こちらも祭は終わってしまいましたが、愛宕神明神社(5月5日例祭)の提灯アラカルトです。
祭礼区域、愛宕町、天性寺町、吹屋町1丁目・2丁目

愛宕町一丁目の提灯(大雄寺下)
こちらの提灯は、文字は「献燈」ですが、微妙に提灯が異なります。


地元の人に伺ったら、地元の人も違いについてはご存じなくて、一緒だと思っておられました。
いつもたのむ提灯やさんに、どこの町内とつたえると大体造ってくださるそうですが、永年の
間に、少しづつ異なってきたのではとのことでした。
各家ごとに管理されているようです。

また、この通りは、昔は欠ノ上町という地域でしたが、通りの右側と左側で提灯が違う珍しい通りです。
これは、大雄寺に向って左側が若達町で、白山神社の氏子。右側が愛宕神明神社の氏子となって
いるために、こういうことが起こります。高山でもこういうのは、大変珍しいです。

同じ愛宕町でも、上の方へ行くと、提灯が異なります。これは「燈」です。

愛宕坂を上ると、東山町との境目にのぼりが有ります。現在は、国道端にありますが、元は
この道路はなく、もう少し右の旧道が平湯街道の出口でした。

この界隈は、行列も出ますが、子供神輿が各町内ごとにあります。この日も、愛宕町、天性寺町の
子供神輿に遭遇しました。ただし、吹屋町の子供神輿は、子供が少なくなり、神輿だけが寂しく
展示されていました。

吹屋町一丁目の提灯。愛宕坂上と同じ「燈」の提灯です。



吹屋町2丁目が大変面白く、場所によって提灯が異なります。おそらく班ごとに違うものと思われます。
この理由について、堀端町も同じだったので、錦山神社の人に聞いてわかったのですが、昔はこの地域は
火消し組みの、「愛宕組」と「東組」の地域だった。それで、現在の消防組が、○分団の第△班というように
分かれていたため、神社の祭礼でも、集団意識が分かれていた。そのため、班によって提灯が異なるように
なっていたとのことでした。これは大発見でした。地元の人も殆んど知らない事だと思います。
ちなみに、吹屋町2丁目の本通りの提灯には、「歓仰徳」(かんぎょうとく)と書かれています。
神様の徳にすがりつく想いを示したものでしょうか。神様の徳を仰ぎ見る事を喜ぶという意味だと思います。
大変珍しい提灯です。


天性寺町の提灯です。

吹屋町2丁目の秋葉様 提灯やのぼりをたてて化粧をしています。



こちらは、祭りの区域内にある素玄寺。 金森公の菩提寺らしく、金森公の梅鉢紋の提灯となっています。
また、本堂にも幕が掲げられて、化粧をされています。神様の祭りなのに、どうして仏閣がお祭りを迎えて
正装するのか、大変面白い事実だと思いました。
それは、このような理由からのようです。
かつてこの東山には、霊雲寺が古刹としてあり、白山神社を鎮守の神様としてお祭りしていました。
大雄寺ご住職によると、堀安信(ほりあんじん、ほりやすのぶ)という人が、京都から薬師として長近についてきて、
高山城の城下町の設計を行った。その褒美に何かないかたずねられたとき、彼は、法然上人の信者だったので、
願わくは浄土宗のお寺をこの高山の城下に移して欲しいと城主に頼んだそうです。
そのとき、浄土宗のお寺は、大雄寺が国府町の上広瀬に唯一ありました。
そこで、長近は、東山一帯を大雄寺に寄進しました。この愛宕神明神社自体が、大雄寺の鎮守の神様だったらしく、
その別当として天照寺が造られました。天照寺は、国府の名張にありましたが、天台宗の古刹でしたが、荒廃が
はげしく、浄土宗に転宗して、愛宕神社の守りをすることになりました。
少し後に東山へ、法華寺が西之一色から移転。次に金森の菩提寺として素玄寺が建てられ、その寺坊として
善応寺が松倉下の城下町から移転されて来ました。また、宗猷寺は、新安国寺として建てられました。
国道ができ、道が拡幅されることになって、善応寺が現在地に移転されたそうです。
徳積善太