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11月4日放送分_牧戸城について

(11月4日放送分 第219回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 もう11月になってしまいましたね。この頃、あっという間に日にちがたってしまいますが、
皆さんはいかがでしょうか。

今年は紅葉がいまいち赤くなくて、茶色い感じの赤という木々が多いようです。
寒暖の差が激しいとモミジやカエデが真っ赤になるのですが、今年のモミジは赤い色が今一の
様な気がします。それでも都会の皆さんは、高山の紅葉がきれいだと言って沢山来て下さいます。
確かにビル街の中では、そういった季節を感じるという事も少ないんでしょうか。

私もかつて東京で務めていた時は、宿舎と会社の往復ばかりで、全然四季を感じるという事が
ありませんでしたが、高山は廻りの山々をみるだけで四季を感じることが出来る、有りがたい所
だと思います。

 さて、今日も皆様に2つお知らせがあります。
一つは、すでに10月22日の中日新聞に掲載されましたのでご存知の方もおられると思いますが、
このほど本を出版しました。
11月4日放送分_牧戸城について
「お猿のくう」というゆるキャラがいるんですが、彼の高山ガイドブックを作りました。
11月4日放送分_牧戸城について
今までのガイドブックとは違って、若い人が疑問に思っていたことや、高山の建物に隠された
歴史などを説明しております。
一部300円でお土産品店さんなどで販売しておりますので、一度ご覧いただければと思います。
11月4日放送分_牧戸城について


そして、もう一つお知らせがあります。
こちらは講演会のお知らせです。いつもお世話になっております神岡の瑞岸寺の都竹先生から、
飛騨の鎌倉街道のシンポジウムを行いますので、御案内下さいとご連絡をいただきました。
来る11月12日(土)午前9時半から講演会とシンポジウムが上宝町の禅通寺で開催されます。
その講演会の後、実際に場所を移動して鎌倉街道を歩いて見るそうです。
会費2,000円が必要ですが、お弁当付です。この機会に中世の街道を体験してみてはいかが
でしょうか。事前申し込みとお問い合わせは 禅通寺さん、電話0578 -89-2906までお願い
いたします。

実は、もう一昨年になりますか、この鎌倉街道の講演会に一度お邪魔したことがあります。
飛騨では、東の方に行くのは江戸街道や平湯街道が有名ですが、鎌倉街道というのはもっと
古い時代。鎌倉時代に、いざ鎌倉へといけるように日本各地に作られた街道です。

飛騨の場合は、この鎌倉街道が、安房峠の南にあった大峠から、山の尾根伝いに、山の上に
Vの字型をした道が作られていました。よく写真などで、鎌倉の切通しという幅が3mほどのVの
字の道が神奈川県鎌倉市の周囲に築かれている写真が教科書などに載っていましたが、馬が
やっと通れるくらいの細い道なんですよ。
11月4日放送分_牧戸城について
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、荘川町の話題をお届けします。
今日は牧戸城のお話をしたいと思います。以前から、この放送エリアに荘川町が含まれており
ますので、一度そちらの地域のお話をしたいと思っておりましたが、今回、城郭研究家の佐伯先生
から資料をいただきましたので、その資料に掲載されているお話をするいい機会だと思いました。

まず、荘川町牧戸の位置を確認したいと思います。
牧戸といいますのは、荘川インターをおりまして国道158号線を白川郷方面に北進しますとそこが
新渕という場所で、高山市の荘川支所があります。
そこを更に北進しますと、今度は、国道156号線に合流します。その辺りが、荘川町牧戸という地域
です。合流したところを左に行くと郡上市の高鷲町。合流を右に行くと、合掌造りの白川郷に行きます。

かつては飛騨街道と白川街道の合流点として。今では国道156号線と158号線の合流点として、
昔も今も交通の要所と云える場所です。
ここは、牧戸を流れている庄川の源流と、ひるがの高原の大日ヶ岳の北側を水源とする御手洗川と
が合流する地点でもあり、少し平地が開けた場所です。荘川町の中では一番開けた商店街のある
地域です。

かつて、天正13(1585)年に、越前大野から金森長近が飛騨に攻め入った時に、この場所が戦闘の
場所となりました。内ヶ島氏の家来 川尻備中守は、牧戸の川を挟んだ向かい側に「向牧戸城」をつくり、
滞在していて、一度は金森軍が敗れ敗走しました。
しかし、再度郡上の遠藤氏を頼って攻め上げ、ようやく落城させたという場所でもあります。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲のほうは「バンバン いちご白書をもう一度」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「牧戸城」についてお届けしています。

 さて、先ほど申し上げた川尻備中守の「向牧戸城」が大変有名でしたが、今日のお話の中心は、
その川尻備中守が滞在した城ではなく、その対岸に発見された、「牧戸城」についてです。
今回、佐伯さんは、この牧戸城に注目され、実際に登って、測量し、調査をされました。

 そもそもこの牧戸城は、標高830mの小高い山頂にあります。麓からはわずか56mしかない小山
ですが、要害というイメージよりは、台地城郭という感じです。
しかし、江戸時代の伝承などはほとんど残っておらず、字名は「寺ヶ洞」ということもあり、地元では
かつてから寺院跡としてされてきました。

この場所が初めて城郭として紹介されたのは、今から約6年前の2005年の『飛騨春秋』に、宇田章二
さんが紹介されたことからです。その時に宇田さんは「金森長近が、天正13年(1585)に金森軍が
築城したと述べておられました。しかし、他にも可能性があるのではということで、今回の論文発表に
なりました。

 といいますのは、
1.城の縄張りが小規模ながらも虎口や曲輪・土塁を兼ね備えた頑丈な作りになっていること。
2.この牧戸城が石垣を兼ね備えていること。などから疑問を持たれてのことでした。

確かに、私もこの城跡の報告を見た所、
「戦争の最中に、これだけ頑丈なものを作ったものであるとするのは、どうだろうか。」とか
「向かい側のわずか目と鼻の先に向牧戸城があって、もしここに陣を張って戦うという事があった
場合に、近すぎる。」ということや、
「交通の要害にあって、白川街道や飛騨街道への分岐点であるがゆえに、通行人を監視するための
絶好の場所だったんではないか」ということなどを考えました。

 そんな疑問をもちながら、この論文を読んでいきますと、なるほど、佐伯さんも同じような疑問を
持たれて、その部分について、比較検証されているんだなと思いました。

 ここで、ちょっと山城の見方についてお話しいたしますと、中世の山城と言いますのは、大半が
土を盛って作る土塁。土をVの字のように削って作る堀切。畑の畝のように作って敵が登りにくくする
畝状堅堀など、ほとんどが土を掘ったり盛ったりして作っています。
11月4日放送分_牧戸城について


11月4日放送分_牧戸城について

11月4日放送分_牧戸城について


これが、だんだん安土桃山時代になって、織田信長や豊臣秀吉の時代になると、戦争の戦い方も、
それまでの城にこもって戦うという戦法から、平地で大軍が戦うという形に変ってきています。

結局、山に籠もって戦うと云うのは、少ない人数で、自然の地形を利用しながら、防御をするという
戦い方であったのですが、室町時代の後期になって、守護や地頭がだんだん力を持って来ると、
兵力も相当増大します。
兵の数が勝負を分ける時代へと入ってきましたが、そこに鉄砲という飛び道具が南蛮から伝来します。
それまでの弓矢の戦いから、より強くて、鎧の上からでも貫通してしまう、鉄砲という武器へと変化
することによって、戦い方も城もだんだん変化していきました。

そのため、先ほど申し上げた、石垣を使った山城という物は、室町時代というより、安土桃山時代に
建設された建造物が上に乗っていた可能性が高くなるという事が云えるんです。

つまり、単に土を盛っただけでは、たとえば上につくる塀は、柵とか木の塀とか、軽いものしかでき
ません。しかし、石垣を組むようになって、上に重量の重い構造物、たとえば土の塀などが作れるよう
になってきます。皆さんが想像される城という物は、姫路城のように、石垣の上に土塀が乗った様な
構造物が多いと思いますが、そういったことからも石垣があるとないとで、時代が違うという事が
云えるんです。
11月4日放送分_牧戸城について
 そんな可能性があるわけですが、今回の佐伯さんの論考では、この牧戸城は、
「天正13年よりも後に、金森長近によって作られたもので、慶長5年以前に廃城となったもので、
廃城後は、寺院の施設として使われた可能性がある。」と云う風に、結論を導き出しておられます。

 今日の放送では、この論考が正しいとか、正しくないとかいうことではなくて、皆さんの身近な
地域に発見された一つの石垣や土塁から、こんな可能性が導き出されるんですよということを
ご紹介する意味で、お知らせさせていただきました。

この番組のタイトルは「飛騨の歴史再発見」ですが、こういった身近なところからも出てくるお話が
ありますから、「あれ」とか「どうして」というような疑問がございましたら、是非ともお知らせください。

さて本日も時間となりました。来週の放送は、先日、神岡のスーパーカミオカンデに行ってまいり
ましたので、そのお話をしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は「紙ふうせん 冬が来る前に」 ではまた来週お会いしましょう!

徳積善太
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