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3月2日放送分_佐々成政の北アルプス越え1

(3月2日放送分 第235回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 もう3月になりました。あっという間に今年も2カ月が終わってしまいましたね。
いつもですと2月には高山と言う場所は、マイナス15度くらいの寒い日が2回くらいはあるのですが、
今年は、10度までは下がりましたが、10度以上になると云う事があまりなかったようです。
雪も例年より少ないですし、道路の雪も溶けてしまって、余り残っていません。
例年より暖かかったのかと思いきや、全国的には例年より寒い冬だったようです。
北陸や新潟地方では、例年より雪が多く、北海道などでは、積雪が例年の1.5倍というところも
有るようです。

 先日、清流国体の冬季大会が飛騨地区=朴の木スキー場やスズラン高原で開催されましたが、
34000人以上のお客様でにぎわったようです。岐阜県選手団も大活躍し、メダル獲得や入賞者が
多くて大変に盛り上がりました。
選手の活躍やお客様の熱気で溶けたわけではありませんが、実は会場では雪不足で、あちこちから
雪をかき集めての開催だったようです。

国体のマスコット、ミナモなどの雪像がたくさん作られていたようですが、ゲレンデにも雪が少ないのに、
雪像まで作る雪が足らなかった。そのため、合併債などで使っていなかった予算を使って、雪を集めた
そうです。
やはり今年の飛騨地方は、有りがたい事に暖冬だったと言ってもいいのではないでしょうか。
最近のTVを拝見しますと、早くも梅の花の便りが名古屋や岐阜方面では聞かれています。
例年の事ながら、寒い飛騨では、春の訪れが待ち遠しいですね。

  さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、先週お伝えいたしましたように、佐々成政の北アルプス越えの話をしたいと思います。
実は、最近、白川郷の合掌造りで有名な荻町にある、荻町城主だった、山下氏勝と言う武将の事を
調べています。
現地に行って、地元の郷土史研究をされている上出さんとお話していましたら、その氏勝が実は、
徳川家康の武将となって、名古屋城を築城の時に、清洲から名古屋の方に家康に進言したのが、
山下氏勝だったと云うお話を伺いました。

それから、名古屋城を訪問したり、名古屋にある徳川家の蓬佐文庫に行って史料調べをしたりして、
いろんな史実を調べてまいりました。
この放送でも、1月に少しお話ししましたが、山下家の系図や、末裔のお話など、いろんなことが分かって
参りました。

 実は、そのお話を今度、講演させていただくことになりました。4月7日(土)午後1時より、白川郷の道の駅
に有ります研修室で、「白山広域文化研究会」の第2回勉強会で発表させていただきます。
もし、この放送をお聞きの方で、興味ある方がございましたら、高山からはちょっと遠いですが、お出かけ
いただければと思います。

 さて、織田信長が天下布武という目標を掲げて、北陸地方に進出しました。
その時に、佐々成政が信長の武将として派遣された話は有名な話ですが、飛騨地方では、武田信玄が
亡くなったあと、強力な背後の恐怖が亡くなり、三木氏が北飛騨に勢力を拡大していきました。
三木氏は当初、上杉謙信と手を結んでいましたが、越中に佐々軍が侵攻して来たときに、部下として
越中に派遣していた塩屋筑前守秋貞が佐々軍と戦って敗れ、猪谷あたりで追手に追われて鉄砲で撃たれ、
その傷がもとで亡くなりました。天正6年5月12日のことです。

この時を境にして、三木氏は、天正6年には越中の佐々成政と同盟を結んだと思われます。
余談ですが、この時亡くなった塩屋秋貞の墓は2つあって、一つは猪谷の高山本線のトンネルの上の所に
一つ。そしてもう一つは、飛騨市宮川町戸谷にあるお墓です。
実は、こちらのお墓は昭和52年9月に宮川村によって、伝承に基づいて作られたものですが、飛騨市の
史跡となっています。
また、塩屋秋貞の命日について、こちらのお墓には、天正11年3月となっていますが、宮川町打保にある
光明寺には位牌が残されていて、こちらの日付が先ほど申し上げた天正6年5月12日となっています。
天正11年ですと三木氏が飛騨一国を統一した時ですので、おそらく天正6年の日付が正しいものと思われます。

さて、その時、西飛騨の白川地方では内ヶ島氏が勢力を持っていたわけですが、当時の内ヶ島氏の勢力は
白川郷に留まらず、五箇山から南砺市の城端のあたりまでのエリアを知行していたものと思われます。
当然、越中に侵攻して来た佐々成政と対立したわけですが、内ヶ島氏は佐々軍に対して人質を送る事で、
同盟を結びました。
その時に人質として送られたのが、内ヶ島氏の縁戚 山下氏勝でした。後半で詳しくお話しましょう。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「澤田聖子 卒業」をお届けします。
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 本日の飛騨の歴史再発見は、佐々成政の北アルプス越えについてお話しています。

 わずかの間でしたが、山下氏勝は佐々成政の下で、越中に滞在していたようですが、本能寺の変によって、
信長が天正10年に亡くなり、成政は信長と言う大きな後ろ盾を失う事になります。
そのとき信長の死をいち早く察知した秀吉は、備中岡山で水攻めにしていた戦をいち早く集結させ、有名な
大返しによって、どの武将よりも早く明智光秀討伐に動き、山崎の合戦でとうとう光秀を打ち破りました。
その辺のお話は有名な話ですので、ここではお話しませんが、秀吉は信長の長男の遺児を担ぎあげて
その後見人となって天下を我がものにしていきました。

佐々成政は、魚津にて上杉軍と戦っていたため、信長の弔い合戦には間に合わなかったばかりか、
日頃から成り上がり者の秀吉のことをよく思っていなかったことで、信長の次男信雄を援けて秀吉と
対立しました。
家康も秀吉と対立していましたから、天正12年3月に小牧長久手の戦いで双方が激突し、多数の死者を
出しました。一方で、佐々成政は、前田利家を将軍として討伐に差し向けられています。

 その時、佐々成政は、家康に会うために、天正12年11月23日密かに富山城を出発し、12月4日に浜松で
徳川家康と逢っています。
これは、松平家忠と言う人が書いた日記に書かれているので、おそらく史実だと思われます。
3月2日放送分_佐々成政の北アルプス越え1
このときに、厳冬の飛騨山脈を越えて行ったと云うのが戦国時代の一大壮挙として捉えられ、各地に伝承が
残っているために、数多くの作家がとりあげて多くの物語が書かれ、さらさら越えの物語として知られています。

 実は、山下氏勝の事を調べている時に、このさらさら越えに氏勝が同行していたと云う伝承があるとの話を
白川郷の上手さんからお聞きしました。今でも白川郷は大雪の降る地域ですから、雪の降らない尾張出身の
成政が氏勝の手助けによってさらさら越えが可能になったのかもしれないと思い、色々と調べてみました。

 さらさら越えと言いますのは、富山から現在の室堂に出て、そこから立山黒部アルペンルートで有名な
黒部ダム付近まで越える事をいいます。そこには、さら峠、針の木峠と言う2つの峠があって、旧暦の11月の
末となると現在の太陽暦では12月25日あたりになりますので、かなりの積雪があったと思われます。
そんなところを越えて果たして行けたのかと思います。
3月2日放送分_佐々成政の北アルプス越え1
高山の郷土史研究家菅田先生にお尋ねしましたら、先生もかつてこの話に興味を持っておられたようで、
「以前、ヒマラヤなどの登山隊の人に聞いたら、雪洞を掘って中に入ると、ろうそくの火でも中の気温が上がり
暑くて仕方なかったと云う話を聞いたことがある」というお話でした。

先生から、信州の大町あたりに佐々成政の伝承があるようだ。ということを伺い、早速大町市の文化財センター、
小林先生にお話を伺いました。
 小林先生のお話では、大町に残る伝承とは、2つあって、一つは西正院にある大姥尊座像で、これは道中の
安全祈願のため立山の大姥堂から成政が運んで来たと伝わっています。

そしてもう一つは、成政の従者の一人=松沢新助と言う人が重い病にかかり、新助を残して浜松に向かった。
その時に持参していた親鸞聖人直筆の十字名号を与え、それが現在も松沢家に残されているというものです。
ということでした。

ところが、先生はこの針の木峠越えに疑問を抱かれ、いろいろと調査をして見えました。
実は、近年になってこの厳冬のさらさら越えにチャレンジした人が4人も有ります。

大正年代に小林喜作と言う人がこの物語を実践しようと厳冬の針の木峠で遭難。

同じころに伊藤孝一らの挫折。

昭和初年には早稲田大学と同志社大学の登山隊が遭難。

平成21年には京都府立大学助教授の伊藤達夫氏が遭難。などと、登山技術が進んだ現代の登山家でさえも
大変危険なところに、当時の登山技術で果たして可能だったのかということでした。

佐々成政の目的は、迅速にしかも確実に家康に会う事が目的だったわけですから、しかも必ず富山に帰らない
と意味がありません。本当にこの峠を越えたのかどうかということは、非常に疑問が残ります。

当時の飛騨の情勢からしてもっと安全なルートがあったのではないか。今日は時間となってしまいましたので、
来週の放送で、教の放送の続きをお話したいと思います。

来週の放送は、「佐々成政のざら峠越えの新説。本当に北アルプスを越えたのか?」について続きのお話を
したいと思います。どうぞお楽しみになさってください。

それでは本日は、この曲でお別れです。「来生たかお セカンドラブ」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!

徳積善太
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