3/10放送分 「飛騨の小さな豪族達2 内ケ島氏と三島将監」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
3月もすでに第2週目に入りました。皆さん、この放送聞いていただいてますでしょうか?
10月からは一人でお伝えしておりますが、だんだん私も乗ってきて、お話しするのが楽しく
なってまいりました。
できるだけ、わかりやすくお伝えしたいと思っていますが、あまり省略しすぎて、間違って
いることもあろうかと思いますので、間違いがあった場合は、お知らせいただきたいと思い
ます。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今まで
の放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスして
みてください。
さて、今日の放送は先月のこの週にお話した、金森が飛騨に侵攻する前のお話の続きを
したいと思います。
以前の放送をここで振り返ってみますと、室町時代初期には、姉小路・江馬・廣瀬という豪族
が居て、公家や寺の所有する土地を略奪して大きくなっていった。室町時代後期になると
姉小路は3つに分裂して、京極氏が台頭してきた。 その家来が所領を治めることで、当時の
飛騨には、たくさんの豪族となっていったというお話をしました。
江戸時代の始めの飛騨略記という軍記物をもとに、室町時代の中期までのお話をさせて
いただき、どんな豪族がいたのかということをお話いたしました。
さて、いよいよ飛騨の戦国時代への突入の話となります。今日は、白川郷の付近を制圧して
いました、内ケ島氏のお話をしたいと思います。
さて、白川方面の守護をしていた、内ヶ島氏の先祖は、敏達天皇十八代 楠左衛門橘正遠の
三男 和田七郎正氏という人の末裔である内ヶ島上野介季氏の息子とされています。
要するに、公家の出だったんですね。
数代当国の守護に任ぜられて、皈雲(かえりぐも)城に在城していました。

丁度その頃、白川の鳩飼という所に、三島将監という一向宗本願寺の門徒がありました。
その先祖は後鳥羽院の孫にあたる人で、伊豆の三島に隠れていて、宗祖 親鸞上人の行化
を受けて、剃髪染衣の身と成った人です。嘉念坊善俊という名前で知られています。
飛騨略記の言葉を借りると「飛騨の国の鳩飼(はとがい)に来住して韜光(とうこう)消跡山居の
風味を咏(かな)て(で)、暮山の雲に伴ひ 一曲の池の蓮を衣とし行動清心 縁に任(まかせ)て
歳月を渡り 利生生涯をば果されける」などという言葉を使われています。
が、鳩飼という土地は、現在の白川村鳩(はと)谷(がや)。その土地で、「親鸞上人の御教えに
帰依して、山の中で季節自然を味わいながら 短歌などをたしなみ、生涯を終えられた。」
という意味でしょうか。 祖先を敬い、祖先を崇敬した言葉で書かれています。
さて、この三島将監という人は、3代に渡って同じ名前を名乗ります。3代後の三島将監という人
は僧として生まれながら武芸に長けていました。
その当時の内ヶ島為氏という人も将監という名を名乗っていたために、
「同じ名前を使うとは僧の身分なのにけしからん」と、たびたび口論となったようです。
ときどき、会談して互に仲は良かったようですが、ある時、囲碁の上、酒宴の奥に乗じて不慮の
喧嘩をしたことが、ついに確執の本源と成って内ヶ島軍勢のほうが、三島将監を殺そうと企てた
ようです。
将監は、これを聞き、大変怒って「あいつは味田七郎正氏が末孫だが、人臣に降りてから久しい。」
と。「自分は皇室の身分を離れたが、最近の話だ。あいつは、このことを知っているならば、
一度は君臣の義を知っているはずだから、今回の件は大変な侮辱である。先んずれば人を制す
ことが有利である。」といって、内ヶ島の大軍に真っ向勝負を挑んでいきました。
内ケ島氏は、市村太郎右衛門を大将として不意をつかれましたが、大敵をすぐに凌(しの)くことは
できず、時には討ち、時には逃げのがれて、一度は越中 利波郡のほうに退きました。
その後、敗軍の勢を集めて 長享二年八月下旬 内ヶ島の家臣 中河修理亮を隊将として
恥辱をはたさんと、其勢五百余騎で越中より攻上げました。
将監は是を聞いて軍勢を召集し、義を守り、命をかけて防戦しましたが、寄手が大勢であった
ために、雌雄を一戦に決せんとゲリラ戦のような戦いを致しましたが、将監は数ヶ所の手疵(てきず)
を負って、家来の中に手錬(てだれ)もいなかったので、最終的には卒堵婆峠という深山に身を隠し
ました。 さて、ちょっとここでブレイクしましょう。 曲は松田聖子で「赤いスイトピー」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、室町時代の西飛騨を知行していた内ヶ島家のお話をしています。
さて、内ヶ島の家臣 中河修理亮はあちこち調べましたが、なかなか隠れた将監を見つける
ことが出来ません。
ある時山中に、里犬がほえるのを聞付けて、その声のした先を追ってみると、将監は小さな
艸菴(そうあん)を構えていて、念佛読経していました。内ヶ島の軍は、四方よりときの声を
挙げて草菴に火を懸て、火あぶりであぶりだす作戦をとり攻めました。
将監は防戦かなわず、忽(たちま)に腹を切ってたくさんの経巻佛像と一緒に焼死しました。
将監についた人たちも皆ことごとく討死しました。
しばらくして、二歳の男子を懐いて乳母と後室が国を落ちていくときに、小白川の境川の
ところに、さしかかりました。この川を越せば、越前へ入ることができます。
ところが、そのときに追っ手に見つかってしまいます。乳母と後室は、逃げ惑いますが、
ようやく、川を渡りきります。
追っ手も国境にさしかかったところなので、それ以上追うのをやめます。
「おい、その子が女子なら、その子供はおまえに与えよう。ただし、男子ならばこちらに
渡しなさい。」と大声で呼びました。
乳母はとっさに、その子どもを抱き、少し後ろへさがってから、男の子の陰部を後の方へ
引っぱって、川向こうからもよく見えるように高々と上げてみせ、「この子は女子です。」と
答えたので、追手の連中は、川をも渡らずに「女子なら、おまえにその子をやろう。」といって
帰っていきました。
乳母は、自分のとっさの判断でこの子供の命が助かったと、大変よろこんで、
「これは偏に佛様のご加護である」といいながら、越前の国に逃げのびました。
そして、永平寺の人たちに頼んでこの子を育ててもらいました。
それからこの子供は、十数年、成長して後に白川郷に戻り、内ヶ島と和睦をして、
三島兼入と名乗りました。
彼はのちに剃髪して釋明了と名乗ります。明了は、後に和睦の証として、為氏の息女を
嫁にもらい、白川の中野という所に照蓮寺を建立しました。
これが現在まで伝わる高山別院=照蓮寺の基(中興の祖)の話です。
さて、内ヶ島氏は三島将監を難なく討亡し、目出度く帰陣して皈雲の城に帰りますが、
このときの家臣 中河兼顕は「佗に異る火の病」を煩います。これが何の病かよくわかり
ませんが、佛像経巻を焼き、僧坊に火を懸けたことで天の責めが身に及んだのではと、
要するに罰があたったといわれました。
彼は、一生懸命祈ったのですが、そのかいなく、ついに延徳三年三月十八日に病死して
しまいます。
その子中河兼信は、父親がそういうことになったので、深く佛道に入りわざわいの懺悔に
つくして、髪を切って照蓮寺兼入に随います。 その後、発心修行の身となり「浄安」と
戒名して浄土真宗の門下と成り、鍋山の梺(ふもと)に縁が有って一宇を結びます。
内ヶ島為氏には、五人の子がありました。
長女は照蓮寺兼入に嫁ぎました。
これは内ヶ島と照蓮寺の和睦の為に互に縁を結びました。
二人目は長男の兵庫頭氏理、
三人目が下総守氏則、
四人目の娘は尾上備前守に嫁ぎ、
五人目は玄蕃頭氏房でした。
長男の氏理は、内ヶ嶋の城館を守って領民を養いますが、天正年間に住んでいた城が
天正の大地震で山が崩壊し、人民とともに一瞬に地底に埋れ一家の長臣残らず亡くなり
ました。
この地震については、後にこんな話もあります。その頃、歸雲に狩人がいて、ある時、
加賀の白山へ登り、別山より観音の金像を盗んできて、密かに水澤上(みずぞれ)の
金山に持って行き、その金像をとかして金塊にしようとしたところ、忽に雷電が鳴り響き、
突風が吹き、暴雨がふりそそぎ、空は真っ暗になり、昼夜がわからなくなることが七日間
続いた、という話です。
それは、天正十一年十月廿九日のことで、丁度そのときには、
「大山崩落して皈雲と水澤上の両村を一時に滅亡させ、民家が悉く地底に埋れ、老若男女
更に残る者なし」という大災害だったといいます。
これが最近、金塊が一緒に埋まっているといって、冒険家の話題となっている「帰雲城の伝説」です。
丁度、そのとき城主内ヶ嶋氏理の甥の新右衛門氏方と新左衛門氏政という人がいて、
彼らは五男玄蕃氏房の子でした。この両人は不思議にも災害を免れましたが、兄は流浪の
身となり、弟は出家して中河の所縁を尋て延徳寺に居住しました。
長男の新右衛門氏方は、後に 金森家に奉仕して先亡の一族 追福の為として小八賀郷
尾崎の城下に一宇を開基し、弟の氏牧が住職としてここに住みました。
これが今の丹生川町 町方の還来寺のいわれです。

さて、今日のお話はこのへんで。来週は、高山祭りが近いので、雅楽のお話をします。
今日は、この曲でお別れです。菊池桃子で「卒業」 ではまた来週。
徳積善太
帰雲城と内ケ島氏については、下記HPを参照下さい。
http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/index2.htm
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
3月もすでに第2週目に入りました。皆さん、この放送聞いていただいてますでしょうか?
10月からは一人でお伝えしておりますが、だんだん私も乗ってきて、お話しするのが楽しく
なってまいりました。
できるだけ、わかりやすくお伝えしたいと思っていますが、あまり省略しすぎて、間違って
いることもあろうかと思いますので、間違いがあった場合は、お知らせいただきたいと思い
ます。
また、この放送のバックナンバーは、ひだっちブログのほうにも掲載していますので、今まで
の放送についてご覧になりたい方がございましたら、どうぞ「ひだっちブログ」にアクセスして
みてください。
さて、今日の放送は先月のこの週にお話した、金森が飛騨に侵攻する前のお話の続きを
したいと思います。
以前の放送をここで振り返ってみますと、室町時代初期には、姉小路・江馬・廣瀬という豪族
が居て、公家や寺の所有する土地を略奪して大きくなっていった。室町時代後期になると
姉小路は3つに分裂して、京極氏が台頭してきた。 その家来が所領を治めることで、当時の
飛騨には、たくさんの豪族となっていったというお話をしました。
江戸時代の始めの飛騨略記という軍記物をもとに、室町時代の中期までのお話をさせて
いただき、どんな豪族がいたのかということをお話いたしました。
さて、いよいよ飛騨の戦国時代への突入の話となります。今日は、白川郷の付近を制圧して
いました、内ケ島氏のお話をしたいと思います。
さて、白川方面の守護をしていた、内ヶ島氏の先祖は、敏達天皇十八代 楠左衛門橘正遠の
三男 和田七郎正氏という人の末裔である内ヶ島上野介季氏の息子とされています。
要するに、公家の出だったんですね。
数代当国の守護に任ぜられて、皈雲(かえりぐも)城に在城していました。

丁度その頃、白川の鳩飼という所に、三島将監という一向宗本願寺の門徒がありました。
その先祖は後鳥羽院の孫にあたる人で、伊豆の三島に隠れていて、宗祖 親鸞上人の行化
を受けて、剃髪染衣の身と成った人です。嘉念坊善俊という名前で知られています。
飛騨略記の言葉を借りると「飛騨の国の鳩飼(はとがい)に来住して韜光(とうこう)消跡山居の
風味を咏(かな)て(で)、暮山の雲に伴ひ 一曲の池の蓮を衣とし行動清心 縁に任(まかせ)て
歳月を渡り 利生生涯をば果されける」などという言葉を使われています。
が、鳩飼という土地は、現在の白川村鳩(はと)谷(がや)。その土地で、「親鸞上人の御教えに
帰依して、山の中で季節自然を味わいながら 短歌などをたしなみ、生涯を終えられた。」
という意味でしょうか。 祖先を敬い、祖先を崇敬した言葉で書かれています。
さて、この三島将監という人は、3代に渡って同じ名前を名乗ります。3代後の三島将監という人
は僧として生まれながら武芸に長けていました。
その当時の内ヶ島為氏という人も将監という名を名乗っていたために、
「同じ名前を使うとは僧の身分なのにけしからん」と、たびたび口論となったようです。
ときどき、会談して互に仲は良かったようですが、ある時、囲碁の上、酒宴の奥に乗じて不慮の
喧嘩をしたことが、ついに確執の本源と成って内ヶ島軍勢のほうが、三島将監を殺そうと企てた
ようです。
将監は、これを聞き、大変怒って「あいつは味田七郎正氏が末孫だが、人臣に降りてから久しい。」
と。「自分は皇室の身分を離れたが、最近の話だ。あいつは、このことを知っているならば、
一度は君臣の義を知っているはずだから、今回の件は大変な侮辱である。先んずれば人を制す
ことが有利である。」といって、内ヶ島の大軍に真っ向勝負を挑んでいきました。
内ケ島氏は、市村太郎右衛門を大将として不意をつかれましたが、大敵をすぐに凌(しの)くことは
できず、時には討ち、時には逃げのがれて、一度は越中 利波郡のほうに退きました。
その後、敗軍の勢を集めて 長享二年八月下旬 内ヶ島の家臣 中河修理亮を隊将として
恥辱をはたさんと、其勢五百余騎で越中より攻上げました。
将監は是を聞いて軍勢を召集し、義を守り、命をかけて防戦しましたが、寄手が大勢であった
ために、雌雄を一戦に決せんとゲリラ戦のような戦いを致しましたが、将監は数ヶ所の手疵(てきず)
を負って、家来の中に手錬(てだれ)もいなかったので、最終的には卒堵婆峠という深山に身を隠し
ました。 さて、ちょっとここでブレイクしましょう。 曲は松田聖子で「赤いスイトピー」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今日の飛騨歴史再発見は、室町時代の西飛騨を知行していた内ヶ島家のお話をしています。
さて、内ヶ島の家臣 中河修理亮はあちこち調べましたが、なかなか隠れた将監を見つける
ことが出来ません。
ある時山中に、里犬がほえるのを聞付けて、その声のした先を追ってみると、将監は小さな
艸菴(そうあん)を構えていて、念佛読経していました。内ヶ島の軍は、四方よりときの声を
挙げて草菴に火を懸て、火あぶりであぶりだす作戦をとり攻めました。
将監は防戦かなわず、忽(たちま)に腹を切ってたくさんの経巻佛像と一緒に焼死しました。
将監についた人たちも皆ことごとく討死しました。
しばらくして、二歳の男子を懐いて乳母と後室が国を落ちていくときに、小白川の境川の
ところに、さしかかりました。この川を越せば、越前へ入ることができます。
ところが、そのときに追っ手に見つかってしまいます。乳母と後室は、逃げ惑いますが、
ようやく、川を渡りきります。
追っ手も国境にさしかかったところなので、それ以上追うのをやめます。
「おい、その子が女子なら、その子供はおまえに与えよう。ただし、男子ならばこちらに
渡しなさい。」と大声で呼びました。
乳母はとっさに、その子どもを抱き、少し後ろへさがってから、男の子の陰部を後の方へ
引っぱって、川向こうからもよく見えるように高々と上げてみせ、「この子は女子です。」と
答えたので、追手の連中は、川をも渡らずに「女子なら、おまえにその子をやろう。」といって
帰っていきました。
乳母は、自分のとっさの判断でこの子供の命が助かったと、大変よろこんで、
「これは偏に佛様のご加護である」といいながら、越前の国に逃げのびました。
そして、永平寺の人たちに頼んでこの子を育ててもらいました。
それからこの子供は、十数年、成長して後に白川郷に戻り、内ヶ島と和睦をして、
三島兼入と名乗りました。
彼はのちに剃髪して釋明了と名乗ります。明了は、後に和睦の証として、為氏の息女を
嫁にもらい、白川の中野という所に照蓮寺を建立しました。
これが現在まで伝わる高山別院=照蓮寺の基(中興の祖)の話です。
さて、内ヶ島氏は三島将監を難なく討亡し、目出度く帰陣して皈雲の城に帰りますが、
このときの家臣 中河兼顕は「佗に異る火の病」を煩います。これが何の病かよくわかり
ませんが、佛像経巻を焼き、僧坊に火を懸けたことで天の責めが身に及んだのではと、
要するに罰があたったといわれました。
彼は、一生懸命祈ったのですが、そのかいなく、ついに延徳三年三月十八日に病死して
しまいます。
その子中河兼信は、父親がそういうことになったので、深く佛道に入りわざわいの懺悔に
つくして、髪を切って照蓮寺兼入に随います。 その後、発心修行の身となり「浄安」と
戒名して浄土真宗の門下と成り、鍋山の梺(ふもと)に縁が有って一宇を結びます。
内ヶ島為氏には、五人の子がありました。
長女は照蓮寺兼入に嫁ぎました。
これは内ヶ島と照蓮寺の和睦の為に互に縁を結びました。
二人目は長男の兵庫頭氏理、
三人目が下総守氏則、
四人目の娘は尾上備前守に嫁ぎ、
五人目は玄蕃頭氏房でした。
長男の氏理は、内ヶ嶋の城館を守って領民を養いますが、天正年間に住んでいた城が
天正の大地震で山が崩壊し、人民とともに一瞬に地底に埋れ一家の長臣残らず亡くなり
ました。
この地震については、後にこんな話もあります。その頃、歸雲に狩人がいて、ある時、
加賀の白山へ登り、別山より観音の金像を盗んできて、密かに水澤上(みずぞれ)の
金山に持って行き、その金像をとかして金塊にしようとしたところ、忽に雷電が鳴り響き、
突風が吹き、暴雨がふりそそぎ、空は真っ暗になり、昼夜がわからなくなることが七日間
続いた、という話です。
それは、天正十一年十月廿九日のことで、丁度そのときには、
「大山崩落して皈雲と水澤上の両村を一時に滅亡させ、民家が悉く地底に埋れ、老若男女
更に残る者なし」という大災害だったといいます。
これが最近、金塊が一緒に埋まっているといって、冒険家の話題となっている「帰雲城の伝説」です。
丁度、そのとき城主内ヶ嶋氏理の甥の新右衛門氏方と新左衛門氏政という人がいて、
彼らは五男玄蕃氏房の子でした。この両人は不思議にも災害を免れましたが、兄は流浪の
身となり、弟は出家して中河の所縁を尋て延徳寺に居住しました。
長男の新右衛門氏方は、後に 金森家に奉仕して先亡の一族 追福の為として小八賀郷
尾崎の城下に一宇を開基し、弟の氏牧が住職としてここに住みました。
これが今の丹生川町 町方の還来寺のいわれです。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は、高山祭りが近いので、雅楽のお話をします。
今日は、この曲でお別れです。菊池桃子で「卒業」 ではまた来週。
徳積善太
帰雲城と内ケ島氏については、下記HPを参照下さい。
http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/index2.htm