7月20日放送分_杉崎の歌塚について2
(7月20日放送分 第253回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、毎週お伝えしているイベントですが、いよいよ今週末になりました。
7月22日に国府町で歴史関係のイベント「戦国の山城フォーラム -国府の山城の謎に迫るー」が
行われます。
今日までいろいろと準備を重ねてまいりました。22日当日の方は、丸一日かけて三部構成で行われ
ますが、朝9時に国府支所前に集合して廣瀬城を全国の城郭研究家 中井均先生と一緒に登ります。
昼食を済ませてから1時半より城郭研究家の佐伯哲也先生と元高山市郷土館長 田中彰先生の研究
発表があり、そのあと基調講演として中井均先生の講演があります。
テーマはそれぞれ、
佐伯先生が「飛騨の山城の時代的変遷」
田中先生が「飛騨における武士団の集約と飛騨国統一」
中井先生が「飛騨の山城―その魅力を語るー」というテーマでお話をされます。
ここまでは入場無料です。
そのあと5時から、会場を鴻野旅館に移して会費制による懇親会が開催されます。
ただいま、参加者を募集しております。まだ間に合いますので、ぜひお申し込みください。
お申込みは国府支所 72-3111反中さんまでお電話でお申し込みください。

もう一度申上げます。7月22日午前9時より廣瀬城巡り。午後1時半より講演会。午後5時より講師を
囲んでの懇親会です。山城に付いて興味のある方、戦国時代に興味のある方は72-3111まで、
是非お申込みいただきたいと思います。
なお、すでにご存じの方も有ろうかと思いますが、7月10日よりこくふ桜ホールロビーの方で国府の
山城について、パネル展示を行っております。
こちらのほうは、8月10日頃まで展示する予定ですので、ぜひご覧いただければと思います。
現在、国府町で確認されている29の山城や砦の他に、高山盆地の高山城、松倉城、鍋山城、三佛寺城。
古川盆地の小島城、蛤城、小鷹利城、向小島城。益田地方の桜洞城、萩原諏訪城。神岡の高原諏訪城や、
先週お話しました荘川町牧戸に最近発見された牧戸城について、展示を行っております。
山城の縄張り図と山城の写真を展示しておりますので、どうぞご覧いただきたいと思います。
入場は無料ですので、お時間がございましたら是非ともご覧ください。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように「杉崎にある細江歌塚」についてお話したいと思います。
このテーマは、平成22年の6月28日に既にお話をしておりますが、今日は違った角度からお話したいと
思います。
この細江の歌塚は、姉小路基綱と済継の功績をたたえるために、地元の有志によって建造されたものです。
現存する場所は、JR杉崎駅の北側のところの信号の東側の所に、小さな公園になった場所があります。
そこには、杉崎の秋葉様のほかに3つの大きな石碑と右手の方には、地元の名士の小さな石碑などとともに
建てられています。
その正面の所に、高さ2mほどの石碑があります。これが、細江の歌塚と呼ばれるものです。

その表面には、2つの和歌が記されています。
そのひとつは、「不るさとに乃こる心はこころにて みはなほひなのみをなけくかな。」という従二位権中納言
藤原基綱卿の歌と、もう一つは、「久もをわけにこりをいてしこころもや 於なしはちすのつゆの月かけ」という
参議正三位 藤原済継卿の歌です。
また隣には、「白まゆみ飛騨の細江の菅鳥の妹爾恋哉寝宿金鶴」という万葉集の石碑が建てられています。
歌塚の方は、正二位権中納言藤原実愛が書いたものと、荏野 田中大秀 文 門人 蒲八十村が書いたものを
基にして石碑に仕上げたものです。
現在でも、この直筆の文章は、古川町壱之町の蒲家に基綱卿と済継卿の絵像と共に保存されており、こちらは、
昭和46年8月2日に飛騨市の指定文化財となっています。
以前、応永飛騨の乱600年祭の記念展覧会の時に、この2つの歌と肖像画の掛け軸を展示させて頂いたことが
ありますが、結構大きな掛け軸で、下半分はそれぞれの絵像。そしてその上の所に、讃として色紙の上にその歌
が書かれており貼り付けられていました。

基綱卿の方は、右向きに座り、垂纓(すいえい)という冠にハナダ色の青っぽい地色に、割菱紋の入った直衣
(のうし)という着物を着ております。
また、下に着る差貫(さしぬき)と言う着物には、浅葱(あさぎ)色と言う、緑の少し薄がかった着物に大八藤紋の
装束姿となっています。
「ふるさとにのこるこころはこころにて」の部分は、白色料紙に金泥を使って笹竹と蝶などが描かれた紙に墨で
書かれています。また下の句の「みはなをひなの身をなけくかな」の部分は、紅赤色料紙書きに右と同じように
笹や蝶を金泥で描き、そこに墨字で書かれています。後半では続きをお話しします。
ちょっとここでブレイクしましょう、曲は「高橋真理子 おいでサマーホリデイ 」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「杉崎の歌塚」についてお話ししています。
先ほどは、基綱絵像についてお話ししましたが、もう一つの済継絵像の方は、基綱と同じく垂纓(すいえい)
の冠に黒のほうをまとい、白表(しろえ)の袴に勿をもつ正式な文官束帯の姿が描かれています。

また、色紙の方も、青色料紙描きに基綱と同じ下絵を描き、そちらに「くもをわけにこりをいてしこころにや」と
書かれた部分ともう一方は橙色料紙に同じ下絵を描き、そちらに「おな志蓮(はち)すの津遊(つゆ)のつき
かけ」と書かれています。
この2つの掛け軸ですが、調べてみると、実は二人の直筆ではなく、文化12年に内大臣であった花山院愛徳
(かざんいんよしのり)と言う人が書いたもので、絵の方は、田中大秀が23歳の時に、画を土佐光秀に依頼して
寛政11年6月11日に書いてもらったものであることがわかりました。
この絵を基に、国学者田中大秀は、飛騨国姉小路基綱と済継の功績を讃えるため、天保七年(1836)に、
姉小路ゆかりの地に碑の建設を計画しましたが、断念せざるをえませんでした。
丁度この頃は、飛騨中が天保の飢饉がおこり、作物が実らず人々が飢えと貧困にあえいでいた頃です。
おそらく、スポンサーも見つからず、世の中の世相もそういったことにお金をかける時代でなかったことから、
大秀は、やむなく断念したようです。
その後、永年この石碑の建立を懇願していたようですが、ついにその志を果たせずまま、弘化四年(1847)に
71歳の生涯を閉じました。
その後、大秀の流れをくむ大秀の四天王といわれた、蒲八十村や弟子の野村建平達がその志を継ぎました。
歌碑の建立場所も検討を重ね、ほぼ現在地に決定していたようですが、今度は、江戸末期から明治維新への
混乱が続き、またも断念せざるをえませんでした。
しかし、一時的に計画がとん挫してはいましたが、その後、「杉の二本社」という車中が中心となり、先生や
先輩の志を継ぐことになりました。
ようやく世相も落ち着いた明治19年(1886)、越中街道の改良計画がすすむ頃、再び盛り上がりを見せ、
地元の杉崎・太江地区の人たちも協力して、明治二十年(1887)にやっとで歌塚の建設が完了しました。
実に、大秀が志を抱いてから、50年以上の年月がたっていました。
今も、石碑の下の台石に、この計画に関わった人々の名前が刻まれています。
そこには、46名の名前が記されていますが、発起者と有志者という2つの区分で名前が記されています。
発起者には29人の名前があり、そのうち大秀の弟子であった野村建平、蒲八十村、後藤基弘、後藤重郷など
の名前が見られます。ただし、明治20年頃には、29人のうち、9人が故人と言うことになっています。
また、有志者には、17人の名前が見られますが、田近六三郎、桐山源兵衛、長谷川七五郎などの古川の
人たちだけではなく、杉下太郎右衛門、岡村利右衛門。室徳三などといった、国府村の有力者の名前や、
柏木萬などといった河合村の有力者の名前も見られることから、石碑の建設に関しては、広く有志を募って、
やっと建立にこぎつけたという状況が推察されます。
場所の選定については、相当難渋した事が窺えます。明治時代の郷土史研究家、岡村利平は、その著書
「飛騨山川」の中で複数の誤りがあることを指摘しています。
つまり、姉小路氏の勢力が小島家・小鷹利家・古河家の3つに分裂していたと言われていますが、姉小路
基綱と済継の系統は古河家に所属していたものと考えられています。
そうなると、小島家の所領である、杉崎の地に、古河家ゆかりの方の記念碑を建設するという事は、非常に
考えにくく、むしろ、古川の高野地区に建設すべきとの意見もあったことと思われます。
また、姉小路基綱と済継の墓と伝えられるものが、国府町鶴巣の清峯寺にあると言われていることも、
この建設場所の選定に難渋した一端と思われます。
最終的に、杉崎に細江の碑が代官長谷川忠崇によって建てられていたこともあり、姉小路基綱の愛でた
細江の地がこのあたりであろうという事がきっかけとなり歌塚の建造場所となったのではとも言われています。
リスナーの皆さんは、どのように思われるでしょうか。
さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、4週目ですので匠の話し。最近は古川の屋台についてお話して居りますが「龍笛台について」を
お届けしたいと思います。どうぞお楽しみに。
それでは本日はこの曲でお別れしましょう。曲の方は「世良公則 あんたのバラード」をお届けします。
それではまた来週、お会いしましょう。
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、毎週お伝えしているイベントですが、いよいよ今週末になりました。
7月22日に国府町で歴史関係のイベント「戦国の山城フォーラム -国府の山城の謎に迫るー」が
行われます。
今日までいろいろと準備を重ねてまいりました。22日当日の方は、丸一日かけて三部構成で行われ
ますが、朝9時に国府支所前に集合して廣瀬城を全国の城郭研究家 中井均先生と一緒に登ります。
昼食を済ませてから1時半より城郭研究家の佐伯哲也先生と元高山市郷土館長 田中彰先生の研究
発表があり、そのあと基調講演として中井均先生の講演があります。
テーマはそれぞれ、
佐伯先生が「飛騨の山城の時代的変遷」
田中先生が「飛騨における武士団の集約と飛騨国統一」
中井先生が「飛騨の山城―その魅力を語るー」というテーマでお話をされます。
ここまでは入場無料です。
そのあと5時から、会場を鴻野旅館に移して会費制による懇親会が開催されます。
ただいま、参加者を募集しております。まだ間に合いますので、ぜひお申し込みください。
お申込みは国府支所 72-3111反中さんまでお電話でお申し込みください。

もう一度申上げます。7月22日午前9時より廣瀬城巡り。午後1時半より講演会。午後5時より講師を
囲んでの懇親会です。山城に付いて興味のある方、戦国時代に興味のある方は72-3111まで、
是非お申込みいただきたいと思います。
なお、すでにご存じの方も有ろうかと思いますが、7月10日よりこくふ桜ホールロビーの方で国府の
山城について、パネル展示を行っております。
こちらのほうは、8月10日頃まで展示する予定ですので、ぜひご覧いただければと思います。
現在、国府町で確認されている29の山城や砦の他に、高山盆地の高山城、松倉城、鍋山城、三佛寺城。
古川盆地の小島城、蛤城、小鷹利城、向小島城。益田地方の桜洞城、萩原諏訪城。神岡の高原諏訪城や、
先週お話しました荘川町牧戸に最近発見された牧戸城について、展示を行っております。
山城の縄張り図と山城の写真を展示しておりますので、どうぞご覧いただきたいと思います。
入場は無料ですので、お時間がございましたら是非ともご覧ください。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように「杉崎にある細江歌塚」についてお話したいと思います。
このテーマは、平成22年の6月28日に既にお話をしておりますが、今日は違った角度からお話したいと
思います。
この細江の歌塚は、姉小路基綱と済継の功績をたたえるために、地元の有志によって建造されたものです。
現存する場所は、JR杉崎駅の北側のところの信号の東側の所に、小さな公園になった場所があります。
そこには、杉崎の秋葉様のほかに3つの大きな石碑と右手の方には、地元の名士の小さな石碑などとともに
建てられています。
その正面の所に、高さ2mほどの石碑があります。これが、細江の歌塚と呼ばれるものです。

その表面には、2つの和歌が記されています。
そのひとつは、「不るさとに乃こる心はこころにて みはなほひなのみをなけくかな。」という従二位権中納言
藤原基綱卿の歌と、もう一つは、「久もをわけにこりをいてしこころもや 於なしはちすのつゆの月かけ」という
参議正三位 藤原済継卿の歌です。
また隣には、「白まゆみ飛騨の細江の菅鳥の妹爾恋哉寝宿金鶴」という万葉集の石碑が建てられています。
歌塚の方は、正二位権中納言藤原実愛が書いたものと、荏野 田中大秀 文 門人 蒲八十村が書いたものを
基にして石碑に仕上げたものです。
現在でも、この直筆の文章は、古川町壱之町の蒲家に基綱卿と済継卿の絵像と共に保存されており、こちらは、
昭和46年8月2日に飛騨市の指定文化財となっています。
以前、応永飛騨の乱600年祭の記念展覧会の時に、この2つの歌と肖像画の掛け軸を展示させて頂いたことが
ありますが、結構大きな掛け軸で、下半分はそれぞれの絵像。そしてその上の所に、讃として色紙の上にその歌
が書かれており貼り付けられていました。

基綱卿の方は、右向きに座り、垂纓(すいえい)という冠にハナダ色の青っぽい地色に、割菱紋の入った直衣
(のうし)という着物を着ております。
また、下に着る差貫(さしぬき)と言う着物には、浅葱(あさぎ)色と言う、緑の少し薄がかった着物に大八藤紋の
装束姿となっています。
「ふるさとにのこるこころはこころにて」の部分は、白色料紙に金泥を使って笹竹と蝶などが描かれた紙に墨で
書かれています。また下の句の「みはなをひなの身をなけくかな」の部分は、紅赤色料紙書きに右と同じように
笹や蝶を金泥で描き、そこに墨字で書かれています。後半では続きをお話しします。
ちょっとここでブレイクしましょう、曲は「高橋真理子 おいでサマーホリデイ 」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「杉崎の歌塚」についてお話ししています。
先ほどは、基綱絵像についてお話ししましたが、もう一つの済継絵像の方は、基綱と同じく垂纓(すいえい)
の冠に黒のほうをまとい、白表(しろえ)の袴に勿をもつ正式な文官束帯の姿が描かれています。

また、色紙の方も、青色料紙描きに基綱と同じ下絵を描き、そちらに「くもをわけにこりをいてしこころにや」と
書かれた部分ともう一方は橙色料紙に同じ下絵を描き、そちらに「おな志蓮(はち)すの津遊(つゆ)のつき
かけ」と書かれています。
この2つの掛け軸ですが、調べてみると、実は二人の直筆ではなく、文化12年に内大臣であった花山院愛徳
(かざんいんよしのり)と言う人が書いたもので、絵の方は、田中大秀が23歳の時に、画を土佐光秀に依頼して
寛政11年6月11日に書いてもらったものであることがわかりました。
この絵を基に、国学者田中大秀は、飛騨国姉小路基綱と済継の功績を讃えるため、天保七年(1836)に、
姉小路ゆかりの地に碑の建設を計画しましたが、断念せざるをえませんでした。
丁度この頃は、飛騨中が天保の飢饉がおこり、作物が実らず人々が飢えと貧困にあえいでいた頃です。
おそらく、スポンサーも見つからず、世の中の世相もそういったことにお金をかける時代でなかったことから、
大秀は、やむなく断念したようです。
その後、永年この石碑の建立を懇願していたようですが、ついにその志を果たせずまま、弘化四年(1847)に
71歳の生涯を閉じました。
その後、大秀の流れをくむ大秀の四天王といわれた、蒲八十村や弟子の野村建平達がその志を継ぎました。
歌碑の建立場所も検討を重ね、ほぼ現在地に決定していたようですが、今度は、江戸末期から明治維新への
混乱が続き、またも断念せざるをえませんでした。
しかし、一時的に計画がとん挫してはいましたが、その後、「杉の二本社」という車中が中心となり、先生や
先輩の志を継ぐことになりました。
ようやく世相も落ち着いた明治19年(1886)、越中街道の改良計画がすすむ頃、再び盛り上がりを見せ、
地元の杉崎・太江地区の人たちも協力して、明治二十年(1887)にやっとで歌塚の建設が完了しました。
実に、大秀が志を抱いてから、50年以上の年月がたっていました。
今も、石碑の下の台石に、この計画に関わった人々の名前が刻まれています。
そこには、46名の名前が記されていますが、発起者と有志者という2つの区分で名前が記されています。
発起者には29人の名前があり、そのうち大秀の弟子であった野村建平、蒲八十村、後藤基弘、後藤重郷など
の名前が見られます。ただし、明治20年頃には、29人のうち、9人が故人と言うことになっています。
また、有志者には、17人の名前が見られますが、田近六三郎、桐山源兵衛、長谷川七五郎などの古川の
人たちだけではなく、杉下太郎右衛門、岡村利右衛門。室徳三などといった、国府村の有力者の名前や、
柏木萬などといった河合村の有力者の名前も見られることから、石碑の建設に関しては、広く有志を募って、
やっと建立にこぎつけたという状況が推察されます。
場所の選定については、相当難渋した事が窺えます。明治時代の郷土史研究家、岡村利平は、その著書
「飛騨山川」の中で複数の誤りがあることを指摘しています。
つまり、姉小路氏の勢力が小島家・小鷹利家・古河家の3つに分裂していたと言われていますが、姉小路
基綱と済継の系統は古河家に所属していたものと考えられています。
そうなると、小島家の所領である、杉崎の地に、古河家ゆかりの方の記念碑を建設するという事は、非常に
考えにくく、むしろ、古川の高野地区に建設すべきとの意見もあったことと思われます。
また、姉小路基綱と済継の墓と伝えられるものが、国府町鶴巣の清峯寺にあると言われていることも、
この建設場所の選定に難渋した一端と思われます。
最終的に、杉崎に細江の碑が代官長谷川忠崇によって建てられていたこともあり、姉小路基綱の愛でた
細江の地がこのあたりであろうという事がきっかけとなり歌塚の建造場所となったのではとも言われています。
リスナーの皆さんは、どのように思われるでしょうか。
さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、4週目ですので匠の話し。最近は古川の屋台についてお話して居りますが「龍笛台について」を
お届けしたいと思います。どうぞお楽しみに。
それでは本日はこの曲でお別れしましょう。曲の方は「世良公則 あんたのバラード」をお届けします。
それではまた来週、お会いしましょう。
徳積善太