南砺市の専徳寺2
専徳寺は、そもそも城端町の山の際にありました。

隣には、上見城という城跡があり、かなり広大な広さの場所に、谷などの地形を上手に利用した城郭が
あったものと思われます。
谷を挟んで、左側が上見城という内ヶ島氏の家来渡邊氏の居城。そして右側が嘉念坊善俊の弟子が開基したという
専徳寺の跡です。

現在は、林道が開かれてすぐ近くまでいけるようになっています。

結構広い敷地が、だんだんになっていて、中央には石碑がありました。

石碑には、銘とかはなく、単なる庭石をこのように組んだ可能性もあります。
富山県では、寺院跡として調査がなされたそうです。

中には、石垣の跡と思われる石も散乱しており、また、明らかに川石を持ち込んだと思われる石が点在していました。

少し離れたところには、専徳寺跡を示す看板が設置されていました。
そこには下記のように書いてあります。
「塔尾専徳寺の歴史
塔尾専徳寺は、白川郷の嘉念坊善俊の門徒(浄土真宗)の
道場がこの地で開かれたことから始まった。
本願寺は、一向一揆の戦いで越前の領国が封鎖された後、
飛騨街道の要として「専徳寺」を本願寺直参の寺院とした。
戦国末期には、火薬調達確保や、金沢御堂陥落後の最後の
拠点として五箇山防衛の前線基地となっていた。
専徳寺跡は、富山県内の中世寺院遺跡として唯一のもので
ある。」

発掘調査の時の地図も掲示されており、詳しく説明されていました。
この寺院については、飛騨の内ヶ島氏との関連がわかっており、かつて内ヶ島氏の勢力が、白川郷にとどまらず、
城端~福光地方にまで及んでいたことを指示します。
かつて高原郷の江馬氏も、高原郷のみならず、越中にまで勢力をはっていたことが知られていますが、内ヶ島氏
も同じように越中方面にまで勢力をのばしていたことがわかります。
これは、飛騨の歴史研究者の間では、今まであまり調査されていませんでした。
五箇山衆の動きや、加賀一向一揆との関係については、いまだ不明な部分が多いですが、今後の調査が待たれる
部分だと思われます。
徳積善太

隣には、上見城という城跡があり、かなり広大な広さの場所に、谷などの地形を上手に利用した城郭が
あったものと思われます。
谷を挟んで、左側が上見城という内ヶ島氏の家来渡邊氏の居城。そして右側が嘉念坊善俊の弟子が開基したという
専徳寺の跡です。

現在は、林道が開かれてすぐ近くまでいけるようになっています。

結構広い敷地が、だんだんになっていて、中央には石碑がありました。

石碑には、銘とかはなく、単なる庭石をこのように組んだ可能性もあります。
富山県では、寺院跡として調査がなされたそうです。

中には、石垣の跡と思われる石も散乱しており、また、明らかに川石を持ち込んだと思われる石が点在していました。

少し離れたところには、専徳寺跡を示す看板が設置されていました。
そこには下記のように書いてあります。
「塔尾専徳寺の歴史
塔尾専徳寺は、白川郷の嘉念坊善俊の門徒(浄土真宗)の
道場がこの地で開かれたことから始まった。
本願寺は、一向一揆の戦いで越前の領国が封鎖された後、
飛騨街道の要として「専徳寺」を本願寺直参の寺院とした。
戦国末期には、火薬調達確保や、金沢御堂陥落後の最後の
拠点として五箇山防衛の前線基地となっていた。
専徳寺跡は、富山県内の中世寺院遺跡として唯一のもので
ある。」

発掘調査の時の地図も掲示されており、詳しく説明されていました。
この寺院については、飛騨の内ヶ島氏との関連がわかっており、かつて内ヶ島氏の勢力が、白川郷にとどまらず、
城端~福光地方にまで及んでいたことを指示します。
かつて高原郷の江馬氏も、高原郷のみならず、越中にまで勢力をはっていたことが知られていますが、内ヶ島氏
も同じように越中方面にまで勢力をのばしていたことがわかります。
これは、飛騨の歴史研究者の間では、今まであまり調査されていませんでした。
五箇山衆の動きや、加賀一向一揆との関係については、いまだ不明な部分が多いですが、今後の調査が待たれる
部分だと思われます。
徳積善太