3月16日放送分_神岡について
(3月16日放送分 第237回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
この前、仕事で神岡方面を走りました。いつものとおり、車で走る時は、ヒッツFMにチャンネルを
合わせて車で聴くことが多いです。古川から裏道の神原峠を越えて、山田に行き、そこからトンネルで
吉田方面に向かいました。
古川ではちゃんとラジオが入りますが、神原峠を越えてから山田、吉田のエリアは、電波の届かない
ところですので、受信感度がそんなによろしくないので、そのエリアでは聞けませんでした。
ちょっと考え事をしながら走っておりましたので、ラジオの事は全然気にしていませんでした。
吉田から神岡の温泉口駅の方に行った時に、突然ヒッツFMがなりはじめました。考えてみたら、
上宝の本郷にアンテナがありますから、そこから電波が出ているんですね。
神岡の市街地でヒッツFMが聴けるとは思いませんでした。
いままで、この放送をずっとしてきておりますが、どうしても放送区域外の話題は取り上げにくいな
と思っておりました。しかし、最近では関連する内容が多いので、下呂方面ですとか、白川郷方面の
話題も取り上げております。
やはり飛騨の歴史再発見という名称で、「飛騨」とうたっている以上は、飛騨全域を取り上げないと
いけないと肝に銘じて調べています。それだけ、調べる内容も範囲もかなりのものになりますが、
各地で作られた町史や村史を拝見すると、今まで大事なことが欠けていたと思うことがあります。
それは、町史や村史は現在の行政区画によって勝手に現代人が区別したものであるということで、
江戸時代やそれ以前にそんな行政区画はなかった、人間の歴史に行政区画のような区切りはない
ということです。
確かに時代時代で政策や方針が、藩主と言うか主人が異なるので違うことはありますが、たとえば
400年前には400年前の考え方で現在の行政区画の隣で同じようなことが起こっていたということが
できます。
例えば、飛騨と郡上を比較すると、400年前には金森藩と青山藩ですから当然、知行の仕方は異なり
ます。ただし、郡上藩の中でも和良村あたりは、200年前には飛騨の天領の一部となっていますから、
政治の政策は飛騨と同じです。
ところが、明治に入ると、そこは郡上郡ですから、飛騨からは除外されます。
その後の昭和に造られた村史には、全く異なる区画として扱われます。そのため、さも独立した行政組織
として区別されていますが、実は、飛騨との人間の交流はちゃんと存在していたといった具合です。
そのため、飛騨を見るときに、その周囲を見ると新しい史実がわかったりすることがあります。
またその逆もあります。先日、白川郷で現地の郷土史研究家の方々とお話ししていた時に、「白川郷と
五箇山の合掌造り」ということで世界遺産登録されていますが、「合掌造り」という一くくりでは、どちらも
同じ物のように見受けられます。
しかし、行政区画では一方は岐阜県。他方は富山県。また、風俗や習慣も違いますし、そして江戸時代の
領主は異なります。
そういったことから、入口も異なるし、屋根のふき方も異なる。
しかし、その違いによって、飛騨と加賀藩の制度の違いなどが見えてくることも有ります。
これについては、又の時間に詳しくお話ししますが、飛騨の周辺地域を調査することで、外からみた飛騨の
本質について、今後も探っていければと思っております。
さて、前置きが長くなりましたが、今週の放送に入りましょう。
実は、今週の放送については、特にテーマを決めておりませんでした。そのため、先週の放送では、何時も
お伝えしております予告をしておりません。毎月第三週は、古川の話題をお届けしておりますが、テーマに
することをちゃんとお調べしてからでないと、公共放送ですから、間違ったことをお話しできません。
そのため、テーマを決めずに、何を話そうかと考えておりました。
先ほどもお話ししましたように、神岡も放送エリアであることがわかりましたので、今日は「神岡のお話」を
したいと思います。

神岡と言う町は、最近では三井金属が開発した町として、最盛期の昭和40年代には人口が30000人近く
になり、一時は町から市になろうとしていた時期がありました。

しかし、その後のオイルショック、第二次オイルショックを経て、人口がどんどん減少。先の平成の大合併で
古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市が誕生し、その一部と成った町です。
それでは、後半でその大まかな歴史についてお話ししたいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は春のシーズンですから「松田聖子でチェリーブロッサム」を
お届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、神岡の町についてお話しています。
平成の大合併によって、神岡と古川という二つの大きな町が一緒になりましたが、毎回選挙で2分されて
いる感じがしております。そのことについて「片方は江馬氏の文化の土地やし、片方は金森氏の文化の
土地やで、一緒になることはない」などと囁かれることがありますが、歴史をたどってみると、この2つの町
が一緒だった時期が江戸時代だけなんですね。
それは金森氏が知行していた107年間と、その後の幕府直轄地=天領と言われた時期188年間のほぼ
300年間だけです。
明治になって同じ吉城郡ではありましたが、別々の町として存在していました。
明治時代になると、三井金属の企業城下町としての色合いを神岡町は強めて行きましたから、経済的にも
古川町とは異なった状況を形成していきました。
そういったことが、町の文化の違いとなっていったのではと思います。

その大きな違いとなっていたことの一つに、鉱山があります。
神岡の鉱山の歴史は古く、延喜年間(901~922)に京の都から鉱山師の集団が茂住に来て山の上で金属を
採集し、都に送った事が知られています。
しかし、平成になって国府町で出土した「三角縁神獣鏡」の成分分析から銅鏡の中に含まれる鉛が、茂住銀山
のものと判明したそうですので、神岡で鉛が取れたという事は、歴史的史実の確証が得られていませんが、
三角縁神獣鏡が普及した3世紀から4世紀頃にすでにあったものと思われます。

神岡鉱山と一口に言っても、実は南から和佐保、栃洞、円山、茂住の4つの鉱山の総称で、神岡鉱山と言う
抗口はありません。
その歴史の中で、最も古い開抗と伝えられているのが、和佐保銀山で、その年代は明応年間(1492~1500)
と伝えられています。
その後、大永年間(1521~1528)には、茂住銀山開抗という歴史を持っていますが、実際には、もっと古くから
鉱山として機能していたと考えられます。
有名な茂住宗貞が登場するのはそのあとで、金森氏が飛騨を知行するようになった天正14年以降の事です。

宗貞は、越前大野生まれで当初金森藩の鉱山奉行として高原郷茂住村に住みました。
初名は糸屋彦次郎と言う名前で、天正17年(1589)金森長近に仕え姓を賜って金森宗貞と称しました。
彼は、赴任後、和佐保銀山などを開発し、たくさんの鉱山開発を行い、金森家に莫大な富を提供した
ことで知られています。
その後、慶長13年(1608)長近が亡くなると、宗貞は、二代目金森可重より、私腹を肥やしていると疑いが
かけられ、身の危険を感じました。
そのため、自ら屋敷に火を放ち、越前の敦賀へ退去して姓を打陀と変えて京極高次に仕え、敦賀では商人
として大活躍しました。
彼は、北前船で運んできたものを敦賀で陸揚げし、北国街道で琵琶湖の北岸まで運搬。その荷物を琵琶湖
~淀川を下って京都に持ち込み、大商人として君臨しました。
その後、京極氏から奉行を命ぜられる活躍しましたが、敦賀で85歳で亡くなりました。
さて、神岡と言う町は、もともと江馬氏の知行する場所でした。江馬氏の出自は、『飛州志』所収の系図に
よれば、「平清盛の弟経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、その土地の名をとって江馬
小四郎と名乗った」のが祖であると記されています。
しかし、江馬小四郎とは北条義時のことであり、飛州志の所伝は疑わしいものといわざるをえません。
江馬氏については、数々の系図が存在しますが、比較検証が難しく、未だに謎の一族と言われています。
最近になって江馬氏の館庭園が平成12年に復元工事が始まり、平成19年に会所建物が完成し、史跡公園
「江馬氏館跡公園」としてオープンしました。
この館は1976(昭和51)年の土地改良工事に先立つ発掘調査で発見されました。
元々この地には水田がありましたが、大きな石が5つもあり「五ヶ石」(ごかいし)と呼ばれ、耕作の邪魔ながら
も廃棄せず、地元住民も「江馬の殿様の庭の石である」と言い伝えていたと言われています。
館の発掘調査開始からおよそ30年の月日。遺跡の整備・復原には長い時間がかかって建設されました。
現在大きな石が残っていますが、こういった石も農耕で倒されたり、割れたりしたそうです。
それらを合わせるように復元するのも大変な苦労だったことでしょう。
江馬氏の一番南にあった城は、梨内城といわれ、現在の国府の安国寺の谷向うの山にありました。
もともと越中東海道はこの安国寺~大坂峠(十三墓峠)~上宝町荒原~巣山峠~山田~吉田~船津へと
伸びていましたから、街道沿いにあったお城だということができます。
江馬氏についてはまた詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間と成りました。来週の放送は古川祭の屋台について。今度は壱之町の鳳凰台について
お話したいと思います。
本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「渡辺真知子 迷い道」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
この前、仕事で神岡方面を走りました。いつものとおり、車で走る時は、ヒッツFMにチャンネルを
合わせて車で聴くことが多いです。古川から裏道の神原峠を越えて、山田に行き、そこからトンネルで
吉田方面に向かいました。
古川ではちゃんとラジオが入りますが、神原峠を越えてから山田、吉田のエリアは、電波の届かない
ところですので、受信感度がそんなによろしくないので、そのエリアでは聞けませんでした。
ちょっと考え事をしながら走っておりましたので、ラジオの事は全然気にしていませんでした。
吉田から神岡の温泉口駅の方に行った時に、突然ヒッツFMがなりはじめました。考えてみたら、
上宝の本郷にアンテナがありますから、そこから電波が出ているんですね。
神岡の市街地でヒッツFMが聴けるとは思いませんでした。
いままで、この放送をずっとしてきておりますが、どうしても放送区域外の話題は取り上げにくいな
と思っておりました。しかし、最近では関連する内容が多いので、下呂方面ですとか、白川郷方面の
話題も取り上げております。
やはり飛騨の歴史再発見という名称で、「飛騨」とうたっている以上は、飛騨全域を取り上げないと
いけないと肝に銘じて調べています。それだけ、調べる内容も範囲もかなりのものになりますが、
各地で作られた町史や村史を拝見すると、今まで大事なことが欠けていたと思うことがあります。
それは、町史や村史は現在の行政区画によって勝手に現代人が区別したものであるということで、
江戸時代やそれ以前にそんな行政区画はなかった、人間の歴史に行政区画のような区切りはない
ということです。
確かに時代時代で政策や方針が、藩主と言うか主人が異なるので違うことはありますが、たとえば
400年前には400年前の考え方で現在の行政区画の隣で同じようなことが起こっていたということが
できます。
例えば、飛騨と郡上を比較すると、400年前には金森藩と青山藩ですから当然、知行の仕方は異なり
ます。ただし、郡上藩の中でも和良村あたりは、200年前には飛騨の天領の一部となっていますから、
政治の政策は飛騨と同じです。
ところが、明治に入ると、そこは郡上郡ですから、飛騨からは除外されます。
その後の昭和に造られた村史には、全く異なる区画として扱われます。そのため、さも独立した行政組織
として区別されていますが、実は、飛騨との人間の交流はちゃんと存在していたといった具合です。
そのため、飛騨を見るときに、その周囲を見ると新しい史実がわかったりすることがあります。
またその逆もあります。先日、白川郷で現地の郷土史研究家の方々とお話ししていた時に、「白川郷と
五箇山の合掌造り」ということで世界遺産登録されていますが、「合掌造り」という一くくりでは、どちらも
同じ物のように見受けられます。
しかし、行政区画では一方は岐阜県。他方は富山県。また、風俗や習慣も違いますし、そして江戸時代の
領主は異なります。
そういったことから、入口も異なるし、屋根のふき方も異なる。
しかし、その違いによって、飛騨と加賀藩の制度の違いなどが見えてくることも有ります。
これについては、又の時間に詳しくお話ししますが、飛騨の周辺地域を調査することで、外からみた飛騨の
本質について、今後も探っていければと思っております。
さて、前置きが長くなりましたが、今週の放送に入りましょう。
実は、今週の放送については、特にテーマを決めておりませんでした。そのため、先週の放送では、何時も
お伝えしております予告をしておりません。毎月第三週は、古川の話題をお届けしておりますが、テーマに
することをちゃんとお調べしてからでないと、公共放送ですから、間違ったことをお話しできません。
そのため、テーマを決めずに、何を話そうかと考えておりました。
先ほどもお話ししましたように、神岡も放送エリアであることがわかりましたので、今日は「神岡のお話」を
したいと思います。
神岡と言う町は、最近では三井金属が開発した町として、最盛期の昭和40年代には人口が30000人近く
になり、一時は町から市になろうとしていた時期がありました。

しかし、その後のオイルショック、第二次オイルショックを経て、人口がどんどん減少。先の平成の大合併で
古川町、宮川村、河合村と合併して飛騨市が誕生し、その一部と成った町です。
それでは、後半でその大まかな歴史についてお話ししたいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は春のシーズンですから「松田聖子でチェリーブロッサム」を
お届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、神岡の町についてお話しています。
平成の大合併によって、神岡と古川という二つの大きな町が一緒になりましたが、毎回選挙で2分されて
いる感じがしております。そのことについて「片方は江馬氏の文化の土地やし、片方は金森氏の文化の
土地やで、一緒になることはない」などと囁かれることがありますが、歴史をたどってみると、この2つの町
が一緒だった時期が江戸時代だけなんですね。
それは金森氏が知行していた107年間と、その後の幕府直轄地=天領と言われた時期188年間のほぼ
300年間だけです。
明治になって同じ吉城郡ではありましたが、別々の町として存在していました。
明治時代になると、三井金属の企業城下町としての色合いを神岡町は強めて行きましたから、経済的にも
古川町とは異なった状況を形成していきました。
そういったことが、町の文化の違いとなっていったのではと思います。
その大きな違いとなっていたことの一つに、鉱山があります。
神岡の鉱山の歴史は古く、延喜年間(901~922)に京の都から鉱山師の集団が茂住に来て山の上で金属を
採集し、都に送った事が知られています。
しかし、平成になって国府町で出土した「三角縁神獣鏡」の成分分析から銅鏡の中に含まれる鉛が、茂住銀山
のものと判明したそうですので、神岡で鉛が取れたという事は、歴史的史実の確証が得られていませんが、
三角縁神獣鏡が普及した3世紀から4世紀頃にすでにあったものと思われます。
神岡鉱山と一口に言っても、実は南から和佐保、栃洞、円山、茂住の4つの鉱山の総称で、神岡鉱山と言う
抗口はありません。
その歴史の中で、最も古い開抗と伝えられているのが、和佐保銀山で、その年代は明応年間(1492~1500)
と伝えられています。
その後、大永年間(1521~1528)には、茂住銀山開抗という歴史を持っていますが、実際には、もっと古くから
鉱山として機能していたと考えられます。
有名な茂住宗貞が登場するのはそのあとで、金森氏が飛騨を知行するようになった天正14年以降の事です。
宗貞は、越前大野生まれで当初金森藩の鉱山奉行として高原郷茂住村に住みました。
初名は糸屋彦次郎と言う名前で、天正17年(1589)金森長近に仕え姓を賜って金森宗貞と称しました。
彼は、赴任後、和佐保銀山などを開発し、たくさんの鉱山開発を行い、金森家に莫大な富を提供した
ことで知られています。
その後、慶長13年(1608)長近が亡くなると、宗貞は、二代目金森可重より、私腹を肥やしていると疑いが
かけられ、身の危険を感じました。
そのため、自ら屋敷に火を放ち、越前の敦賀へ退去して姓を打陀と変えて京極高次に仕え、敦賀では商人
として大活躍しました。
彼は、北前船で運んできたものを敦賀で陸揚げし、北国街道で琵琶湖の北岸まで運搬。その荷物を琵琶湖
~淀川を下って京都に持ち込み、大商人として君臨しました。
その後、京極氏から奉行を命ぜられる活躍しましたが、敦賀で85歳で亡くなりました。
さて、神岡と言う町は、もともと江馬氏の知行する場所でした。江馬氏の出自は、『飛州志』所収の系図に
よれば、「平清盛の弟経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、その土地の名をとって江馬
小四郎と名乗った」のが祖であると記されています。
しかし、江馬小四郎とは北条義時のことであり、飛州志の所伝は疑わしいものといわざるをえません。
江馬氏については、数々の系図が存在しますが、比較検証が難しく、未だに謎の一族と言われています。
最近になって江馬氏の館庭園が平成12年に復元工事が始まり、平成19年に会所建物が完成し、史跡公園
「江馬氏館跡公園」としてオープンしました。
この館は1976(昭和51)年の土地改良工事に先立つ発掘調査で発見されました。
元々この地には水田がありましたが、大きな石が5つもあり「五ヶ石」(ごかいし)と呼ばれ、耕作の邪魔ながら
も廃棄せず、地元住民も「江馬の殿様の庭の石である」と言い伝えていたと言われています。
館の発掘調査開始からおよそ30年の月日。遺跡の整備・復原には長い時間がかかって建設されました。
現在大きな石が残っていますが、こういった石も農耕で倒されたり、割れたりしたそうです。
それらを合わせるように復元するのも大変な苦労だったことでしょう。
江馬氏の一番南にあった城は、梨内城といわれ、現在の国府の安国寺の谷向うの山にありました。
もともと越中東海道はこの安国寺~大坂峠(十三墓峠)~上宝町荒原~巣山峠~山田~吉田~船津へと
伸びていましたから、街道沿いにあったお城だということができます。
江馬氏についてはまた詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間と成りました。来週の放送は古川祭の屋台について。今度は壱之町の鳳凰台について
お話したいと思います。
本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「渡辺真知子 迷い道」をお届けします。
それでは、また来週、お会いしましょう!
徳積善太