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万人講の石碑2_水害除法華経塔

角竹先生が、昭和30年(1955)に万人講について書き記したものがありました。


「万人講の話   角竹如山(史壇P5.P6)
高山市桐生町の有志者たちは、九月十八日同町倶楽部に集まり金森時代から明治初年
までの刑場であり、又延宝三年(1675)飛騨大飢饉の餓死者万余の死体を埋めたと
伝えられる万人講の保存会を結成し、保存と顕彰運動にのり出した。

昔の刑場の区域と広さがわからぬが、現在は狭まくなって居る事に間違ない。雑草の中に
水害除法華経塔・大原騒動義民供養碑・餓死者供養碑・希特僧是誰の墓・お六地蔵・
無名氏(法名釈尼悪照)の墓 以上六基の墓碑と外に何の為に建てたか不明の一基
がある。

今はないが、明治中期ごろ、花里の善光寺に移された念仏僧徳本上人の供養碑が建って
居た。

明治元年高山県知事梅村速水が堤防築造の完成を喜び、工事を手伝った百姓や町人を
大勢招いて祝宴を催したのも此地であり、梅村知事に引立られた勧農役、名張村五郎左衛門
が、暴民のため石打の私刑になって気の毒な横死をしたのも、やはりここの刑場であった。

悲惨な史実の一面には、同情の籠もった美談の数々が伝えられて居るが、飛騨の多くの人は、
その史実と美談を忘れ去って、それぞれの哀碑が如何なるものであるかを知られなくなったの
は申訳ないことである。

以下、宮川に向かって左より右へ順次にそれぞれの墓碑について解説して見る。

(1) 水害除法華経塔
万人講の石碑2_水害除法華経塔
宮川の水防のため宝永二年(250年前)東山法華寺止静院日在(註1)が高山の入口石浦村と、出口
桐生村に建てたもので、下には法華経一字一石書写の小石が埋めてある。
石浦村のものは当時のまま現存して居るが、桐生村の物は凍み崩れたので、文化十四年四月
(1817)これを再建した。宮川に面して居るのは、此法華経塔のみであるのは水防上意義
あることである。

高山の加藤小三郎翁(号歩簫)の記録「紙魚のやとり」が出版されるまでは、石浦村・桐生村一対の
水除供養塔であることが知れなかったものである。
水害除法華経塔建立は高山市千島・吉城郡古川町・益田郡萩原町にもあり、民俗学研究の一資料
を提供して居る。」


石浦のもの、千島、古川、萩原のものは、調べていませんが、どこかにあるものと思われます。
調べてみたいと思います。

(註1:平成23年8月1日、石浦のものを確認したところ、宝永二年に建造された石碑がありました。
上記の史料には、止静院日在が作ったとありますが、法華寺九代目の僧侶(名称調査中)が
建造し、文化14年に19代目の止静院日在が、桐生の石碑を建造したことがわかりました。)



徳積善太
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