250518三寺参りの謎について
(平成25年5月18日放送分 第293回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
今年のGWは外国人の方が大変多かったと云う話を先週しましたが、今年の入込は観光課の統計に
依りますと214000人で、前年比3.9%の増だったようです。観光関連の施設では、4月30日が平日で、
しかも晦日が重なった事も有り、この日はどの旅館ホテルも空きが有ったようですが、その他の日は
だいたい埋まって、ほっと一息と云った所が多かったようです。
しかし、奥飛騨では、4月27日に平湯で5cmの積雪が有り、自動車で来られる予定だったお客様が、
奥飛騨まで来られず、やむなくキャンセルされた方が多かったそうです。
気候の方は、このところ寒い日と暑い日が繰り返していまして、先週の8日には、清見町の六厩で、
最低気温がマイナス一度あり、全国で2番目に最低気温が低かったそうです。ところが、同じ日の昼間
には、南飛騨の萩原町で最高気温が31.4度もあり、こちらは、全国で2番目に気温が高かったそうです。
たまたま私はその日に、新穂高まで打ち合わせに行っていたのですが、帰ってくる時に、平湯で道路の
横に雪がいっぱいあったのですが、寒暖計を見ると25度も有りました。平湯峠を越えて、久手に差し掛
かった時に、そこの気温が31度もありましたので、高山に降りたら、一体どのくらい暑いんだと思った
程でした。これだけ寒暖の差が激しいと、風邪をひかれる方もおられたのではないかと思います。
やっとリンゴの花が咲いたと云うTV報道なども有り、ようやく春らしくなってきたなと思う、今日この頃
ですが、相変わらず寒暖の差が激しいですから、どうぞ体調管理には十分に気をつけて下さい。
さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、第三週目ですので、飛騨市方面の話題をお届けしたい
と思います。今日はテーマを決めておりませんでしたが、「古川の三寺参り」についての謎についてお
話をしたいと思います。
ちょっと時期外れですが、古川の三寺参りは、宗祖親鸞聖人の御命日に、例年1月15日に古川の
三つのお寺、真宗寺、本光寺、円光寺の3つのお寺をお参りする行事です。明治の頃からだと思い
ますが、信州へ出稼ぎに行っていた、娘たちが戻って来て、この三寺参りにお参りをしますので、
「嫁を見たての三寺参り」と呼ばれるようになりました。
古川の宴会で歌われる、「若松さま」のあとに必ず歌われる民謡「ぜんぜのこ・まんまのこ」にも、
この嫁を見たての三寺参りの歌が歌われています。
毎年、古川町で盛大に開催されており、今年も、たくさんのお参り衆が、古川のみならず高山や
名古屋の方からもお参りされていました。
観光協会では、雪の大ろうそくを弐之町界隈や壱之町界隈に並べたり、瀬戸川には小さな雪ろうそく
を飾ってこの三寺参りを盛り上げました。
もう10年ほど前になりますか、NHKの朝の連続テレビ小説「さくら」で大人気になった古川ですが、
その頃から「白いろうそくはいい人に巡り合えるようにお祈りするため、赤いろうそくはお礼まいりの為」
と言われるようになり、たくさんの若い女性の方がお参りをされるようになりました。
あの頃から、瀬戸川の鯉とLoveの恋をかけて、恋の水という観光スポットも瀬戸川界隈に造られるよう
になり、それまでの「嫁を見たての三寺参り」という歌にも因んで、恋愛成就のスポットとして人気が出る
ようになりました。
三寺参り(撮影:森田廣実先生 プロカメラマン)
最近では、話題が話題を呼んで、三寺参りはいつしか、恋愛成就のイベントと言う印象が定着して来た
ようです。以前、この放送でもお話しいたしましたが、この「三寺参り」、飛騨古川でいつ頃始まったのか、
定かではありません。
古川の人にお聞きしますと「古川の三つの寺=真宗寺、本光寺、円光寺が浄土真宗本願寺派に転派
したことから、古川の人は、三つのお寺を公平にお参りするようになった」といわれています。
観光パンフレットやHPなどにも、三寺参りの起源として、「三寺まいりの始まりは、なんと300年以上も前に
遡る。昔々、古川の三寺のうち真宗寺と本光寺は東本願寺派、円光寺は西本願寺派でした。1705年
(宝永2年)に真宗寺と本光寺は西本願寺派に転派、これによって古川町内の3つの浄土真宗のお寺が
全て西本願寺派になりました。これを機に、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の命日のお参りはどの寺の
檀家も分け隔てなく3つのお寺をお参りするようになり、三寺まいりが始まりました。」と言われています。

ところが、江戸時代にこの三寺参りが行われていたと言う記録が全くないばかりか、最近、東本願寺の
お手伝いをしていて判ったのですが、親鸞上人の御命日は弘長二年(1262年)11月28日で、真宗大谷派
高山別院では、毎月28日に親鸞上人の祥月命日と言う事で御遠忌の法要が営まれているんです。
後半ではこの謎に迫ってみたいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は「岩崎良美で タッチ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、古川の三寺参りの謎についてお話ししております。
親鸞上人の御命日は弘長二年(1262年)11月28日ですが、実はこれは旧暦ですから太陽暦に直すと
1262年1月16日であることが分かりました。歴史を紐解いていくと、矛盾が時々出てまいります。
永年、古川の方々が繰り広げられてきた行事ですから、否定することはありませんが、イベント性が
増せば増す程、歴史の史実と言う物が曲げられる場合もあるんですね。そういうことに時々で会う事が
ありますが、三寺参りだけは、一体いつ始まったのか、私の中では謎でした。
太陽暦で日程が決められていることからするとおそらく、明治以降に始まった事ではないかと思っておりました。
今年、3月15日の放送でお話ししましたが、この三寺参りになくてはならないのが、和ろうそくです。
その時に、円光寺、本光寺、真宗寺の3つの本堂に、毎年和ろうそくを奉納されている、地元の三嶋和ろうそく
店さんに取材をしました。
三島さんのところでは、毎年、大ろうそくを製作し、奉納されています。私も実物を見たことがありますが、
これは三貫目ろうそくといって、高さ80cm、最大直径22cm、重さ13kgにもなるとても大きなものです。
三本作るのに二人が不眠不休で、27時間くらいかけて作られるものだそうです。
また、最近は、嫁を見たての三寺参りという言葉が独り歩きして、三つの寺をお参りした後に、瀬戸川の
ところでお参りをすると、素敵な人に出会えると言うので、若い女性が沢山お参りされるようになりました。
いつしか、お参りする時には、白の蝋燭を燃やしてお参りし、願いがかなったら赤のろうそくでお参りする
といいと言うことが言われ、沢山の皆さんが蝋燭を燃やしてお参りをされるようになりました。
このろうそくも和ろうそくです。
三島さんのところで、お話しを窺った時に、私がかつてから思っていた、この「三寺参りがいつ頃から始まった
のか?」という疑問を投げかけてみました。そうしたら、意外な答えが返ってきました。
それは、この和ろうそくを奉納しているのは、三島さんのところでは無くて、三寺参りの奉参会です。
昭和40年頃に向町の松井徳太郎さんと云う人が中心になり、大ろうそくを奉納する事を復活したいということで、
復活されたものであることが分かりました。
その時のお話では、実は、かつて江戸時代の頃から、古川の方々は非常に信心深い方が多くて、お寺の
報恩講の時に門徒さんが大きなろうそくを奉納すると云う風習が有ったそうです。
かつての台帳などを見ると、500匁~1貫目のものや、1貫500匁~2貫目の大きなものを注文される方が
多かったそうです。ところが、明治時代になって、信州や尾張地方の製糸工場から、大きなものが発注される
ようになった。そこで、三島家では、三寺参りのたびにそういった大きなものを作る様になったとのことでした。
ところが、時代が戦局に巻き込まれるようになり、そういった大きな物の発注がだんだん無くなっていった。
そのために、戦後の物不足の時代にはほとんど発注されなくなり、三寺参りで大きなろうそくが燃やされると
云う事がなくなってしまったということでした。
そのため、かつて三寺参りで大きなろうそくがお寺の境内で燃やしていたことを復活させようと、昭和40年頃に
なって、先ほどお話しした松井徳太郎さんが呼びかけ、資金を集めて、「三寺参り奉参会」として大ろうそくを作り、
3つのお寺に報恩講のろうそくとして奉納することが行われるようになったと云う事です。
したがって、三寺参りは、かつて江戸時代の頃は真宗寺・円光寺・本光寺の3つのお寺で別々に行われていた
親鸞聖人の御命日の法要=「報恩講」が3つのお寺が同時に行う様に明治時代に変えられた。
その時期も、親鸞聖人の御命日を、旧暦11月28日では無く太陽暦で計算して1月16日とした。
その前夜祭というかお通夜として、夜にろうそくを灯してお参りされるようになった。
そして、一時期、衰退の憂き目にあっていましたが、昭和40年になって復活し、観光ブームも伴ってだんだん
盛大に行われるようになって行った。というのが、どうも本当の話しの様です。

したがって、一般に「江戸時代に始まった」と云うのは、「報恩講」の法要として行われていたものであって、
その頃は、三寺参りではなかったのですが、江戸時代の報恩講が形を変えたもののようです。
飛騨市観光協会がHPに掲載されている記述は、間違いではありませんが目的が異なったようです。
これで私の中にあった、三寺参りがいつから始まったのかと云うなぞが一つとけました。
さて、本日も時間となりました。
来週は、第四週目ですので、匠のお話しをしたいと思います。先日、高山の川原町にある大国台組で講演を
頼まれまして、1時間程お話しして参りました。その時のお話しをしたいと思います。どうぞお楽しみになさって
ください。本日はこの曲でお別れです。安全地帯で「恋の予感」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
今年のGWは外国人の方が大変多かったと云う話を先週しましたが、今年の入込は観光課の統計に
依りますと214000人で、前年比3.9%の増だったようです。観光関連の施設では、4月30日が平日で、
しかも晦日が重なった事も有り、この日はどの旅館ホテルも空きが有ったようですが、その他の日は
だいたい埋まって、ほっと一息と云った所が多かったようです。
しかし、奥飛騨では、4月27日に平湯で5cmの積雪が有り、自動車で来られる予定だったお客様が、
奥飛騨まで来られず、やむなくキャンセルされた方が多かったそうです。
気候の方は、このところ寒い日と暑い日が繰り返していまして、先週の8日には、清見町の六厩で、
最低気温がマイナス一度あり、全国で2番目に最低気温が低かったそうです。ところが、同じ日の昼間
には、南飛騨の萩原町で最高気温が31.4度もあり、こちらは、全国で2番目に気温が高かったそうです。
たまたま私はその日に、新穂高まで打ち合わせに行っていたのですが、帰ってくる時に、平湯で道路の
横に雪がいっぱいあったのですが、寒暖計を見ると25度も有りました。平湯峠を越えて、久手に差し掛
かった時に、そこの気温が31度もありましたので、高山に降りたら、一体どのくらい暑いんだと思った
程でした。これだけ寒暖の差が激しいと、風邪をひかれる方もおられたのではないかと思います。
やっとリンゴの花が咲いたと云うTV報道なども有り、ようやく春らしくなってきたなと思う、今日この頃
ですが、相変わらず寒暖の差が激しいですから、どうぞ体調管理には十分に気をつけて下さい。
さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、第三週目ですので、飛騨市方面の話題をお届けしたい
と思います。今日はテーマを決めておりませんでしたが、「古川の三寺参り」についての謎についてお
話をしたいと思います。
ちょっと時期外れですが、古川の三寺参りは、宗祖親鸞聖人の御命日に、例年1月15日に古川の
三つのお寺、真宗寺、本光寺、円光寺の3つのお寺をお参りする行事です。明治の頃からだと思い
ますが、信州へ出稼ぎに行っていた、娘たちが戻って来て、この三寺参りにお参りをしますので、
「嫁を見たての三寺参り」と呼ばれるようになりました。
古川の宴会で歌われる、「若松さま」のあとに必ず歌われる民謡「ぜんぜのこ・まんまのこ」にも、
この嫁を見たての三寺参りの歌が歌われています。
毎年、古川町で盛大に開催されており、今年も、たくさんのお参り衆が、古川のみならず高山や
名古屋の方からもお参りされていました。
観光協会では、雪の大ろうそくを弐之町界隈や壱之町界隈に並べたり、瀬戸川には小さな雪ろうそく
を飾ってこの三寺参りを盛り上げました。
もう10年ほど前になりますか、NHKの朝の連続テレビ小説「さくら」で大人気になった古川ですが、
その頃から「白いろうそくはいい人に巡り合えるようにお祈りするため、赤いろうそくはお礼まいりの為」
と言われるようになり、たくさんの若い女性の方がお参りをされるようになりました。
あの頃から、瀬戸川の鯉とLoveの恋をかけて、恋の水という観光スポットも瀬戸川界隈に造られるよう
になり、それまでの「嫁を見たての三寺参り」という歌にも因んで、恋愛成就のスポットとして人気が出る
ようになりました。

最近では、話題が話題を呼んで、三寺参りはいつしか、恋愛成就のイベントと言う印象が定着して来た
ようです。以前、この放送でもお話しいたしましたが、この「三寺参り」、飛騨古川でいつ頃始まったのか、
定かではありません。
古川の人にお聞きしますと「古川の三つの寺=真宗寺、本光寺、円光寺が浄土真宗本願寺派に転派
したことから、古川の人は、三つのお寺を公平にお参りするようになった」といわれています。
観光パンフレットやHPなどにも、三寺参りの起源として、「三寺まいりの始まりは、なんと300年以上も前に
遡る。昔々、古川の三寺のうち真宗寺と本光寺は東本願寺派、円光寺は西本願寺派でした。1705年
(宝永2年)に真宗寺と本光寺は西本願寺派に転派、これによって古川町内の3つの浄土真宗のお寺が
全て西本願寺派になりました。これを機に、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の命日のお参りはどの寺の
檀家も分け隔てなく3つのお寺をお参りするようになり、三寺まいりが始まりました。」と言われています。
ところが、江戸時代にこの三寺参りが行われていたと言う記録が全くないばかりか、最近、東本願寺の
お手伝いをしていて判ったのですが、親鸞上人の御命日は弘長二年(1262年)11月28日で、真宗大谷派
高山別院では、毎月28日に親鸞上人の祥月命日と言う事で御遠忌の法要が営まれているんです。
後半ではこの謎に迫ってみたいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は「岩崎良美で タッチ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、古川の三寺参りの謎についてお話ししております。
親鸞上人の御命日は弘長二年(1262年)11月28日ですが、実はこれは旧暦ですから太陽暦に直すと
1262年1月16日であることが分かりました。歴史を紐解いていくと、矛盾が時々出てまいります。
永年、古川の方々が繰り広げられてきた行事ですから、否定することはありませんが、イベント性が
増せば増す程、歴史の史実と言う物が曲げられる場合もあるんですね。そういうことに時々で会う事が
ありますが、三寺参りだけは、一体いつ始まったのか、私の中では謎でした。
太陽暦で日程が決められていることからするとおそらく、明治以降に始まった事ではないかと思っておりました。
今年、3月15日の放送でお話ししましたが、この三寺参りになくてはならないのが、和ろうそくです。
その時に、円光寺、本光寺、真宗寺の3つの本堂に、毎年和ろうそくを奉納されている、地元の三嶋和ろうそく
店さんに取材をしました。
三島さんのところでは、毎年、大ろうそくを製作し、奉納されています。私も実物を見たことがありますが、
これは三貫目ろうそくといって、高さ80cm、最大直径22cm、重さ13kgにもなるとても大きなものです。
三本作るのに二人が不眠不休で、27時間くらいかけて作られるものだそうです。
また、最近は、嫁を見たての三寺参りという言葉が独り歩きして、三つの寺をお参りした後に、瀬戸川の
ところでお参りをすると、素敵な人に出会えると言うので、若い女性が沢山お参りされるようになりました。
いつしか、お参りする時には、白の蝋燭を燃やしてお参りし、願いがかなったら赤のろうそくでお参りする
といいと言うことが言われ、沢山の皆さんが蝋燭を燃やしてお参りをされるようになりました。
このろうそくも和ろうそくです。
三島さんのところで、お話しを窺った時に、私がかつてから思っていた、この「三寺参りがいつ頃から始まった
のか?」という疑問を投げかけてみました。そうしたら、意外な答えが返ってきました。
それは、この和ろうそくを奉納しているのは、三島さんのところでは無くて、三寺参りの奉参会です。
昭和40年頃に向町の松井徳太郎さんと云う人が中心になり、大ろうそくを奉納する事を復活したいということで、
復活されたものであることが分かりました。
その時のお話では、実は、かつて江戸時代の頃から、古川の方々は非常に信心深い方が多くて、お寺の
報恩講の時に門徒さんが大きなろうそくを奉納すると云う風習が有ったそうです。
かつての台帳などを見ると、500匁~1貫目のものや、1貫500匁~2貫目の大きなものを注文される方が
多かったそうです。ところが、明治時代になって、信州や尾張地方の製糸工場から、大きなものが発注される
ようになった。そこで、三島家では、三寺参りのたびにそういった大きなものを作る様になったとのことでした。
ところが、時代が戦局に巻き込まれるようになり、そういった大きな物の発注がだんだん無くなっていった。
そのために、戦後の物不足の時代にはほとんど発注されなくなり、三寺参りで大きなろうそくが燃やされると
云う事がなくなってしまったということでした。
そのため、かつて三寺参りで大きなろうそくがお寺の境内で燃やしていたことを復活させようと、昭和40年頃に
なって、先ほどお話しした松井徳太郎さんが呼びかけ、資金を集めて、「三寺参り奉参会」として大ろうそくを作り、
3つのお寺に報恩講のろうそくとして奉納することが行われるようになったと云う事です。
したがって、三寺参りは、かつて江戸時代の頃は真宗寺・円光寺・本光寺の3つのお寺で別々に行われていた
親鸞聖人の御命日の法要=「報恩講」が3つのお寺が同時に行う様に明治時代に変えられた。
その時期も、親鸞聖人の御命日を、旧暦11月28日では無く太陽暦で計算して1月16日とした。
その前夜祭というかお通夜として、夜にろうそくを灯してお参りされるようになった。
そして、一時期、衰退の憂き目にあっていましたが、昭和40年になって復活し、観光ブームも伴ってだんだん
盛大に行われるようになって行った。というのが、どうも本当の話しの様です。
したがって、一般に「江戸時代に始まった」と云うのは、「報恩講」の法要として行われていたものであって、
その頃は、三寺参りではなかったのですが、江戸時代の報恩講が形を変えたもののようです。
飛騨市観光協会がHPに掲載されている記述は、間違いではありませんが目的が異なったようです。
これで私の中にあった、三寺参りがいつから始まったのかと云うなぞが一つとけました。
さて、本日も時間となりました。
来週は、第四週目ですので、匠のお話しをしたいと思います。先日、高山の川原町にある大国台組で講演を
頼まれまして、1時間程お話しして参りました。その時のお話しをしたいと思います。どうぞお楽しみになさって
ください。本日はこの曲でお別れです。安全地帯で「恋の予感」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。
徳積善太