8月12日放送分_万人講の話パート1
(8月12日放送分 第208回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
夏休みが始まって2週間たちますが、いかがお過ごしですか?
子供さんのおられるお宅では、海水浴に行ったり、山登りをしたり、お仕事以外にも家族
サービスで忙しい事ではないかと思います。
私のところでは、子供もある程度大きくなったので、子供を連れて外出ということはなくなり
ましたが、それでも高校生の子供をどこかに連れて行かないといけないと思っていますが、
実は夏の間は、いろんなイベントに出演したりすることが多いので、なかなかその時間が
とれません。
おまけに、仕事も稼ぎ時と言う事もあり、結構忙しく過ごしております。
高山の観光関連業者の方は、皆そうだと思いますが、一年のうちで一番忙しいときです
から、夏休みもなかなかとれずにおられる方も多いのではないでしょうか。
全国的には、今年の夏は、七月ほどではありませんが暑い夏を迎えていると云う事で、
涼しい所を求めて、旅行をされたりしていることと思います。
今年もいつもの年と変わりなく水の事故、山の事故のニュースが聞こえてまいります。
どうぞ、お子さんの小さなご家庭では、子供さんの行動に目を配っていただきますように
申上げます。
毎年のことながら、新学期が始まって、誰もいない机に花束が飾ってあるという光景は、
あまり好ましい物ではありません。無事安全に夏休みを送っていただきますようにお願い
申し上げます。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、桐生町にあります万人講のお話をしたいと
思います。

先日リスナーの方から、宿題をいただきました。
「長瀬さん、ちょっとお尋ねしたいのですが、桐生町にある万人講に『悪女の墓』って言う
のがあるのですが、あれってどんな悪女だったんですか?」ということでした。
私は、その悪女の墓と云うものすら、知らなかったので、
「ちょっと調べてみますから、時間をください」とお話しておりました。
私の認識では、桐生町の万人講と云えば、確か飢饉でお亡くなりになった方と大原騒動の
犠牲者を埋めたものではなかったかという認識だけだったんですが、調べて行くうちに、
たくさんの石碑や物語があることを知りました。
この内容は、とても一回でお話しできる量ではありませんので、ちょっと番組の予定を変更
しまして、2週にわたって放送させていただきたいと思います。
実は、先週お話ししました「八軒町善光寺の徳本上人の石碑」も、この万人講にあったもの
だったということがわかりました。徳本上人のご縁でこの万人講の事を紹介するようにされた
のかもしれませんね。

さて、まちの博物館に行って、万人講に関することを聞いてみましたが、学芸員の方々も
私とそう変わらない認識だったようです。そこで、皆さんのご協力をいただきまして、いろんな
資料を探して来て下さいました。
そもそも万人講は、高山市桐生町の有志の人たちによって、昭和30年9月18日に結成された
保存会によって、保存と顕彰運動が行われている史跡です。
ここは、金森時代から明治初年までの刑場として使われていた場所で、しかも延宝三年(1675)
に飛騨大飢饉の餓死者一万以上の死体を埋めたと伝えられています。
昔の刑場の区域と広さはわかりませんが、現在はかなり当時よりは狭まくなっていると思われ
ます。雑草の広がる中には、水害除法華経塔・大原騒動義民供養碑・餓死者供養碑・希特僧
是誰の墓・お六地蔵・無名氏(法名釈尼悪照)の墓 以上六基の墓碑と外に何の為に建てたか
不明の一基があります。
また、今は移転されましたが、明治中期ごろ、花里の善光寺に移された念仏僧徳本上人の
供養碑が建って居ました。
明治元年高山県知事梅村速水が堤防築造の完成を喜び、工事を手伝った百姓や町人を
大勢招いて祝宴を催したのもこの地であり、梅村知事に引立られた勧農役、名張村五郎左衛門
が、暴民のため石打の私刑になって気の毒な横死をしたのも、やはりここの刑場でした。
悲惨な史実の一面には、同情の籠もった美談の数々が伝えられていますが、飛騨の多くの人は、
その史実と美談を忘れ去って、それぞれの石碑がどんなものであるかを知られなくなっています。
それでは、後半からは、ここに建っている8つのそれぞれの墓碑について解説していきたいと
思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。「平山美紀 真夏の出来事」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「桐生の万人講」についてパート1をお話しています。
まず、水害除去を祈念した法華経塔についてお話します。

これは、宮川の水防のため宝永二年(1705)4月13日に東山法華寺九代の本明院日善上人が
高山の入口石浦村と、出口桐生村に建てたもので、下には法華経一字一石書写の小石が
埋めてあります。
石浦村のものは当時のまま現存していますが、桐生村の物は凍みてしまい崩れたので、
文化十四年(1817)四月に法華寺住職 止静院日在という人によって現在のものに再建され
ました。この方は、国学者 田中大秀の雅楽の師匠としても知られている方です。
さて、石碑は石浦のものは、現存しているとのことでしたので、調べてみましたら、石浦町の
七丁目の旧国道沿いに現在もあることが確認できました。

先日、この石碑を探して、石浦町にお住まいの田口さんをお尋ねしたところ、田口さんも
「最近、この石碑の事が気になって、何とかしようと思って居た所、あなたから話があり、大変驚いた。」
といわれましたので、一緒にお参りし、お線香とお花を上げてまいりました。
この法華経塔が宮川の近くにあるというのは、水防上意義あることです。
実は、この二つの石碑は、高山の加藤小三郎翁(加藤歩簫といったほうが有名ですが)彼の
記録「紙魚のやとり」が出版されてはじめて、石浦村・桐生村一対の水除供養塔であることが
わかったということです。
水害除法華経塔建立は高山市千島・吉城郡古川町・益田郡萩原町にもあり、民俗学研究の
一資料として大切なものであると、角竹先生は述べられて居ります。
この千島のものは、おそらくですが、天満町と千島町の境にある「大般若石塔」の事ではないかと
思いますが、飛騨産業さんの少し南側のところに結構大きな石碑として残っております。
次に、大原騒動義民供養碑についてお話します。

これは寛政八年(1796)小八賀郷大谷村(今の大野郡丹生川村大字大谷)の久治(今は荒川姓)
という人が、高山東山雲龍寺 存妙和尚と相談し、久治一人が施主となってこの大きな碑を
建てたものです。
表面には「南無三世諸佛」の文書が書かれていますが、これは笠ヶ岳の開山として、また能書の
定評がある東山宗猷寺の南裔和尚の書であると「紙魚のやとり」には書いてあります。
台石に「明治二十九年洪水倒溝 五世孫甚三郎修築」と銘してあるので、寛政八年に建てた碑が
洪水で倒れ損したのを、五世孫の荒川甚三郎氏が修築したことがわかります。
大原騒動は安永年間に起こった「安永騒動」と天明年間に起こった「天明騒動」と前後十数年間に
亘る長い騒動で、時の老中へ駕籠訴した人たちを供養したものです。
その駕籠訴をした人たちは=
片野村伝七・江名子村孫次郎・牧ヶ洞村善十郎・金桶村甚蔵・山本村彦兵衛・舟津町村太郎兵衛など
でした。
また、時の勘定奉行邸へ駆込願をした前原村藤右衛門をあわせた六人が江戸で打首になり、この
桐生万人講にて獄門に処せられました。(ただし、片野村伝七は江戸で死亡したといいます。)
この時には、宮村に大集合したという罪で 神主二人・百姓二人が、この地で磔に処せられました。
安永騒動だけでも磔四人・獄門十七人・打首三人・遠島十七人・追放十四人・たたき払五人・押込
三人・過料九千九十一人の多きに上りました。天明騒動では百姓側に三人の死刑者を出しました。
これ等の犠牲者の諸霊を供養するための碑が、ここに建てられている石碑なのです。
3つめに、餓死者供養碑についてお話します。

金森時代、延宝三年(1675)の飛騨大飢饉に餓死した
もの一万余(あるいは高山城下五万と書いた本もある)をこの地に埋めたのを、高山の座頭色の都
(しきのいち)が天和年間に供養して、この碑を建てたということです。
延享三年に書かれた上村満義著の「飛騨国中案内」には色の都と書いてそこに「しきのいち」と
仮名付けがしてあります。
惜しいことにこの石碑は碑面が風化してしまっていて、僅かに数文字を読みとることができる程度です。
4つめに、書写大乗妙典という、石碑がありますが、これには年号など記載がなく、また、由来について
もわかっておりません。石碑は、1mほどの高さのものですが、おそらく経塚ではないかと思われます。

さて、本日も時間となりました。
本日の原稿は、角竹先生が書かれた資料を参考にしましたが、やはり、今日は、4つの石碑に就いて
しかお話しできませんでしたね。
来週は、今日の続きで、桐生町にある万人講の残りの石碑のお話=喚応是誰の石碑の話し、悪女の墓
について、徳本上人の石碑のお話しなどをしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は「サザンオールスターズ 夏をあきらめて」。また来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
夏休みが始まって2週間たちますが、いかがお過ごしですか?
子供さんのおられるお宅では、海水浴に行ったり、山登りをしたり、お仕事以外にも家族
サービスで忙しい事ではないかと思います。
私のところでは、子供もある程度大きくなったので、子供を連れて外出ということはなくなり
ましたが、それでも高校生の子供をどこかに連れて行かないといけないと思っていますが、
実は夏の間は、いろんなイベントに出演したりすることが多いので、なかなかその時間が
とれません。
おまけに、仕事も稼ぎ時と言う事もあり、結構忙しく過ごしております。
高山の観光関連業者の方は、皆そうだと思いますが、一年のうちで一番忙しいときです
から、夏休みもなかなかとれずにおられる方も多いのではないでしょうか。
全国的には、今年の夏は、七月ほどではありませんが暑い夏を迎えていると云う事で、
涼しい所を求めて、旅行をされたりしていることと思います。
今年もいつもの年と変わりなく水の事故、山の事故のニュースが聞こえてまいります。
どうぞ、お子さんの小さなご家庭では、子供さんの行動に目を配っていただきますように
申上げます。
毎年のことながら、新学期が始まって、誰もいない机に花束が飾ってあるという光景は、
あまり好ましい物ではありません。無事安全に夏休みを送っていただきますようにお願い
申し上げます。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、桐生町にあります万人講のお話をしたいと
思います。

先日リスナーの方から、宿題をいただきました。
「長瀬さん、ちょっとお尋ねしたいのですが、桐生町にある万人講に『悪女の墓』って言う
のがあるのですが、あれってどんな悪女だったんですか?」ということでした。
私は、その悪女の墓と云うものすら、知らなかったので、
「ちょっと調べてみますから、時間をください」とお話しておりました。
私の認識では、桐生町の万人講と云えば、確か飢饉でお亡くなりになった方と大原騒動の
犠牲者を埋めたものではなかったかという認識だけだったんですが、調べて行くうちに、
たくさんの石碑や物語があることを知りました。
この内容は、とても一回でお話しできる量ではありませんので、ちょっと番組の予定を変更
しまして、2週にわたって放送させていただきたいと思います。
実は、先週お話ししました「八軒町善光寺の徳本上人の石碑」も、この万人講にあったもの
だったということがわかりました。徳本上人のご縁でこの万人講の事を紹介するようにされた
のかもしれませんね。

さて、まちの博物館に行って、万人講に関することを聞いてみましたが、学芸員の方々も
私とそう変わらない認識だったようです。そこで、皆さんのご協力をいただきまして、いろんな
資料を探して来て下さいました。
そもそも万人講は、高山市桐生町の有志の人たちによって、昭和30年9月18日に結成された
保存会によって、保存と顕彰運動が行われている史跡です。
ここは、金森時代から明治初年までの刑場として使われていた場所で、しかも延宝三年(1675)
に飛騨大飢饉の餓死者一万以上の死体を埋めたと伝えられています。
昔の刑場の区域と広さはわかりませんが、現在はかなり当時よりは狭まくなっていると思われ
ます。雑草の広がる中には、水害除法華経塔・大原騒動義民供養碑・餓死者供養碑・希特僧
是誰の墓・お六地蔵・無名氏(法名釈尼悪照)の墓 以上六基の墓碑と外に何の為に建てたか
不明の一基があります。
また、今は移転されましたが、明治中期ごろ、花里の善光寺に移された念仏僧徳本上人の
供養碑が建って居ました。
明治元年高山県知事梅村速水が堤防築造の完成を喜び、工事を手伝った百姓や町人を
大勢招いて祝宴を催したのもこの地であり、梅村知事に引立られた勧農役、名張村五郎左衛門
が、暴民のため石打の私刑になって気の毒な横死をしたのも、やはりここの刑場でした。
悲惨な史実の一面には、同情の籠もった美談の数々が伝えられていますが、飛騨の多くの人は、
その史実と美談を忘れ去って、それぞれの石碑がどんなものであるかを知られなくなっています。
それでは、後半からは、ここに建っている8つのそれぞれの墓碑について解説していきたいと
思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。「平山美紀 真夏の出来事」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「桐生の万人講」についてパート1をお話しています。
まず、水害除去を祈念した法華経塔についてお話します。

これは、宮川の水防のため宝永二年(1705)4月13日に東山法華寺九代の本明院日善上人が
高山の入口石浦村と、出口桐生村に建てたもので、下には法華経一字一石書写の小石が
埋めてあります。
石浦村のものは当時のまま現存していますが、桐生村の物は凍みてしまい崩れたので、
文化十四年(1817)四月に法華寺住職 止静院日在という人によって現在のものに再建され
ました。この方は、国学者 田中大秀の雅楽の師匠としても知られている方です。
さて、石碑は石浦のものは、現存しているとのことでしたので、調べてみましたら、石浦町の
七丁目の旧国道沿いに現在もあることが確認できました。

先日、この石碑を探して、石浦町にお住まいの田口さんをお尋ねしたところ、田口さんも
「最近、この石碑の事が気になって、何とかしようと思って居た所、あなたから話があり、大変驚いた。」
といわれましたので、一緒にお参りし、お線香とお花を上げてまいりました。
この法華経塔が宮川の近くにあるというのは、水防上意義あることです。
実は、この二つの石碑は、高山の加藤小三郎翁(加藤歩簫といったほうが有名ですが)彼の
記録「紙魚のやとり」が出版されてはじめて、石浦村・桐生村一対の水除供養塔であることが
わかったということです。
水害除法華経塔建立は高山市千島・吉城郡古川町・益田郡萩原町にもあり、民俗学研究の
一資料として大切なものであると、角竹先生は述べられて居ります。
この千島のものは、おそらくですが、天満町と千島町の境にある「大般若石塔」の事ではないかと
思いますが、飛騨産業さんの少し南側のところに結構大きな石碑として残っております。
次に、大原騒動義民供養碑についてお話します。

これは寛政八年(1796)小八賀郷大谷村(今の大野郡丹生川村大字大谷)の久治(今は荒川姓)
という人が、高山東山雲龍寺 存妙和尚と相談し、久治一人が施主となってこの大きな碑を
建てたものです。
表面には「南無三世諸佛」の文書が書かれていますが、これは笠ヶ岳の開山として、また能書の
定評がある東山宗猷寺の南裔和尚の書であると「紙魚のやとり」には書いてあります。
台石に「明治二十九年洪水倒溝 五世孫甚三郎修築」と銘してあるので、寛政八年に建てた碑が
洪水で倒れ損したのを、五世孫の荒川甚三郎氏が修築したことがわかります。
大原騒動は安永年間に起こった「安永騒動」と天明年間に起こった「天明騒動」と前後十数年間に
亘る長い騒動で、時の老中へ駕籠訴した人たちを供養したものです。
その駕籠訴をした人たちは=
片野村伝七・江名子村孫次郎・牧ヶ洞村善十郎・金桶村甚蔵・山本村彦兵衛・舟津町村太郎兵衛など
でした。
また、時の勘定奉行邸へ駆込願をした前原村藤右衛門をあわせた六人が江戸で打首になり、この
桐生万人講にて獄門に処せられました。(ただし、片野村伝七は江戸で死亡したといいます。)
この時には、宮村に大集合したという罪で 神主二人・百姓二人が、この地で磔に処せられました。
安永騒動だけでも磔四人・獄門十七人・打首三人・遠島十七人・追放十四人・たたき払五人・押込
三人・過料九千九十一人の多きに上りました。天明騒動では百姓側に三人の死刑者を出しました。
これ等の犠牲者の諸霊を供養するための碑が、ここに建てられている石碑なのです。
3つめに、餓死者供養碑についてお話します。

金森時代、延宝三年(1675)の飛騨大飢饉に餓死した
もの一万余(あるいは高山城下五万と書いた本もある)をこの地に埋めたのを、高山の座頭色の都
(しきのいち)が天和年間に供養して、この碑を建てたということです。
延享三年に書かれた上村満義著の「飛騨国中案内」には色の都と書いてそこに「しきのいち」と
仮名付けがしてあります。
惜しいことにこの石碑は碑面が風化してしまっていて、僅かに数文字を読みとることができる程度です。
4つめに、書写大乗妙典という、石碑がありますが、これには年号など記載がなく、また、由来について
もわかっておりません。石碑は、1mほどの高さのものですが、おそらく経塚ではないかと思われます。

さて、本日も時間となりました。
本日の原稿は、角竹先生が書かれた資料を参考にしましたが、やはり、今日は、4つの石碑に就いて
しかお話しできませんでしたね。
来週は、今日の続きで、桐生町にある万人講の残りの石碑のお話=喚応是誰の石碑の話し、悪女の墓
について、徳本上人の石碑のお話しなどをしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は「サザンオールスターズ 夏をあきらめて」。また来週、お会いしましょう!
徳積善太