高山には、真宗大谷派と本願寺派の寺院があるのをご存知ですか?
いわゆる、東本願寺と西本願寺の末寺です。
どちらが先にできたかというと、石山本願寺の戦いのあと、教如が門責を継ぐ予定でしたが、
豊臣秀吉へ、教如の母 如春尼が「顕如の書状が出てきて、弟の准如が継ぐことになっている」
と進言したために、教如が跡を継げませんでした。
そのあと、高山の城主 金森長近が、徳川家康に進言して、東本願寺ができたことが、下記の
書類に書かれています。
① 『飛騨編年史要』大正十年十一月五日発行
「素玄親子、家康に従いて入洛す。是日東本願寺教如、書を素玄へ送りて連日の戦功を犒らう」
② 『飛騨真宗史年表』昭和九年八月発行
「九月二十二日教如長近ニ書ヲ送ル」(願生寺蔵)
③ 『金森長近年譜』昭和四十三年八月十四日発行 大野俊也編
「九月二十二日東本願寺教如が長近に書を送り、家康に新寺創立の斡旋を懇望した。」(願生寺文書)
④ 『高山別院史』 上巻 昭和五十八年五月十五日発行
「九月二十二日長近父子は家康に従って京都に入った。そのとき本願寺教如は長近に書を送って、この度の戦功を犒った。」
⑤ 『定本金森歴代記』 平成五年四月二十五日発行 森本一雄著
「九月二十三日長近は家康に従って入洛した。本願寺教如は書を長近に送って連日の戦功わねぎらい、次いで家康へ新寺創立の斡旋を懇望した。」(願生寺記)
⑥ 『真宗教団の構造と地域社会』 平成十七年八月二十七日発行
「九月二十二日付けで教如は「金森法印 陣所」宛に書状を送っている。
高山城主の金森長近という人は、すごい人だったんですね。
徳積善太
私はてっきり織田信長が強引にやったものと
解釈していました。
長近は本当に凄い人であったと思います。
宗派にとらわれない柔軟な姿勢をとったのは人間ができているとしか言いようがないですね。