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郡上八幡へ行ってきました3
金森可重と遠藤慶隆の関係についてですが、知らないことがたくさんありました。
「郡上古日記」というものから取った系図が陳列されていました。

まず、遠藤慶隆の妻ですが、妻は、天正十三年に金森氏が飛騨を征する以前に知行していた三木自綱の妹
でした。彼らの間には、一人の子供(慶勝)がありましたが早世しました。
そのため、彼らは、養子に慶利(遠藤家3代目郡上八幡城主)を迎えますが、実はこの人、三木自綱の子 直綱の
子供に当たりますから、自綱の孫ということになります。
天正十三年、飛騨は金森氏によって平定されますが、三木自綱は、高堂城に。子の秀綱は松倉城にて戦いますが、
金森氏に内通した家臣によって城内に火を放たれ、それを合図に総攻撃を受け、松倉城を追われます。
秀綱は信州に逃げますが、途中で土民に殺されました。三木自綱は、高堂城を追われ、家臣の長瀬甚平とともに
京都へ行き、京都の地でなくなりました。甚平が、高野山に葬ったとの記録があります。
ということは、三木の血は、絶えたのではなくて、しっかりと郡上八幡の地に根付いていたことになります。
また、金森氏とは、幾度の戦功で共にして、三木を滅ぼすほうに付くわけですから、戦国時代というのは
非情な戦いの場だったんですね。

郡上八幡城は、遠藤氏の代は7代まで。その後、井上氏が二代治め、金森氏が上山から再転封となって
二代治めます。このときに、宝暦騒動(郡上一揆)が起り、農民が殿様に勝ちました。
徳積善太
「郡上古日記」というものから取った系図が陳列されていました。
まず、遠藤慶隆の妻ですが、妻は、天正十三年に金森氏が飛騨を征する以前に知行していた三木自綱の妹
でした。彼らの間には、一人の子供(慶勝)がありましたが早世しました。
そのため、彼らは、養子に慶利(遠藤家3代目郡上八幡城主)を迎えますが、実はこの人、三木自綱の子 直綱の
子供に当たりますから、自綱の孫ということになります。
天正十三年、飛騨は金森氏によって平定されますが、三木自綱は、高堂城に。子の秀綱は松倉城にて戦いますが、
金森氏に内通した家臣によって城内に火を放たれ、それを合図に総攻撃を受け、松倉城を追われます。
秀綱は信州に逃げますが、途中で土民に殺されました。三木自綱は、高堂城を追われ、家臣の長瀬甚平とともに
京都へ行き、京都の地でなくなりました。甚平が、高野山に葬ったとの記録があります。
ということは、三木の血は、絶えたのではなくて、しっかりと郡上八幡の地に根付いていたことになります。
また、金森氏とは、幾度の戦功で共にして、三木を滅ぼすほうに付くわけですから、戦国時代というのは
非情な戦いの場だったんですね。
郡上八幡城は、遠藤氏の代は7代まで。その後、井上氏が二代治め、金森氏が上山から再転封となって
二代治めます。このときに、宝暦騒動(郡上一揆)が起り、農民が殿様に勝ちました。
徳積善太