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12月2日放送分_雲山肩衝について1

(12月2日放送分 第223回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 先日、東北に行ってきた話をしましたが、丁度その翌日の新聞に私の友人で彫刻師の牛丸さん
が、今まで書きためてきた絵の5万枚目を被災地に寄贈したというお話が掲載されていました。
また、その同じ日の新聞の反対側には、今回の東北行のきっかけを作って下さった㈱レオイの
政井会長の会社が、お仕事の方で全国表彰を受けたという記事が載っておりました。

私は、その新聞を見ました時に、「これだ」と思いました。

先日、被災地にお邪魔して、津波の被害があったにもかかわらず、周囲の家がなくなっても一軒
だけ残った、名取市の大友さんに贈りたいと思ったんです。
私たちがお邪魔した時に手作りのケーキを出して戴いたり、紅茶をいただいたりして大変ご馳走
になりました。
それも、「飛騨高山の政井さんから被災した私たちに飛騨産業製のテーブルを分けていただいた
という事で、毎日の生活に重宝しております。飛騨高山の皆さんから恩義を受けておりますから、
皆さんも同じです」という気持ちでのことでした。

私たちは、突然おじゃましたにもかかわらず、すごい歓待を受けたことに感動しておりました。
一緒に行きました樋口君は、お孫さんにということで、さるぼぼを贈ったりされていましたが、
私も何かお礼をと思っておりました。その時に、先に申し上げた新聞記事を見つけたのです。

 早速、牛丸さんにご連絡申し上げたところ
「私は何も被災地に届けておりませんが、長瀬さん達の活動に感動しました。この絵をプレゼント
させて下さい。」ということで、私は、自分で購入して送るつもりが、牛丸さんから好意をいただいて
しまいました。早速、東北へ向けて手紙を添えて、贈りました。

 そのお電話を、太田さんと云う今回お世話になった方にご連絡しましたところ、その時にはご本人
に連絡つかなかったのですが、翌日、私に電話が入りました。
「実は、今、政井さんが、ここにいますよ。」
「えーっ?」
と申し上げましたが、政井さん、また被災地へ支援物資を届けに行かれたそうです。
本当に頭が下がります。
電話口で、久しぶりに政井さんとお話しし、今回の牛丸さんの寄附についてお話しました。
12月2日放送分_雲山肩衝について1
いま、丁度原稿を書いている時に、絵を贈った大友さんからお電話をいただきました。
「被災されている方は多いのに、私たちだけ、政井さんや長瀬さんにこんなにしていただいて非常に
恐縮しております。お返しができませんので、どうしたらいいでしょうか。」と言われましたので、

「また復興を必ず見に参ります。その時またお会いしましょう」と申し上げました。

今回の件は私の個人的な被災地支援のお話ですが、こうしてご縁を繫ぐことができてよかったと
思いますが、被災地での感情は不公平感を持たれるという事に非常にナーバスになっておられる
ということを実感いたしました。

さて、前置きが長くなりましたが、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告しましたが、金森家の事についてお話したいと思います。
が、テーマはまだ決まっておりません。
今まで、金森家の話は、何度かして参りましたが、そうですね。被災地の復興支援のお話をしました
ので、江戸時代に飢饉を救うために、売られた茶入れの話をしましょう。

 このお話は、金森氏のお話の中でも、殿さまが大変に素晴らしい人だったという美談として取り上げ
られて居る話ですが、そのお話をしたいと思います。

 頃は、江戸時代の前期。元和8年(1622)のこと。飛騨は大変な凶荒で国内の農民は食べる米さえ
事欠くありさまでした。それでも金森氏の家臣平岡三郎兵衛と云う人は年貢の取立てを厳しくしました。
年貢を納めない者は捕えられて、宮川の中橋下流にこしらえた水籠へ入れられました。
水籠とは、川の流れの上に籠獄を作ったもので、捕えられた農民はその中に入れられ、石の上に
腰掛けさせられ、足は水に浸して、昼夜にわたって責められたと言われています。

当時の、政治のやり方は、こうして、見せしめを行う事によって、他の人に2度と罪を犯させないという
物でした。それはそれは、惨いやり方をして徹底的に責めるという事をおこなったようです。

 ところが、飛騨の国内では、年貢を収められない者がたくさんいましたので、次第に水籠が足らなく
なり、後は貧乏くじで決めたという事です。
たまたま三福寺村の又四郎と七日町村の与次、袈裟丸村甚助の三人が当ってしまいました。
この三人を助けるために照蓮寺宣了が金森の殿様、三代重頼に嘆願することを行いましたが、
平岡三郎兵衛は、早々とこの三人を磔にしたと伝わっています。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲のほうは、「原由子 いちょう並木のセレナーデ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、飢饉を救った金森家の茶入れの話しについてお話しております。

それからほぼ20年後の寛永18年(1641)、またまた飛騨が凶荒に襲われました。
飛騨のあちこちで、稲が不熟。その他の大豆やあわ、稗などの五穀も実らず、大変な餓死者を
出したと言われています。
領主の金森重頼は、先ほどお話しした、元和8年の凶荒における平岡三郎兵衛の執拗な処分に
ついて心を痛めており、再び農民を困らせないように、何かいい方法がないかと案じておりました。

そのとき、先祖代々家宝として伝わっている名器の茶入れ「雲山肩衝」(うんざんかたつき)を売却
することにしました。金森重頼は、京極丹後守高広に金三千で譲り、そのお金で米を買い、農民たち
を救済したと郷土館発行の「金森史」と云う本には書かれております。

この茶入、高さ三寸、胴径二寸六分、口径一寸五分、底径一寸六分で、相当大振りでした。
肩衝の名のとおり、裃(かみしも)の肩衣(かたぎぬ)をつけたように怒った肩をしていて、如何にも
威厳に富んだ姿をしていました。裾から下に鼠色土が見え、底は板起(いたおこし)でした。
腰から底にかけて、素人くさい大疵(きず)の金粉つくろいがありました。

この疵にはこんな話が伝わっています。

 「この茶入は、もと足利義政所持の、いわゆる東山名物でしたがのち豊臣秀吉にわたり、さらに
佐久間不干斎(ふかんさい)を経て堺の茶人、某の手に入りました。某はこの茶入を得ると早速、
当時の名匠であった千利休を招いて茶事を催し、誇らしげにこれを用いましたが、利休は席上
一向に賛美しませんでした。

某はよほどがっかりしたと見え「茶器の伯楽の眼にとまらないようなものは、こうしてくれる」と炉の
中の五徳にたたきつけて割ってしまいました。

傍らにいた茶友はびっくりして「さても短気なこと、重代の名器をもったいない」とその破れをもらって
帰り、これを漆つぎにしました。そしてあらためて千利休を招き、何くわぬ顔でそれを使ったところ、
利休は一目見るなり「これはいつぞや見た「雲山」ではないか。これで如何にも面白くなった」と、
殊の外褒めたたえました。驚いたその茶友は、その旨を申し添え、もとの持主に返してやったと
いいます。この大キズはこうした名誉の跡として残ったものです。

 その後、この茶入は、高山第二代城主、金森出雲守可重の所有となりました。
可重は千道安に茶道を学び多くの名茶器を所持し、武家茶人としても有名でした。
元和元年(1615)可重の子重頼が、父の遺領を相続したとき、父の遺物として、この「雲山」を志津の刀
 吉光の脇差とともに、将軍秀忠に献上しました。ところが将軍は
「雲山は父譲りの名器だから家に秘蔵するがよかろう」といって返され、再び金森家の蔵に収められ
ました。

 そののち二十数年、飛騨国は大飢饉に見舞われ、だんだん領民に元気がなくなっていきました。
このころ、はからずも、かねてからこの茶入に熱いおもいをかけていた丹後国宮津城主、京極丹後守高広
が、これを「譲って貰えぬか」と申し入れて来ました。重頼は心のこりはするが、この際思いきってこれを
手離し、領民を救おうと決心し幕府にも伺い、その許しを得たので、大判三千枚で高広に譲り、その金で
領民を救済したという事です。

 この「雲山」譲渡しの年は「寛政重修諸家譜」「金森家先祖書」などの諸書によると、寛永七年、八年の
ことになっていますが、他の史料によってよく調べると、寛永十八年(1641)のではないかと思われます。

次に譲渡しの代金については、諸書にはいずれも金三千枚となっていますが、ただ「寛政重修諸家譜」
だけ金三十枚と記されています。
三千枚と三十枚とは大変な違いですが、いずれにしても相当な金額です。
仮に少ない方の金三十枚としても、当時で米三百石、すなわち四斗入、七百五十俵買入れることができる
額で、金三千枚とすればこれの百倍となりますから、膨大な金額となります。

買主の経済力などから、金三拾枚が正しいという説も有り、また一國一城よりも茶入を一つと望んだ当時の
気風などから考えると、金三千枚が妥当だとも言われています。
また地元の書物にも黄金三十枚、銀三千枚などと云う物まで色んな表現があり、どれが正しい数字なのか
解らないままです。

さて、本日も時間となりました。今日のお話が途中で終わってしまいましたので、来週は今日のお話しの
続き、「雲山肩衝パート2」をお届けします。
今日はこの曲でお別れです「ザ・ダーツ ケメコの歌」をお届けします。ではまた来週お会いしましょう!

徳積善太
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