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8月5日放送分_徳本上人の石碑について

(8月5日放送分 第207回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

皆さんには、2週間ぶりとなりますが、いかがお過ごしですか?
 それにしても毎日暑いですねえ。今年は、東日本大震災の影響で、原子力発電所が各地で
運転停止となり、全国的に節電が呼び掛けられていますが、大手自動車メーカーなどが、
平日を休んで土日の操業にしたり、大手コンビニでは、節電営業を行っていたり。
また各家庭でもなるべくクーラーを使わないなど、節電運動につとめておられるためか、今の
所、電力供給量が需要を下回ると言ったことは起こっていないようですね。

今年は、気象庁でも、天気予報ならぬ電気予報を出して、節電の啓もう活動に努めておられます
が、あと一カ月、我慢すれば何とか山は越えそうです。
しかし、昨年は9月まで酷暑が続きましたから、今年はいかがでしょうか。

私も、朝晩の涼しい時に、庭や道路になるべく打ち水をするように心がけました。
家の前には宮川から引いて来てあるきれいな水がこうこうと流れていますし、庭先には裏の横井戸
から引っ張ってきた水があります。
だいたい夏でも摂氏16度くらいなので、樹木などの葉っぱにかけてやると、そこから落ちてきたしずく
で、結構庭が涼しくなります。ただし、アスファルトの方は、かなり熱を持っているせいか、一度まいた
くらいではお湯になってしまって、ちっとも冷えません。
なるべく数回にわたってまいてやるのですが、3回くらい撒くと、道路が結構冷たくなるような気がします。

夜のうちは、高山の場合気温が下がりますから、そこまでしなくてもいいかもしれませんが、昼間の
間に温められた地面は、そんなにすぐには温度が下がりません。
そうやって工夫をしてやっていたせいか、観光客の皆さんが店に入ってこられて、「ここは涼しいわね」
とおっしゃってくださいました。

元来、高山の家というものは、かつて固定資産税が間口割だったという事もあって、ウナギの寝床の
ように細長い家が多いです。
ところが、冬は屋根の雪下ろしをする雪捨て場。夏には、水を撒いて天然のクーラーになる様に「中庭」
というものが作られています。
いまはエコが叫ばれていますが、こういった先人たちの知恵を生かさない手は、無いですよね。

さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先々週お話ししましたように、「徳本上人の石碑について」というお話をしたいと思います。
徳本上人と聞いても、それは誰?という方が多いことと思います。
簡単に申し上げますと、浄土宗の高僧で、文化13年(1818)に高山に来られた方です。
実は、高山のあちこちに徳本上人がお書きになった「南無阿弥陀仏」の6字名号が、石碑にされて、
建立されています。

たとえば、高山で見れるところは、大雄寺の境内。
8月5日放送分_徳本上人の石碑について
こちらは、山門をくぐったところで、右手に鐘楼が見えますが、その手前の所に、大きな「南無阿弥陀仏」
と書かれた石碑が有ります。この文字が独特で、それぞれの文字が、縁起がいいように上に跳ねたような
筆跡になっています。

同じ文字の物が、大雄寺の裏にある洞雲院の境内にもあります。
8月5日放送分_徳本上人の石碑について
こちらのものは、大雄寺のものよりは一回り小さい石に書かれています。

そして、八軒町の善光寺の境内にも洞雲院と同じくらいの石碑が有り、これは桐生町の万人講に建てられ
た物をこちらに移転されたものだそうです。
8月5日放送分_徳本上人の石碑について

私は以前から、この揮毫の石碑が気になっていて、どなたがお書きになったものかと思っておりました。
あるとき、家の蔵を整理していた時に、同じ筆跡の掛け軸を見つけました。箱書きには間違いなく、徳本
上人筆六字名号と書かれて居り、中には、南無阿弥陀仏の文字が揮毫されて居りました。
今日は、これをお書きになった徳本上人がどのような方であったか、それにまつわるお話をしたいと思います。

高山市の歴史を書いた「高山市史」によりますと、次の様なことが書かれています。
原文は難しいので意訳しますと、
「文化13年子夏信州処々に招待され飯田に巡説の折から、大雄寺より招待の願が受け入れられ、7月14日
飛騨に入国、下呂武川に一宿、15日夜は萩原、16日は小坂泊、17日夕高山大雄寺着、随身之僧5・6人、
役僧二人俗役其他従者凡20人に足らず18日より20日迄三日之間一日三座夕べ念仏説法あり、本堂正面
之縁端に高座を置いて、参詣の男女が堂内より広庭充満し、さんせん無用の札、女中之かぶり綿等禁止
した、21日休席、22日3日化益前後五日間説法、国内村々では高原筋・八賀筋の老若男女が家毎に残らず
代り代り参詣し、他国では越中より来る者も多かった。当国未曾有之群参、高山町に菓子・豆腐売切れる
次第だった」等となっています。

ちょっとここでブレイクしましょう。 
曲の方は。夏らしい曲をお届けしましょう。「エアサプライ で ロストインラブ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「文化13年に高山に来られた徳本上人」についてお話しています。

そもそも徳本上人とは、どのような方かと言いますと、紀州日高郡志賀谷の久志村で宝暦八年(1758)に
お生まれになった浄土宗のお坊さんです。
関東國高僧傳という書物によりますと「四歳の時から六十一歳の臨終まで一日も怠けることなく念仏相続
した生涯は、個人無比の成就であった。師事するところなく、文字の知識を求めず、念仏三昧にして無間
の知恵を獲得し正覚の大悟に徹底したことは奇跡的記録である。」と記されています。
8月5日放送分_徳本上人の石碑について
昔、聖徳太子がお生まれになった時に、「天上天下唯我独尊」と言って、右手の指を上に、左手の指を
下にさし示してお生まれになったとの伝承がありますが、徳本上人は、南無阿弥陀仏の念仏を宝暦九年、
わずか二歳の時に始められ、四歳の頃から、毎日口癖に唱えていたという言伝えがあります。
天明三年二十六歳で出家しました。26歳までは家業の百姓に出精されていましたが、田の絆、山の谷で
物いふはたゞ念仏であったとされています。

 ちょっとここで、お念仏の事についてお話したいと思いますが、浄土宗や浄土真宗では「南無阿弥陀仏」
と唱えれば、臨終の際に、必ず阿弥陀様がお迎えくださって、極楽に往生できるとされています。
南無は、南に無いと書きますが、「私は帰依します」という意味だそうです。
法然上人は、比叡山で御修行の後、それまでは、数々の修業をこなしたお坊さんだけが極楽に行ける
とされていたものを、ただただ「南無阿弥陀仏」と念じるだけで、どんな人でも極楽に生まれ変わることが
できると悟られました。

その教えを、弟子の親鸞聖人にも受け継がれたために、浄土宗や浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と唱えれば、
極楽に往生できるという教えになっています。それは、一回唱える人でも千回唱える人でも、ちゃんと御救い
下さる。ただし、「その深きことは信人によるべし。」となっています。
ですから、唱える数が多ければ多いほど、確実に極楽への道が開かれると云う教えです。
これは、法然上人の御遺言「一枚起請文」という物に書かれています。

 浄土宗で得度を致しますと、お手次の御坊様(師匠)と檀家でお剃刀をうけた人たち(弟子)がお約束を
します。それは、必ず「南無阿弥陀仏」と唱えることを毎日300回以上唱えるというお約束です。
それをしないとお剃刀を受けた意味がありませんが、皆さんがちゃんとお約束されます。
その約束を守れるかどうかは、その人の心や徳の在りようにありますが、仕事や生活に追われている
現代人には、なかなか300回ですら難しいことだと思います。

それが、徳本上人は、一説によると「一日10万遍の日課念仏をし、昼夜寝ず、一日の食は、そば粉五勺
あるいは一合榧之実等にて飯を食べず、万民帰依厚く…」となっていますから、いかに徳のある高僧
だったかがわかります。

大雄寺の寺伝に、
「飛騨の人が徳本上人の真似をしようと、此の時にそば粉を献上しようとする人が増えて、高山中の
そば粉を買い求めたために、品切れになった」などという逸話も残っています。

徳本上人がいかに徳のあるお坊さんだったかについて、こんな言葉が残っています。ちょっとご紹介しましょう。
「人間は、常に、今日は大晦日であるといふ気持で家業を励むべきものである。さうすれば、大晦日には
平日よりも安心して暮らせる」

「人が自分を誇ったならば、その語った人を師匠であると思へ。何故ならば、自分の悪い所は自分で気付
かぬものである。それ故に人に誇られて自分の悪い所を改めたなら、応て善人になることができるもので
ある。」

「虚実の明かでない事は口に出して云ふものでない。大きな間違いも僅な一言から起るものである。」
などです。

 徳のあるお坊さんがお見えになると、群集が集まり、お布施の金額も大変な物だったようで、徳本上人が
1週間高山に滞在されただけで、お布施が65貫。寺香が13両も集まったとされていますから、すごいこと
だったんですね。ちなみに、徳本上人の揮毫石碑は、先ほど申し上げた大雄寺以外に、飛騨では、金山町、
萩原町、古川町の上人塚の快存上人の墓の後ろ、神岡町茂住・横山、猪谷の蟹寺。そして墨跡は個人宅
などにも現存しています。
8月5日放送分_徳本上人の石碑について
また、美濃地方には飛騨より早く文化6年に教化が行われたために、各所に石碑が残されています。
ただし、私の調べたところでは、高山の大雄寺の石碑が日本で一番最大のものだということです。
一度、大雄寺の山門をくぐって、右手にあります南無阿弥陀仏の石碑に拝んでみて下さい。
徳本上人の御利益が皆様にあろうかと思います。
またお墓も大雄寺の裏山に有ります。それだけ高山は徳本上人とのご縁について特別な場所だった
ようです。
8月5日放送分_徳本上人の石碑について
さて、本日も時間となりました。来週は、実は万人講に善光寺の徳本上人の石碑があったというお話を
しましたが、桐生町にある万人講のお話をしたいと思います。

本日はこの曲でお別れです。曲は「ザ・ピーナッツ ふりむかないで」。また来週、お会いしましょう! 

徳積善太
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この記事へのコメント

前田昭雄 さんのコメント

徳本行者に関心を持っている紀州人です。
パソコンで塩路善澄を検索してみてください。
郷土での資料が手に入ると思います。
Posted on 2012年01月02日 21:24

rekisy さんのコメント

前田様、情報ありがとうございます。一度調べてみます。
Posted on 2012年01月06日 00:52

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