6月8日放送分_松倉城の謎について
(6月9日放送分 第248回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
今から5年前の平成19年に飛騨の匠展というのを開催いたしました。その時には、飛騨の匠の
歴史について、奈良時代以降から江戸時代にいたるまで、木材の運材方法や道具。そして
江戸時代から明治にかけて高名をなした大工さんについてご紹介いたしました。
その時に、一部の社寺仏閣について、有名な大工さんが建造した建物について調査をしましたが、
時間が無くて全部を調べることができませんでした。
ところが、その時に一緒に調査をした建築組合の笠原さんから、「また一緒に調べよう」とお誘い
をいただきまして、現在、飛騨の全部の神社とお寺の建物について調査を再開しました。
飛騨の神社の数は、『飛騨の神社』という本によりますと404ありますし、お寺の数は180程あります。
しかも建物と云えばお寺で言えば鐘楼があったり、山門があったりしますので、その実数はもっと多く
になります。
今まで撮影しているものも有りますので、半分くらいは調べているのですが、全部となると本当に
大変です。
いずれ、ネットか本にまとめたいと思っています。
普段通っている道でも、全然気づかない山の中にある小さな神社があったり、意外なところにかなり
古い絵馬殿や舞楽殿があったりしますので、とても勉強になっています。
全部の由緒までも調べるとなるとかなりの時間が掛かりますが、名工の作ったであろうものも発見
したりしておりますので、またこの放送でもお伝えできればと思っています。
最近は、本格的に歴史の調査を始めたこともあったり、今申し上げたような建物の調査。そして、
私のレベルが段々上がってきたせいか、他の研究者の方の研究調査に同行したりする機会も
増えました。それぞれとても内容の濃いものなので、私も勉強させていただきながら調査をしており
ますが、その都度、この放送でもお話ししていきたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週お知らせしましたように「松倉城」について最近の説とその謎についてお話し
したいと思います。
先ほど、他の研究者の方の調査に同行させて頂いているという話しをしましたが、先日、佐々成政
研究をされている大町市の小林先生が高山に来られましたので、佐々成政と同盟を結んでいた
三木自綱のゆかりの地をご案内しました。
まる一日かけて、かなりの場所を廻ったのですが、その時に松倉城と高堂城にも行ってきました。
丁度、5月19日には、最近いろいろと教えて頂いています城郭研究家 佐伯哲也さんが、飛騨考古学
研究会の視察で松倉城をご案内されました。考古学研究会の皆さんの他に、高山市民の方も参加
されたようですが、その時に話されたお話しの一部をご紹介するとともに、松倉城の謎についてお話し
したいと思います。

さて、松倉城がどこにあるか御存じない方の為にちょっとご説明申し上げたいと思います。
実は、高山市の観光施設となっています「飛騨の里」ですが、ここは松倉城の城下町のあったといわれる
場所に造られた観光施設なんです。
ごあみ池は、生活用水としても堀にも使われていたと思われる場所で、ごあみ池の上の所に城下町が
広がっていたそうです。そこから見える後の山の上に松倉城がかつて建っていました。
松倉城に上がる為には、2つのルートがあります。
一つは、その飛騨の里の前の道をどんどん上に上がっていきます。突き当たりにドライブインの獅子苑さん
があった建物がありますが、そのところを左方向に上がっていきます。そこは林道になっていますが、それを
上がりきったところに公園があります。
その公園までは車で行けますが、そこから左の方に250m上がると松倉城の堀切、三之丸、二ノ丸、天守閣
へと上がる事が出来ます。
ちなみに、公園から右の方に歩いて行きますと300mほど奥の所に、松倉観音があります。
ここは毎年8月9日に絵馬市が開かれることで有名です。
さて、もう一つのルートは、越後谷からのルートです。ホテルアソシアに行くのに2車線の舗装道路がありますが、
そこをどんどん登っていきます。右手に元匠の森があった場所を過ぎ、元渋草焼きのあった建物
(現在はキタニ㈱)の処を過ぎて、果樹園を過ぎ、もう少し上がると右手の方に行く林道があります。
そこを右手の方に行きますと先ほど話しました、公園に出ます。
そこまでは車で上がれますから、高齢者の方でも山頂まで楽に登る事が出来ます。
そこから城跡にあがりますと、山道の途中に大きな空堀の堀切があり、その背後に大変立派な石垣が
見えてきます。そこが松倉城跡です。
詳しくは後半でお話ししましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「河合奈保子 スマイルフォーミー」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「松倉城とその謎」についてお話しています。
私がここに初めて登ったのは確か小学校四年生の時の遠足の時でした。その時は、大きな石垣が
ある立派な城だと思い、石垣をよじ登ってみたり、展望台になっている大石の所に行ったりして
遊んでいましたが、今改めて登ってみますと、此の石垣はなかなか立派なものに思えてきます。


ただ、この石垣の積み方が大変不思議だなと思いました。
といいますのは、中世の山城をあちこち見て歩いていますと、飛騨の山城のほとんどが土を掘った
だけの堀切や、土を盛っただけの土塁と呼ばれる遺構。
そして、畝状堅堀といって、人間の手を広げた状態のような小さな畝を使った遺構というもので構成
されているものがほとんどです。
つまり、飛騨に残っている城の遺構の中で、石垣を持ったものは高山城跡と松倉城跡、古川小学校の
ところにある増島城跡と萩原の諏訪神社になっている諏訪城跡の4つくらいです。
以前、この放送でもお話ししたことがありますが、石垣の城というのは、安土城が登場してから全国に
造られるようになったもので、城の歴史としては非常に新しい部類になります。
それまでは、山の自然地形を利用した山城がほとんどでしたが、戦国大名が権威を示すようになったり、
戦争の形態が弓矢の時代から鉄砲の時代に移っていったりしたために、城の形態も山城から平山城、
平城に代っていきました。
そのため、城自体も簡単な柵を張っただけのものから、土壁を持った重厚な建造物が作られるように
なりました。
当然、重量構造物が上に乗っても簡単に崩れないようにするために、石垣の構造も裏込め石を増やして
力の荷重を防ぎ、簡単には崩れないように積み上げる仕組みとなっていきました。
ですから、石垣の構造物というものは、安土桃山時代以降に多く作られた建造物であるという事が出来ます。
先ほどお話ししましたが、5月19日に佐伯先生が飛騨考古学会の皆さんをご案内された時に、
「この松倉城の石垣は金森長近によって建造されたものと推定されます。」ということを話されました。
私もかつてからこの石垣については疑問を持っていましたが、その可能性があると思っておりました。

ところで、この松倉城がいつ頃建造されたのか。
これについては、未だ謎とされています。飛騨の歴史を書いた『飛騨編年史要』という本には、天正七年の
項に「この頃、松倉城が建設された」とあります。
飛騨の当時の歴史を考えてみると、三木氏が、南飛騨から北部地方に進出し、どんどん領土を拡大して
いきます。
天正6年頃には、上杉と手を組んでいますが、その年に右腕だった塩屋筑前守秋貞が戦死し、佐々成政と
同盟を結びます。
天正11年には江馬氏を滅ぼして飛騨を統一しますが、その2年後の天正13年には金森氏によって滅ぼされ
ています。
そう考えると、松倉城が機能したのは、わずか7年間の事になります。
三木氏があちこちで大戦乱の最中にこれだけの石垣の城を築いたというのはどう考えても不自然です。
一方で、少し後の話しですが、元和元(1615)年に一国一城令という法律が将軍家光の頃に出されて、
飛騨は高山城を残して全て破却されます。
そのため、古川の増島城は取り壊されて地中に埋められ、本丸の処は増島神社として残されました。
萩原の諏訪城は、そのまま神社として創りかえられましたので、現在も当時の石垣を見ることが出来ます。
そう考えますと、松倉城の石垣は、当時の姿をそのまま留めているわけですから、この法令が出された時
には、使用されていなかったということが考えられます。
当時、徳川幕府は全国の知行地を自分たちのゆかりの武将や譜代で固めようという動きがあり、外様大名は
一つのミスも許されなかったっという時代でしたから、金森家もこの城については、使っていない城だったため
に届を出さなかったのではと思われます。
もし、使用している城であれば、これほどの石垣の城を残すわけがありません。
そう考えますと、三木氏の居城していた頃は、現在の石垣のような遺構ではなく、中世の山城特有の土盛り
をした城だったのではないか。
そのあと、高山城を造るまでに、鍋山城に金森氏が居城していた天正14年頃以降にこの城を現在の石垣が
残るような大構造に造り変えたのではということが考えられます。
これについては、いずれ城郭研究者の間で議論がなされると思いますが、大変興味のあることとして注目
したいと思います。
さて本日も時間となりました。
来週の放送は、古川のお話し、先日佐伯先生と安望山に登って参りましたのでそのお話しをしたいと思います。
どうぞお楽しみに。
それでは本日はこの曲でお別れしましょう。
曲の方は「吉田拓郎 もうすぐ帰るよ」をお届けします。それではまた来週、お会いしましょう。
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
今から5年前の平成19年に飛騨の匠展というのを開催いたしました。その時には、飛騨の匠の
歴史について、奈良時代以降から江戸時代にいたるまで、木材の運材方法や道具。そして
江戸時代から明治にかけて高名をなした大工さんについてご紹介いたしました。
その時に、一部の社寺仏閣について、有名な大工さんが建造した建物について調査をしましたが、
時間が無くて全部を調べることができませんでした。
ところが、その時に一緒に調査をした建築組合の笠原さんから、「また一緒に調べよう」とお誘い
をいただきまして、現在、飛騨の全部の神社とお寺の建物について調査を再開しました。
飛騨の神社の数は、『飛騨の神社』という本によりますと404ありますし、お寺の数は180程あります。
しかも建物と云えばお寺で言えば鐘楼があったり、山門があったりしますので、その実数はもっと多く
になります。
今まで撮影しているものも有りますので、半分くらいは調べているのですが、全部となると本当に
大変です。
いずれ、ネットか本にまとめたいと思っています。
普段通っている道でも、全然気づかない山の中にある小さな神社があったり、意外なところにかなり
古い絵馬殿や舞楽殿があったりしますので、とても勉強になっています。
全部の由緒までも調べるとなるとかなりの時間が掛かりますが、名工の作ったであろうものも発見
したりしておりますので、またこの放送でもお伝えできればと思っています。
最近は、本格的に歴史の調査を始めたこともあったり、今申し上げたような建物の調査。そして、
私のレベルが段々上がってきたせいか、他の研究者の方の研究調査に同行したりする機会も
増えました。それぞれとても内容の濃いものなので、私も勉強させていただきながら調査をしており
ますが、その都度、この放送でもお話ししていきたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週お知らせしましたように「松倉城」について最近の説とその謎についてお話し
したいと思います。
先ほど、他の研究者の方の調査に同行させて頂いているという話しをしましたが、先日、佐々成政
研究をされている大町市の小林先生が高山に来られましたので、佐々成政と同盟を結んでいた
三木自綱のゆかりの地をご案内しました。
まる一日かけて、かなりの場所を廻ったのですが、その時に松倉城と高堂城にも行ってきました。
丁度、5月19日には、最近いろいろと教えて頂いています城郭研究家 佐伯哲也さんが、飛騨考古学
研究会の視察で松倉城をご案内されました。考古学研究会の皆さんの他に、高山市民の方も参加
されたようですが、その時に話されたお話しの一部をご紹介するとともに、松倉城の謎についてお話し
したいと思います。

さて、松倉城がどこにあるか御存じない方の為にちょっとご説明申し上げたいと思います。
実は、高山市の観光施設となっています「飛騨の里」ですが、ここは松倉城の城下町のあったといわれる
場所に造られた観光施設なんです。
ごあみ池は、生活用水としても堀にも使われていたと思われる場所で、ごあみ池の上の所に城下町が
広がっていたそうです。そこから見える後の山の上に松倉城がかつて建っていました。
松倉城に上がる為には、2つのルートがあります。
一つは、その飛騨の里の前の道をどんどん上に上がっていきます。突き当たりにドライブインの獅子苑さん
があった建物がありますが、そのところを左方向に上がっていきます。そこは林道になっていますが、それを
上がりきったところに公園があります。
その公園までは車で行けますが、そこから左の方に250m上がると松倉城の堀切、三之丸、二ノ丸、天守閣
へと上がる事が出来ます。
ちなみに、公園から右の方に歩いて行きますと300mほど奥の所に、松倉観音があります。
ここは毎年8月9日に絵馬市が開かれることで有名です。
さて、もう一つのルートは、越後谷からのルートです。ホテルアソシアに行くのに2車線の舗装道路がありますが、
そこをどんどん登っていきます。右手に元匠の森があった場所を過ぎ、元渋草焼きのあった建物
(現在はキタニ㈱)の処を過ぎて、果樹園を過ぎ、もう少し上がると右手の方に行く林道があります。
そこを右手の方に行きますと先ほど話しました、公園に出ます。
そこまでは車で上がれますから、高齢者の方でも山頂まで楽に登る事が出来ます。
そこから城跡にあがりますと、山道の途中に大きな空堀の堀切があり、その背後に大変立派な石垣が
見えてきます。そこが松倉城跡です。
詳しくは後半でお話ししましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「河合奈保子 スマイルフォーミー」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「松倉城とその謎」についてお話しています。
私がここに初めて登ったのは確か小学校四年生の時の遠足の時でした。その時は、大きな石垣が
ある立派な城だと思い、石垣をよじ登ってみたり、展望台になっている大石の所に行ったりして
遊んでいましたが、今改めて登ってみますと、此の石垣はなかなか立派なものに思えてきます。


ただ、この石垣の積み方が大変不思議だなと思いました。
といいますのは、中世の山城をあちこち見て歩いていますと、飛騨の山城のほとんどが土を掘った
だけの堀切や、土を盛っただけの土塁と呼ばれる遺構。
そして、畝状堅堀といって、人間の手を広げた状態のような小さな畝を使った遺構というもので構成
されているものがほとんどです。
つまり、飛騨に残っている城の遺構の中で、石垣を持ったものは高山城跡と松倉城跡、古川小学校の
ところにある増島城跡と萩原の諏訪神社になっている諏訪城跡の4つくらいです。
以前、この放送でもお話ししたことがありますが、石垣の城というのは、安土城が登場してから全国に
造られるようになったもので、城の歴史としては非常に新しい部類になります。
それまでは、山の自然地形を利用した山城がほとんどでしたが、戦国大名が権威を示すようになったり、
戦争の形態が弓矢の時代から鉄砲の時代に移っていったりしたために、城の形態も山城から平山城、
平城に代っていきました。
そのため、城自体も簡単な柵を張っただけのものから、土壁を持った重厚な建造物が作られるように
なりました。
当然、重量構造物が上に乗っても簡単に崩れないようにするために、石垣の構造も裏込め石を増やして
力の荷重を防ぎ、簡単には崩れないように積み上げる仕組みとなっていきました。
ですから、石垣の構造物というものは、安土桃山時代以降に多く作られた建造物であるという事が出来ます。
先ほどお話ししましたが、5月19日に佐伯先生が飛騨考古学会の皆さんをご案内された時に、
「この松倉城の石垣は金森長近によって建造されたものと推定されます。」ということを話されました。
私もかつてからこの石垣については疑問を持っていましたが、その可能性があると思っておりました。

ところで、この松倉城がいつ頃建造されたのか。
これについては、未だ謎とされています。飛騨の歴史を書いた『飛騨編年史要』という本には、天正七年の
項に「この頃、松倉城が建設された」とあります。
飛騨の当時の歴史を考えてみると、三木氏が、南飛騨から北部地方に進出し、どんどん領土を拡大して
いきます。
天正6年頃には、上杉と手を組んでいますが、その年に右腕だった塩屋筑前守秋貞が戦死し、佐々成政と
同盟を結びます。
天正11年には江馬氏を滅ぼして飛騨を統一しますが、その2年後の天正13年には金森氏によって滅ぼされ
ています。
そう考えると、松倉城が機能したのは、わずか7年間の事になります。
三木氏があちこちで大戦乱の最中にこれだけの石垣の城を築いたというのはどう考えても不自然です。
一方で、少し後の話しですが、元和元(1615)年に一国一城令という法律が将軍家光の頃に出されて、
飛騨は高山城を残して全て破却されます。
そのため、古川の増島城は取り壊されて地中に埋められ、本丸の処は増島神社として残されました。
萩原の諏訪城は、そのまま神社として創りかえられましたので、現在も当時の石垣を見ることが出来ます。
そう考えますと、松倉城の石垣は、当時の姿をそのまま留めているわけですから、この法令が出された時
には、使用されていなかったということが考えられます。
当時、徳川幕府は全国の知行地を自分たちのゆかりの武将や譜代で固めようという動きがあり、外様大名は
一つのミスも許されなかったっという時代でしたから、金森家もこの城については、使っていない城だったため
に届を出さなかったのではと思われます。
もし、使用している城であれば、これほどの石垣の城を残すわけがありません。
そう考えますと、三木氏の居城していた頃は、現在の石垣のような遺構ではなく、中世の山城特有の土盛り
をした城だったのではないか。
そのあと、高山城を造るまでに、鍋山城に金森氏が居城していた天正14年頃以降にこの城を現在の石垣が
残るような大構造に造り変えたのではということが考えられます。
これについては、いずれ城郭研究者の間で議論がなされると思いますが、大変興味のあることとして注目
したいと思います。
さて本日も時間となりました。
来週の放送は、古川のお話し、先日佐伯先生と安望山に登って参りましたのでそのお話しをしたいと思います。
どうぞお楽しみに。
それでは本日はこの曲でお別れしましょう。
曲の方は「吉田拓郎 もうすぐ帰るよ」をお届けします。それではまた来週、お会いしましょう。
徳積善太