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2月17日放送分_古川林昌寺の金森絵像について

(2月17日放送分 第233回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 2月3日には、節分祭があちこちで行われました。
私も商売柄、数件の節分祭にお世話になっている関係で、仕事がちょっと忙しい状態です。
冬場は観光客の方が少ない事もあって、お土産の方の仕事は、少ないですが、冬場の暇な
時期に節分祭がある事で、お豆を使っていただいておりますので大変ありがたいです。

 節分祭は、高山では国分寺の節分祭が有名ですが、あちらのお寺では、一日かけて商店街の
人たちが七福神の格好をしてまる一日かけて商店街で豆まきをして歩かれるそうです。
最近では、丸一日かけて90kgもの煎り豆を撒くそうです。煎り豆の状態で90kgと云う事は、
豆には水分が含まれていますから、だいたい120kg程の大豆を煎らないと得られません。
120kgだとすると、30kg入りの生豆の袋が4袋。昔の米俵ですと、俵二つ分位の量が必要です。
もっとも俵には、大きな俵と中くらいの俵がありましたから、正確ではありませんが、眼分量と
してその位の量が必要と云うお話です。

 これだけの量の豆を使うのは、おそらく国分寺様だけだろうと思いますが、この他に高山で
有名な節分祭は、お寺では東山の大雄寺様、八幡神社の入り口にある不動院様、城山の裏側
に有る大隆寺様。
こちらは、妙見祭といって、北斗七星に因んだ法要が営まれ、てん読といって、大般若経を呪文を
唱えながらパラパラとめくる儀式が行われています。

また、神社では、たいていの神社で節分祭が行われていますが、春の高山祭の日枝神社様、
秋の高山祭の桜山八幡宮、西之一色の東照宮様、花里の天満宮などを始めとして、各地の
神社で節分のお祭りが営まれています。
今年私は、高山を離れて、白川郷の荻町八幡神社の節分祭にお邪魔してきました。
2月17日放送分_古川林昌寺の金森絵像について
たまたま神社の史料を見せていただけると云うのでお邪魔したついでに、節分祭のお祀りにお参り
して来たのですが、ここの節分祭は、他の神社のお祭りとだいたい同じですが、全く違ったのは、
神事がすべて終わり、節分の豆を撒いた後にお神酒をいただきます。
このお神酒が、皆さんご存じの「どぶろく」でした。
2月17日放送分_古川林昌寺の金森絵像について
車で行っていましたがついついどぶろくを味わってみたくなり、少しだけなめるほどですが、お神酒を
いただきました。ここの本物のどぶろくは、口当たりが非常にいいのですが、アルコール度数が高い
のですぐに酔っぱらいます。私も、今回は飲酒運転になりますから、なめた程度ですが4時間かけて
お酒をさまし夕方暗くなってから高山に帰りました。

夏の間は、荻町八幡神社の横に有る「どぶろく祭の館」で、お神酒として毎日いただけるそうです。
これは、決して販売されているものではなく、お賽銭を神社に上げて下さった方だけに、お神酒と
して下さるものだそうです。
もし、白川郷に行かれる方がありましたら、そちらの方へもお尋ねになってはいかがでしょうか。
なお、車の方にはお勧めしません。皆さんくれぐれも飲酒運転には気を付けて頂きますように
お願い申し上げます。

 さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週お伝えしましたように、古川のお話し。
古川に有る林昌寺とそこに伝わる高山二代城主 金森可重画像についてお話ししたいと思います。

もう3年前になりますか、古川で金森展を企画させて頂いたことがあります。その時に、古川では
久しぶりの金森展と云う事で、展示物を選びに行ったことがありました。
その時に古川の美術館で展示会を開催されて頂きましたが、今でも林昌寺には、第六代頼旹が
9歳の時に書いたと言われる墨跡の掛け軸。三代高山城主金森重頼が将軍家から賜ったと伝え
られる葵紋付きの革ばき。金森氏遺品と伝わる望遠鏡。第四代高山城主金森頼直が所持したと
伝わる梅鉢紋入りの軍扇などたくさんの物が伝わっています。

その中で、絹本着色の第二代高山城主金森可重の画像があります。実はこれは高山市まちの
博物館に展示してある画像と同じ物と、平服姿のトンボの柄を付けた着物を着た可重の画像が
あります。平服の方は江戸初期の製作ですが、作者などはわかっておりません。  
2月17日放送分_古川林昌寺の金森絵像について2月17日放送分_古川林昌寺の金森絵像について
さて、林昌寺は、現在は曹洞宗の寺院として高山の素玄寺末となっていますが、そもそも現在地では
なく、姉小路氏ゆかりの寺院であったと伝えられています。
一番最初は、古川町の沼町あたり。杉崎の小島城跡の麓の所に有ったと言われ、その後、現在の
国府町宇津江に移転されたとされます。
現在は高山の個人の方の別荘のあたりに、数基の五輪塔が確認されています。
またさらには、上気多の大沼へ移り、その後現在地に移されたとされていますが、経緯については
よくわかっておりません。それでは、後半に続きをお話したいと思います。。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「中山美穂 世界中のだれよりきっと」をお届けします。
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 本日の飛騨の歴史再発見は、林昌寺と金森氏の関係・金森可重画像のいわれについてお話しています。

ところで、古川の城下町が作られたのは、越前大野城主だった金森長近が天正13年(1585)
に飛騨に攻め入り、養子の金森可重に荒木郷1万石を与えた時とされています。
可重はそれまであった飛騨の城とは違い、鉄砲戦を考慮した石垣の平山城を古川の増島野に
建造しました。それが現在、古川小学校の所に有る増島城です。

その時に、可重は自分の実の父親である、長屋将監景重を古川に招き、唐松の館と称される場所に
隠居所を設けました。
また、可重は禅僧の秀梅という人を招き、ここに寺院を建立。長屋家の菩提を弔うための寺院としました。
実父の景重は可重より長生きしましたが、古川の地で寛永5年4月4日に亡くなるまでここに住んでいました。

人々は、景重のことを「林昌院殿」と呼んでいましたが、この地が寺として「林昌寺」と呼ばれるように
なったのはこれ以後の事と考えられています。
現在も林昌寺には、可重の父母の位牌が安置されています。
このようなことがあり、林昌寺は、金森家と非常に深い関係がある事から、先ほど申し上げた、可重の
絵蔵ほか、数々の金森家の遺品が保管されているのだと思われます。

さて、金森可重の絵蔵は、この林昌寺の物が、平服姿の物で、非常に珍しいものであり、岐阜県の
文化財となっておりますが、実は可重画像と呼ばれるものはもう一つ存在します。
京都の北大路に有る大徳寺。こちらには、茶道の千利休が、秀吉から怒られて自害に追いやられた
といわれる木像があったり、織田信長のお墓といわれるお墓があったり。
また、金森家関係では、初代高山城主の金森長近を始め、歴代の当主のお墓のある場所です。
そちらにかつて龍源院という金森家の寺院がありました。

現在は、京都の紫野高校のテニスコートに姿を変えていますが、金森家のゆかりの寺院の一つです。
そちらに、金森可重の画像や歴代の絵像が所蔵されています。
この龍源院の可重絵像は、高山市まちの博物館に所蔵されているものと古川にある物の源図ですが、
こちらは、古川にある平服の物とは違って、衣冠束帯し、赤い色の衣を着た可重絵像です。

これが、何故高山と古川にあるのか。先日、金森の系譜を調べておりましたら、その一角に、明治時代
から大正時代にかけて陸軍中将として活躍された押上森蔵と云う方が、絵師を連れて現地に行き、
詳細にわたって写させたものであることが分かりました。

押上森蔵氏の著書『金森家雑考』という物の中に、「金森氏諸肖像と墳墓」と云う項目にありましたので、
ご紹介したいと思います。原文を現代語に訳してお話ししたいと思います。

「私は、大正4年(1915)御大禮に参列の栄を得て、京都滞在中に閑ある毎に、諸御陵や神社仏閣を
参拝したが、途中、大徳寺に行き、諸宝物の展示中に金森重頼と頼直の肖像画を見、同時に今は
無き金龍院域内の金森氏歴代の墓にお参りした。
東京帝国大学史料編纂掛に、それらの肖像を借りて写しを造る時に、私は複製品を作らせ、これを
写真公開した。
その複製品の方は、大正9年(1920)8月に高山で開かれた金森時代史料展覧会に陳列した。
その時に、五代目以降の肖像はなかったと話したところ、大野郡史編纂委員の真木半一郎氏より
「田中大秀先生が著した紫野日記に尚多くの肖像を見たことが書かれています」ということだった。

日記を改めて見てみると、長近夫妻を初めとし、第六代までの肖像を見たと云うことなど種々の記事が
あった。
大秀先生が見たと云うのは、文政13(1830)年4月のことであり、今がそれより90年後となると、明治
初年に金龍院が廃寺となったという大事件があったりして、これらの肖像画の存在も疑われた。
私は、大正9年11月14日京都紫野大徳寺龍源院を訪ねた。

この寺は金龍院が廃寺となった後、諸事を管理していた。隣の寺の黄梅院主 金陵好清 師は、
龍源院代表を兼ねておられたので調査を依頼した。
師は私の来訪を歓迎して下さり、金森氏の遺品を快く閲覧させて下さった。
紫野日記に記した物が皆あり、金森長近と夫人の肖像画ほか七幅の物があった。
しかしそのうち、久昌院と可重の肖像画は修理のため見る事が出来なかった。

大正十年二月十日、改めてこの2像を見せてほしいと予め予約して、黄梅院を訪ね見せていただいた。」
ということです。

現在この複製品は、高山市まちの博物館に1つと、林昌寺の方に1つの2つのものが複製品として
飛騨に伝わっております。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、第4週ですので匠の話し。最近は祭屋台についてお話し
ておりますが、場所を古川に移して、古川の屋台についてお話したいと思います。
来週は、壱之町上組の三番曳と向町の神楽台についてお話したいと思います。どうぞお楽しみに。

それでは今日はこの曲でお別れです。「西郷輝彦 星のフラメンコ」それでは、またお会いしましょう!

徳積善太
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