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3月9日放送分_佐々成政の北アルプス越え2

(3月9日放送分 第236回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 最近、仕事ばかりでなく、歴史研究の関係で豪雪地の白川村に行くことが多くなりました。
今までは、雪の白川郷と言えば豪雪地帯という印象がありましたし、国からも特別豪雪地帯の
指定を受けているくらいですから、有数の豪雪地帯と言う事になります。
私も冬場なんて行くところではないと思っておりましたが、東海北陸道の開通によって、今年は
既に4回もお邪魔しました。

以前は、夏場でも2時間くらいの距離でしたが、現在は、東海北陸道飛騨トンネルの開通により
高山からでも僅か40分ほどで荻町に行く事が出来ます。本当に近くなったという印象を持って
います。

先日行きました時に、白川郷の手打ちそばのお店でお話していましたが、白川郷の人たちも
この高速道路の完成によって、生活ががらりと変わったようです。このお蕎麦屋さんも、高速道路の
ICが建設されるということで、山の中腹にお宅があったのですが、現在地に家ごと移転され現在の
商売になったとのことでした。
白川郷の中でも、景気のいいのはICに近い荻町地区と鳩ヶ谷地区などで、ICから離れた平瀬地区
などは行く人も少なくなってしまい、以前に比べて温度差がかなりでているようです。

そんな豪雪の白川郷でも、日差しが長くなり、少し春の息吹が感じられるようになりました。
東北や新潟県などでは大雪のニュースが伝えられていますが、幸い白川郷は今年の「集中豪雪」は
避けられたようで、昨年よりは除雪回数が少ないそうです。
とはいえ、トヨタ自然学校のある馬狩の積雪は2月末現在で210cmもあったそうです。これから雪が
少し溶けて締まってくるために、雪上が歩きやすくなるそうです。

最近では、都会からお客さんを招いてスノーシュー体験や動物の雪上足跡観察などなど、雪の森の
中を歩き回れるイベントが開催されるようです。
今では、2月には雪の白川郷やライトアップを見にたくさんのお客さんが雪の飛騨を楽しみに来られる
ようになりました。
私ども観光業者は、以前は冬になると「冬眠だ」といって、夏場には取れない休みを一挙に取られる
処もありましたが、最近では、2月が稼ぎ時になっていますから、時代が変わったと思います。

 さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は、先週のお話しの続き、佐々成政の北アルプス越えの話【続編】をお話したいと思います。
先週のお話しは、佐々成政という織田信長の武将が、信長の命令で北陸に侵攻し、その時に本能寺の
変が起きました。本能寺の変では豊臣秀吉が大返しという退去を果たして、謀反を起こした明智光秀を
山崎の合戦で破り、そのあと、信長の長男の子供三法子丸の後見として天下を我がものにしました。

その時に、成政は信長の次男信雄を立てて秀吉と対立したために、秀吉側についた前田利家と対立。
織田の家来同士の戦いとなりました。戦争のさなか、成政は、同盟していた家康に会うために、雪の
北アルプスを越えて、浜松まで行ったというお話でした。
その折に、白川郷の荻町城主だった山下氏勝が同行したという伝承があるとのことでしたので、
それについていろいろと調べていたわけですが、大町市文化財センターの小林先生より教えていただき
ました事をもとにお話ししております。
3月9日放送分_佐々成政の北アルプス越え2
 さて、先週のお話しの中で、さらさら越えという伝承が、実は、さら峠と針の木峠という2つの大きな峠を
越えないと立山の室堂から大町には出られないということです。現代の技術をもってしても遭難された
事件が4回あったという事でしたが、実は、小林先生とお話をしていて、当時、飛騨の方は三木氏が
いたんじゃないか。三木氏は、佐々成政と同盟していたんじゃないかと言うお話でしたので、調べて
みました。

 飛騨の歴史の事を年代別にまとめた『飛騨編年史要』という本があります。
これは、大正時代に国府町の歴史研究家岡村利平と言う人がまとめたものですが、各所に伝わる古文書
を史料にして、その史料を年代ごとにまとめたものを、題名別に要約したものです。
飛騨の歴史研究者は、この『編年史要』を必ず参考にして、その前後の事象を推測する研究を行って
おられます。情報としては古いですが、参考になりますので三木氏の動向についてそちらの情報を抜き
出してみましたら、天正6年(1578)に三木氏は佐々成政と同盟を結び、その後、天正11年(1583)に
江馬氏と国府町の八日町で戦い、飛騨を統一します。そのわずか2年後に、豊臣秀吉の武将金森長近に
飛騨を攻められ、取られてしまいました。
佐々成政が家康と会った天正12年は、江馬氏を倒す時に同盟していた廣瀬氏を滅ぼし、飛騨をまさに
わがもの顔にした年だったんです。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「H2O ぼくらのダイアリー」をお届けします。
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 本日の飛騨の歴史再発見は、佐々成政の北アルプス越えの新説についてお話しています。

 さて、三木氏はそのあと、金森長近に責められるわけですが、長近が攻めて来た時の大義名分の
一つが、「佐々成政に同盟している三木を滅ぼす」というものでした。
そう考えますと、佐々軍が浜松に行く時に十分に飛騨を通ったという事が考えられます。
しかも、飛騨を通って、浜松まで行く方が、ずっと安全で、確実な方法ではないかと小林先生と話しており
ました。

利家と成政が戦った「末森合戦」の事を記した『末森記』には、
「さらさら越えをして東美濃へ出」という言葉が書かれています。その事から推測すると、東美濃=
中津川付近へ行ったことが考えられます。その仮説に基づいて、当時の人が一日に30km~40km
歩けたとして、飛騨を抜けたルートを考えてみました。それは、次の4つです。

①山下氏勝が先導役を買って出たという仮説と氏勝が一緒に同行したという伝説の下に考えると、
こんなルートになります。
富山―砺波―城端―白川郷(泊)―天生峠―国府(泊)―高山―萩原(泊)―下呂―加子母―付知(泊)
―福岡―坂下 という南を廻ったルート。

この中で、天生峠を越える事は冬場は無理と言うお方もおられると思いますが、昭和30年代まで白川郷
の人たちは、高山の学校に行くのに、冬場の天生峠を越えて河合へ出。角川から汽車で高山に通った
という話をされていました。

また、天正12年当時、苗木遠山城は、秀吉の部下森長可によって占領され、長可が小牧長久手の戦いで
亡くなった後、長可の弟によって知行されていましたから、苗木から中津川には行けなかったものと思い
ます。
苗木遠山氏も城を抜け出し、浜松に行っていたようですから、同じルートを通ったと考えると、
坂下―馬篭―妻籠―飯田―浜松というルートが考えられます。

②次に、富山から真っ直ぐ国府方面に来たとすると、富山―猪谷(泊)-宮川―河合―国府(泊)-高山
―萩原(泊)などとなります。そこから先は、東美濃へ加子母を通り、付知方面に行ったのではと考えます。

③3つめは、当時の街道が何処を通っていたかを考えた場合、松本の服部先生がおっしゃるには、鎌倉街道
が有峰―山之村―上宝町栃尾―平湯―安房平―大峠―奈川―松本と通っていたと考えられるので、そこを
通ったというルートです。

ただしこれには、松本側に伝承が全くなく、しかも大峠を越えると云うのは、飛騨側は比較的ゆるいのですが、
信濃側は断崖絶壁で、まして冬に通行する事は、非常に難しいと思われます。
ちなみに、大峠と言いますのは、現在の安房峠で上高地に降りる側ではなくて、安房平から南方向にいきますと
乗鞍岳と安房山の境目の処に竹田信玄が開いたと言われる峠がありました。その峠の事です。

④4つ目は、先ほどお話しした②の飛騨ルートと同じですが、
富山―国府―高山を通り、江戸街道で朝日―秋神(泊)―高根―開田(泊)―木曽福島―塩尻(泊)―上諏訪
へと通るルートです。
現在の国道361号線が朝日町から秋神を通って、開田高原に抜けておりますが、その行程です。


実は、江戸時代に書かれた『甫庵太閤記』という物語の日程を分析しますと、
「11/23富山―さらさら越え―12/1上諏訪に立ち寄り、そこから家康に連絡を取ると、乗馬五十頭、伝馬百頭を
迎えとして送ってよこした。12/4浜松に到着した。」などとなっておりますので、このルートが確実かと思われ
ます。

ただし、先ほどお話しした『末森記』の東美濃へ出たという話は無視されることになりますし、隠密行動に乗馬
50頭、伝馬100頭などという数字は全く似つかわしくありません。
物語の脚色が入っているのではとの小林先生のお話でした。


私は、②のルートか④のルートの可能性が高いかと思っておりますが、皆さんはいかがでしょうか。
このルートを通れば、安全にしかも確実に飛騨を通って、浜松までたどり着く事が出来ます。
さらさら越えのお話しのように、厳冬の北アルプスを通るのはちょっと考えにくいのではと思いますし、
途中の雪の多い箇所は、もし山下氏勝が同行していたとすると、白川郷で育った彼なら、冬の雪道を
歩くという事はいとも簡単にやってのけたと思います。皆さんは、どうお考えになられるでしょうか。

さて、本日も時間となりました。今日と先週の放送の原稿は、大町市文化財センターの小林先生とお話しした
内容を基に書かせていただきました。小林先生、御協力ありがとうございました。

本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「五十嵐弘明 ペガサスの朝」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!


徳積善太
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