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万人講の石碑1

高山市の桐生町には、万人講と言う石碑が集まった場所があります。

これは、大原騒動や飢饉の時に亡くなった人を弔うために、建立されたのだと
思っておりましたが、そこには、たくさんの石碑があることを知りました。
万人講の石碑1
それぞれについて、今日からシリーズでお知らせしたいと思います。

まず、高山市の文化財には、万人講について、下記のように記されています。
万人講の石碑1

万人講

金森時代の延宝三年(1675)飛騨地方に餓死者三千人とも一万人ともいわれる
大飢饉があった。その時桐生川原に抗を掘って埋めたので万人抗と呼ばれた。
七年後の天和二年(1692)色都(きのいち)という盲人が喜捨を集めて供養塔を
建てたのが万人講の元である。

 ここは金森時代から徳川直轄時代に引き続いて刑場であったので、磔・獄門・
火刑などが行われた。
正徳四年(1714)の冬、下向町 座頭清頓の娘おろくが、一之町の大工久兵衛
との恋のもつれから、久兵衛の家に放火して捕えられて火刑に処せられた。
あまりに悲惨な死に方であったので哀れんだ人たちが供養のために建立した
おろく地蔵、翠何除けの法華経塔、どのような罪で処刑されたのか、釈尼悪照の
墓などここには苦難に満ちた人の世の歴史が眠っている飛騨唯一の刑場跡で
ある。

大原騒動で磔になった一ノ宮神官森伊勢他三名や、獄門になった片野村新太郎
他七名の犠牲者の供養碑は大谷村の久治が雲龍寺存妙と建立した。
犠牲者の妻や娘が真夜中、ひそかに刑場から晒された首や遺体を宮村へ持ち帰り、
埋葬したという哀れな話も伝えられている。

串柿仙人の逸話を持つ喚応是誰は、文政11年(1828)豪商谷屋の援助でこの地に
少庵を建てて住み、越中街道を通る人々に茶を接待しながら、死刑者に引導を渡し
その供養をした。その是誰の墓も万人講に並んでいる。


あすからは、そのそれぞれについて、もう少し詳しくお知らせしたいと思います。

徳積善太

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