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12月23日放送分_鳳凰台について

(12月23日放送分 第226回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 今年もあと1週間となりました。今年も一年お世話になりありがとうございました。
今月は五週ありますので、実質的に本日の放送が今年最後の放送となります。
気がついて見たら、この放送が始まって、もうすでに226回にもなりました。本当に今まで、
いろんなジャンルのお話をして参りましたが、自分でもよくここまで続けられたなと改めて
感心しております。

しかし、毎回お話しておりますように、私がすごいんじゃなくて、この皆さんがお住まいの
飛騨という地域が、大変すごい地域なんだという事を思っていただければと思います。

今までの放送でいろんなことをお伝えしてまいりましたが、まだまだたくさんの史実があります。
また、私が調査中に発見したというお話も有ります。
今後も、できる限り今まで知られていなかったこと、私が調査する中でいろいろ発見したことなど
をお話していきたいと思います。

 現在私は、白川郷から荘川、白鳥町、清見町、越前大野にかけての地域について調査して
おります。先日11日に白川郷の文化祭におきまして、清見町の田口勝さんが昨年10月に白川郷で
発見されたかなり大きな古城について発表されました。
富山の城郭研究家 佐伯先生にも今年の11月に再調査されまして、その城の存在という物が顕か
になりました。
この場所は、御母衣ダムに尾神川が注ぐ対岸の山の上にありまして、その規模は今までに発見されて
いる飛騨の城の中でも瑞一の規模です。この城の存在というものは、今までの飛騨の史料の中には
見られないために、ひょっとすると飛騨の歴史を変えるのではないかということで関係者の間では
騒がれております。
私の方は、その城郭に関する古文書が見つかっていたりしますのでそちらの方の分析を皆さんで
進めようとしております。
また、この放送でも発表できるお話がありましたら、ご紹介したいと思いますので、御期待下さい。

 また、先日は名古屋城にも行ってまいりました。
慶長19年に高山城二代城主金森可重が名古屋城の築城に関わっていますので、その場所を確認する
と共に、学芸員の方と情報交換をして参りました。
その時に、もう一人、名古屋城を建造するに当たり、徳川家康に進言した人が飛騨の人で、白川郷の
荻町城主 山下氏勝であったということがわかりました。
このお話しにつきましては、来年初頭のこのコーナーでご披露させていただきたいと思います。
来年も新しい話題満載でがんばりますので、飛騨の歴史再発見をどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、毎月第4週にお届けしております、祭屋台のお話を
したいと思います。今週の放送は、八幡祭りの鳳凰台のお話をしたいと思います。
12月23日放送分_鳳凰台について
 この屋台につきましては、以前、もうだいぶ前になりますが、谷口与鹿のお話をしていました頃に、
触れたことがあります。ちょっと振り返ってみましょう。
そもそもこの屋台は、嘉永四年(1851)に谷口延恭によって設計され、それまで文政年間からあった
屋台が大改造されたもので、屋台建造がはじまりました。この谷口延恭という人は、今までは谷口与鹿の
兄とされてきた人物ですが、最近になって、古文書が発見されて、実は与鹿の父親ではないかという説が
あります。

 この屋台は、嘉永四年に建造が始まったにもかかわらず、何らかのトラブルがあったのか、彫刻の
部分が仲中完成しませんでした。それは、設計者の延恭が、屋台建造中に亡くなったからで、安政二年
(1855)三月に延恭の葬儀が営まれた際に、嘉永元年から伊丹に行っていた与鹿が帰高し、それを機に
組の人たちが与鹿に彫刻の製作を依頼しました。
与鹿は浅井一之を助手にして、其の年の祭には取り付けたと云います。
12月23日放送分_鳳凰台について
翌年の安政三年七月に与鹿に対して、谷越え獅子三間分として代金十両を渡し、一両一分を弟子の
一之に心付けとして渡しています。
これによって、この谷越え獅子が、永年与鹿の作とされてきましたが、老田剛氏によって与鹿の手紙が
谷口家より発見されました。
そこには、「五台山の獅子などを見させ、美を取り、拙を捨て彫刻させ度」という事が書かれていたために、
老田氏はこの作品は与鹿の作品であると言われておりました。

しかし、郷土史研究者の間では、獅子の足の部分の彫り方などが他の与鹿作品とは大きく異なる事から、
「与鹿が下絵を書いたものであろうが、彫刻は一之の製作に違いない」とする意見も有りました。
そういったことが以前お話しした内容です。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は「       」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、八幡祭りの屋台 鳳凰台についてお話しております。

 これについて、『屋台雑考』の著者 長倉三郎先生は「この下段の彫刻はそれまでの高山の屋台彫刻に
見られぬ手法が使われている。牡丹、岩波、雲と獅子に絡ませた大きな彫刻である。これは、高山を去った
与鹿が、上方で多くの彫刻を見て得た手法を駆使した作と言えよう」と、与鹿があくまで設計したものである
ということを主張されていました。
ところが、平成20年7月に、鳳凰台の九十九年ぶりの全面改修中に、屋台から彫刻を外したところ、三つある
彫刻の一つに「一之谷口和助則刻」などと彫ってあるのが発見されました。
私のブログでも平成20年11月11日の記事でご紹介しておりますが、この和助というのは一之の通称であった
がために、この証拠により、弟子の浅井一之の作ではないかという事になり、物議を醸しだしました。
「ただし、一之が谷口姓を名乗った記録は無いことから「なぜ谷口と彫ってあるのか」という、新たな謎も合わせ
て浮上した。」ということが平成20年7月23日の高山市民時報に掲載されております。

 誰の作という事は、どの時点で判断されるかということも問題ですが、下絵を描いているのはその筆跡から
やはり与鹿が画いたものではないかと思われます。しかし、与鹿は安政二年には三月に高山に帰ったのです
が、急用が出来たとその月の27日には伊丹に帰っています。
そう考えますと、設計図となる下絵は与鹿が画いたものでしょうが、実際の仕上げは一之によって行われた
とみるのが妥当です。
彫刻研究家の間では、その後、一之が春祭りの石橋台の中段の龍を仕上げたことになっていますが、仕上げ
が稚拙なため、一之にそれだけの技術があったかどうか疑問視する声も相変わらずあります。
そのことが原因となったのかわかりませんが、この屋台の彫刻が完成したのが安政二年(1855)、石橋台の
完成が慶応(1865)になってからなのですが、一之は元治二年(慶応元年)に謎の死を遂げています。

実はこの前の年に与鹿が伊丹で亡くなっており、一之は与鹿の弟子と言われていただけに、相当師匠と比較
されていたことは想像できます。
今回の彫刻の裏の刻印の発見によって、更に謎が深まり、この屋台の彫刻はどのように仕上げられたのか、
研究者の間でも議論が広まる結果となりました。

さて、この屋台、嘉永改修の時に当時五十五両と銀五匁、木材、木挽き賃を含めて五十両、それに京都の
金具屋に支払った金具代が祝儀、京都までの道中雑用を含めて百六両二分と銀十三匁八分という金額が
支払われました。総坪数三万坪と言われるように、高山の屋台中瑞一の金具を使用しています。
この時には、高山の他の屋台の平均坪数の倍の費用をかけているという特徴があります。
また、この時同時に、屋台蔵も建造し、そちらには55両というお金を使っていますが、この他に絵具代、
房、簾、屋台曳衣装、曳き綱、提灯などの代金も支払っているので、参百五十三両三分と銭百二十四文を
支払っています。
組内の山下佐助が費用の大部分を負担したために、この屋台は山下屋の屋台と言われていた時期が
ありました。

ただ、江戸末期は、銀と金の換算費用が日本では5:1だったのに対し、海外では、銀があふれていたために、
大体15:1位の割合でした。そのため、慶応年間に入って、幕府の要人が其の違いに気づくまでは海外から
大量の銀が日本に流入していました。
つまり、黒船の伝来とともに日本は開国に応じたわけですが、外国商人の目的は、海外の安い銀を利用して、
日本の金を取得するということがあったようです。
そのため、日本国内に大量の銀が流通し、逆に金が海外に大量に流出し、国内には不足したために、金の
流通価格が高騰し、物価高を併発してインフレになったことが最近の研究で知られています。
大体文政3年(1820)を1とすると米の値段は5倍。お酒の値段は8倍にまで膨れ上がっています。
そのため、これに気付いた幕府がこの時期に金の含有率を減らすように改鋳したため、インフレが加速する
という結果になりました。

そういうことからすると、一概に屋台建造の費用に大金を要したというより、物価高によりそれだけの費用が
かかってしまったと考えた方が妥当ではないかと思います。しかし、幕末にそれだけの金が高山にあったと
いう事ですから、すごい話しですよね。

さて本日の放送も時間となりました。今年も一年間お世話になりまして大変ありがとうございました。
冒頭に申し上げましたように今月は5週ありますので、来週はお休みとなります。
皆様には、来年の1月6日の放送でお耳にかかりましょう。
年初の放送は、「名古屋城建造に関わった2人の飛騨人」というお話しをお届けします。
では、今年最後の曲でお別れです。

曲の方は、来年こそいい年を迎えられますように、この曲でお別れしましょう。
「Zard 負けないで」。それでは、よいお年をお迎えください!!またお会いしましょう!

徳積善太
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