分に食事を召しあがりながら、近隣の人と会話を楽しむものだと云う事。
結果的にそれが悪酔いを避ける事になる事。
そして、めでたが済んだら、無礼講になって、初めて席を立って他の席の方と交流をしていただく、
いわゆるけじめの意味が有ると云う事を申し上げました。
学長先生はじめ、高山の宴席は初めてという事もあって、私たちが披露するめでたに、大変感動された
ばかりか、古川のめでた=古川では若松様と言いますが、を2つも同時に効く事が出来た事。
そのあとに、ぜんぜのこまんまのこという歌を聴けたと云う事が非常に意義のあることだと感心して
おられました。
披露した私たちも、こういった文化が残っているということが非常に素晴らしいことだと実感いたしました。
ただし、そのあとで、これが余興芸だと勘違いした司会の方が、その後に続いて、他の方で宴会芸を
披露していただける方がないかと言ったようなアナウンスをされたことが非常に残念でした。
思わず、めでたの意味と、宴会芸ではないと云う事を申上げて、理解していただきましたが、一般には、
めでたをそういう感覚でつかまれるのだと思い、現代日本人の感覚が自由を得たのはいいですが、
けじめという事に関しては、少しずれてきているのかなとも思いました。
高山に住む一人として、こういった宴会でのマナーや所作について、私たちは知らず知らずのうちに
マナーを体得しているといったことがこのめでたの作法によって教えられている部分が有るんだと
思いました。
私たちは、飛騨に住まいをしておりますが、誰に習ったと云う事無く、こういった文化の中で育てられ、
気品と言いますか、モラルを会得しているんだなと実感しました。
さて、本日の放送に移りましょう。本日の放送は、もう1年になりますが、飛騨の屋台の話をお届けして
おります。今週は、下一之町の屋台、「文政台」「牛若台」と「大八台」についてお話したいと思います。
みなさん、大八台は御存じでしょうが、「文政台」「牛若台」と聞いて、え、どこの屋台?と思われたかも
しれません。それもそのはず、この2つの屋台は現在は屋台組があるのですが、屋台そのものは焼失
してしまって、現存しておりません。
この屋台組は、それぞれ下一之町の下組の屋台なんですが、どちらも明治8年の高山大火の時に焼失
してしまって、現在までに再建されることが無かった屋台なんです。
まず、屋台組のエリアですが、「牛若台」のエリアについてお話しましょう。
下一之町の所に高山信用金庫の本店が有りますが、その建物の裏あたり。そこにはかつて寺うちまちと
書いて、寺内町という町内が有りました。
高山別院照蓮寺のお坊さんやその方々を補佐した人たちが住んでいたと言われる町内で、金森時代は
一之町村の町年寄の下に所属せず、完全な治外法権の町と言われて居たエリアです。
現在ちょうちんで見る限りでは、そのエリアは、別院の下寺内坂付近から、裏通り一帯。そして江名子川を
ぐるっと回って、別院の裏の暎芳寺のあたりまでがこの寺内町のエリアとなっているようです。
次に、文政台と大八台ですが、まず文政台組のエリアは、下一之町でも一番下、通りの西側の方の山下
税理士事務所から大町というラーメン屋さんまでの7軒ほど。
大八台は、西側のその続きの、浦田の酒屋さんから江名子川の角を廻って屋台蔵までのエリアが大八台
組です。
ですから、家の数はやはり7~8件という少ない件数で屋台組の運営がされて居るんです。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。「沢田研二 カサブランカダンディ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「八幡祭りの屋台 牛若台、文政台、大八台」についてお話しています。
先月の放送でもお話ししたように、金鳳台と文政台=この二つの組は、かつて板屋組として享保年間には
「猩々」という1つの屋台組でしたが、その後、上の金鳳台組と文政台組に分裂しました。
大八台組の草創は不明ですが、提灯の形式が味楽に台紋をつけただけの形式であることや、文政元年に
文政台ができたときに、大八台組も同時にできていることから、かつて板屋組の一員だった屋台組が金鳳、
文政、大八の3つに分裂した屋台組なのではないかと思われます。
さて、それぞれの屋台についてお話したいと思います。まず、大八台から。
この屋台は、高山に現存する屋台でも、もっとも変った形をしております。
一番異なる部分は、中段の部分で、たいていの屋台が御簾といってすだれを下げ、中が見えなくしているの
に対して、この屋台は朱塗りの匂欄を撒き、六本の黒塗りの柱を立てた吹き抜けとなっています。

また、下段は、赤黄緑白黒の五色の堅幕が巻かれて、後部からの出入りは、この幕を上げて出入りする
構造になっています。
この屋台の御所車は、高山祭の屋台中最も大きな御所車で、直径が五尺三寸といいますから、約1.6m強
ある巨大な物です。

上段には、側面と後部に五つの小さな几帳を立て、屋根には、大きな金の御幣が二つ取り付けられています。
この御幣は金の御幣で前面のものが八幡宮。後ろのものが春日宮を表しています。

天幕に鏡があるのは、上段に神様をお祀りしていると云うことから、中段から上段には上がれない様に、
中段の天井が金の格天井になっているのも特徴です。

かつては、烏帽子直衣の六人の子供が笛・太鼓・小太鼓・摺金の楽器を担当し、大八の曲を演奏しました。
他の屋台組にこの大八台の曲が伝えられ、大八崩しとしてお囃子に使っている屋台が高山で6つ、古川で
1つあります。
この屋台は、三輪ですが、一番最初に作られた三輪屋台と言われ、大工の光賀屋清七が作ったものです。
それまで曳き綱や大梃子が屋台を操作していたのを、肩綱で回転で小回りが出来るような構造にしたそう
です。
当時としては大冒険で、完成して初めての祭に郡代が見参するというので、屋台を上町まで曳いて行った
ことがありました。
その折、中橋のたもとの橋番に挨拶して橋を渡るときに、木橋である橋はそりが急で、無事渡ることができる
かどうか、大変注目されました。
ところが、清七は、無事にわたるという自信がなく、布団をかぶって寝ていたそうですが、無事にわたったと
聞いて飛び起きたという逸話が残されています。
次に、文政台ですが、組内に伝わる伝承によりますと、かつてこの屋台は、屋根は唐破風で、文の字崩し
の台紋を付け、上段には簾、中段には猩々緋の大幕が張りめぐらされ、下段は黒銀砂子に朱塗格子、
車は大板車四輪で、※大瓶猩々の人形(カラクリ)を飾ったと伝えられています。

私もこの屋台については何も知らなかったのですが、丁度今年の八幡大祭の時に、組内にこの文政台の
車輪と御簾を飾ったコーナーが有り、初めて文政台の遺品を見ることが出来ました。
御簾は、現在の屋台と同じような形をして、御簾の上に緑色の布がついたものでしたが、車輪は古老の
伝承では、板車四輪となっていますから、あの時展示されていたものは、御所車で、大きさも小さいもの
でしたから、車は台銘旗の台車の車輪ではないかと思われます。

さて、最後に牛若台ですが、もともと「橋弁慶」という名前の屋台でした。

建造したのは、飛騨の匠の名工と言われた水間相模一族といわれています。
年代からすると大雄寺の山門を造った二代目の水間相模の頃ではないかと思われます。
この屋台の形については、何も史料が残っていませんが、長倉三郎先生の「屋台雑考」には、次の様に
書いてあります。
「車は三輪で、外の二輪の大車は弁慶の紋所の法輪を崩した物で、法輪型の金具が打ってあった。
下段には朱塗り格子に波と千鳥の彫刻を入れ、中段の匂欄は中橋の橋の欄干のような擬宝珠を
つけた橋の欄干型に龍虎の彫刻を施し、中段には緋羅紗幕に簾を吊り。上部には墨絵の雲流の
水引幕、欄間には極彩色の桜と菊の彫りで、四隅には烏天狗が瓔珞を咥えて下げていた。
上段は朱塗りの匂欄を廻らし、上段柱は朱塗りの丸柱。天幕は紫縮緬。屋根は切破風。天井には
九陽星の模様を付けていた」
ということですから、現在の他の屋台に近い、かなり立派なものだったと思われます。
その屋台も、明治八年四月二十四日。下弐之町桐山源兵衛宅より出火した、俗に言う桐山焼けの時に、
屋台蔵が無かったため、各家々に部品をばらして保管していた為、ほとんどを焼いてしまったという事
です。一部、緋羅紗幕、雲龍の水引幕、天幕、簾、弁慶の長刀が焼け残ったという事ですが、現在は
どちらに保管されているのでしょうか。その存在が分かりません。
ご存じの方がありましたらお知らせください。
さて、本日も時間となりました。今月は金曜日が2回ありますので来週は、お休みになります。
差来週の放送では、文化13年に大雄寺に来高した徳本上人のお話をしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は「松田聖子 セイシェルの夕陽」をお届けします。
それでは、またさ来週、お会いしましょう!
徳積善太