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10月28日放送分_行神台と宝珠台

(10月28日放送分 第218回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 もう10月も第4週に入りましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
高山の山々もかなり紅葉してきましたね。1週間程前ですが、荘川に行きましたら、山奥では
大変綺麗な紅葉となっておりました。
紅葉には寒暖の変化があると赤い色が強くなって、きれいになるといいますが、今年の紅葉は
どうでしょうか。

9月に急激に寒くなった事で、一気に枯葉のようになってしまったところもあると聞いておりますが、
観光シーズンにはこの紅葉の赤い色がどの程度かによって、お客さんの入込も違うと思います。
どうせなら、飛騨の綺麗な紅葉をみていただきたいですね。

ところで、以前お話ししましたFacebookでオランダに居られる方と友達になりました。
いろいろとお話しておりましたら、オランダには日本のような赤い紅葉がないそうです。オランダの
秋の紅葉は木の種類から燃え立つような赤はなく、緑・黄・茶・ベージュのコントラストでまあきれい
らしいのですが、日本人にはもの足らないそうです。
今は風の強い季節でポプラ級の高い木から枯れ葉がハラハラ落ちて来るのが素敵だそうです。
花は現在、夏からのジェラニウムやアオイ、各種ハーブが最後の勢いで咲いているそうです。
もうそろそろ木はぼうずになり寒々とした冬の風景になるんですって。
こんな交信ができるのもfacebookならではのことですよね。

 さて、ちょっとここでお知らせが2つあります。
一つは、今月の30日、古川の山城をめぐる旅が開催されます。10/30(日)にホテル季古里さんの
主催で、池の山城・野口城・袈裟丸城を一日がかりで登るそうです。
昨年、姉小路と廣瀬の本を出版しましたが、掲載しましたお城を巡るツアーで、古城研究家の
大門宏治さんが案内をされます。
もしこの放送をお聞きの方で参加してみたいという方がありましたら、ホテル季古里さん75-3311
までお申し込みください。

そして、もう一つの御案内は、先週お話ししましたが、古城研究家の佐伯哲也さんが、愛知県中世
城郭研究会の会報「愛城研報告第15号」に論文を発表されました。
「飛騨牧戸城について」という論文で、金森氏が立て籠もったという牧戸城や向牧戸城、新渕城、
そして昨年私どもが発表した国府の光寿庵跡について発表されています。

御本人から「飛騨の歴史に関係することですのでご紹介してほしい」とのことでしたのでお知らせ
させていただきますが、論文の中身については、来週お話しさせていただきたいと思います。

 さて、前置きが大変長くなりましたが、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、シリーズでお届けしております、高山の祭屋台について、今週は、八幡祭りの宝珠台
と行神台についてお話したいと思います。

 どちらも、下三之町の屋台ですが、八幡祭りの屋台の中では創建が最も古く、享保三年の湯の花
という屋台組がもとでした。
長倉先生の『屋台雑考』によれば、この湯の花が行神台となり、人家が多くなるにつれ上木屋甚兵衛
組が仙人台として分かれ、北に人家が出来ると宝珠台ができたのではなかろうかとされています。

その根拠は、行神台が、くじを曳かず神楽台について屋台の先頭を曳いたという事からです。
この湯の花神事というのが重要な要素で、今でも神社にその伝統が残されているところがありますが、
そもそも宮司が古い御札を焼いてお清めをする神事です。
これは、平安時代に宮中の清涼殿東庭で正月10日及び18日に行われた「さぎちょう(三毬杖、左義長)」
という吉書を焼く儀式に由来しています。
正月の年神様を迎え入れ、古い御札と共に再び帰ってもらおうとするものです。
一般には「どんど焼き」などとして知られますが、昔から「湯の花神事」や「湯花祭」と呼ばれています。

この火で沸かしたお湯を神前に供え、榊の葉で残りの湯を村人が神主から掛けてもらい、さらにその湯を
持ち帰って家族みんなで飲み、無病息災、家内安泰を祈る神事です。
同じ湯でつくった甘酒が参拝者にふるまわれたりする処も有ります。

屋台では湯を撒くわけにはいかないので、白い切紙を撒いているのが多いそうです。
こうした神事にまつわることを行ったことから、神楽台の次に曳かれたようになった物と思われます。

 行神台は、残念ながら、明治8年の大火の時に、牛若台・文政台・舟鉾台・浦島台と同じように大部分を
焼失してしまいました。この頃はまだ屋台蔵がなく屋台の部品を各家に保管していたために全焼することは
免れました。ただ、記録という物もほとんど消失してしまったため、享保から百数十年の間にどのような
屋台であったかわからないままです。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は懐かしい曲「野口五郎で 私鉄沿線」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「八幡祭りの屋台について」行神台と宝珠台についてお届けしています。

行神台は、文政6年(1823)に猩々緋幕を購入した記録があり、江戸型の屋台から一度は造りかえられ、
その後、天保2年8月頃に造りかえられたのではないかと思われています。
その屋台も明治8年までは曳かれていたと考えられており、明治16年に再興されました。
この時、上町の恵比寿台が大改造を行う事になり、不要の部分を譲り受けたと云われています。
組内に小森文助氏の製糸工場があり、小森家の分家で恵比寿台組の大文(現在の船坂酒造店)を
通じて、譲り受けることができたようです。
この時、伊達柱、上段柱、羅網、上段の簾などを譲り受けましたが、屋台の大きさが違うため、調和の
とれない部分もあったそうです。

 屋台に乗っている人形は役の行者の人形で、この人形を乗せていることが屋台名の由来となっています。
まだこの地が馬捨て場や墓地で人家のなかった頃、一人の行者が住み着き、小堂を建てて役の行者を
祀ったという事に由来しています。
しかし、この人形を保管する家に次々と不幸が起こると云うので、組内で協議して、普段は相応院に厨子を
作って納め、祭の時だけお迎えして屋台に乗せるという時代もあったようです。

 この屋台も明治36年から休台し、50年の時を経て昭和26年に復興されました。
その時に、屋台蔵を下三之町の裏側、現在の朝市通りに建造しました。
昭和33年には、行神蔵の腹中から墨書の板が発見され、
「天明2年に作られ、その後民家に安置されていましたが、明治29年に相応院に預けられていた」という
記述がありました。

昭和44年に大改修が行われ、現在の姿となりました。
この屋台は、入口が前にあり、上段匂欄の四隅には真言宗などで使われる五鈷という仏具があしらわれて
います。


 次に、宝珠台ですが、この屋台の創建は、天明の初めころに創建されたものと思われます。
先ほどお話ししましたように、湯の花という屋台から分かれて建造されたものです。この屋台の名称が
宝珠台というのは、下段の匂欄の四隅と各両側面に合計六個の宝珠をつけていることからです。
今ではきらびやかな宝珠をつけていますが、かつてはこの6つには色があり、青黄白赤黒紫の6色
だったそうです。
この色は、世の中のものが木水土金火で成り立っているという儒教の五行思想から来る色に、中間色の
紫が加えられたもののようですから、神様のお祭りに儒教の思想が絡んでいるという事は、大変興味
深いですよね。

 その後、明治41年になってこの屋台は大改造が行われました。それが現在の屋台です。
この時、主任工匠は屋台建築で有名な村山民次郎らが関わりました。最も美しいと言われる欅の台輪は、
河合村まで組内の者が大八車を曳いて、買いに行ったものだそうです。
その時に、現在の形になり先ほど申し上げた6色の宝珠は姿を消しました。
その代わり、屋根飾りに大きな宝珠を三個付け、中段の匂欄に宝珠を持たせたデザインに変更されました。

 この屋台の最大の特徴は、屋根の両側についている亀です。先に、神馬台の説明をした時に話しました
が、明治の末に、本楽祭の時に、この屋根の亀がいなくなり組内の人が大騒ぎをしていると、亀が宮川で
泳いでいると知らせが入った。組の人が行ってみると、二匹の亀が川の中にいて立て札がしてあった。
「この亀は名工の作で、水を求めて川に入った。」
というものでした。

あとで、神馬台組の者の悪戯だとわかったそうですが、屋台の一部がなくなったわけですから、それは
それは、組内の人は大騒ぎだった事でしょう。
この話は、作り話かもしれませんが、この屋台の一番大事な部分が亀であることを物語っています。

 また、この亀、よく見ると、顔の両側に耳がついており、おまけに亀の甲羅から首が出ています。
山国でウミガメを見たことがない人が想像で造ったために、このようないでたちになったとされています。

屋台囃子は、雅楽の蘭陵王を崩して編曲したもので、同じ蘭陵王崩しでも龍神台の崩しとは異なります。
かつては、雅楽の音楽を習って来て、その形が崩れたものを「崩し」といいますが、各地域で習っても
うろ覚えで間違ったものが間違ったまま伝わり、その曲が○○崩しの名前でそれぞれの屋台組に伝わって
いますから、面白いですよね。

さて本日も時間となりました。
来週の放送は、先ほどお話ししましたように、牧戸城と向牧戸城について、佐伯さんの研究や、最近
飛騨で発表された研究成果についてご紹介したいと思います。どうぞお楽しみに。

今日はこの曲でお別れです。曲は「小柳ルミ子 わたしの城下町」 ではまた来週お会いしましょう!

徳積善太
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