大坂夏の陣の論功行賞

大坂夏の陣の戦いでは、徳川家康が豊臣英次を破り、結果的に徳川は秀吉の血筋を断つことに
成功しました。
関ヶ原の合戦以降、豊臣方は、徳川の一武将として、その地位が保証されていましたが、2度にわたる
大坂城の戦いで、滅ぼされました。元和2年のことです。
大坂夏の陣の論功行賞

その時、金森出雲守可重は、息子 重頼や、娘の舅 小出大和守とともに参戦し、首級をあげるなど
大変な功績がありました。特に、豊臣方の重臣 真田幸村の兵を破ったことでは、大変な功績が
あったといわれます。
大坂夏の陣の論功行賞
そのときに、論功行賞があり、可重を「丹波半国と亀山城の城主にする」というような話があったとか。
これは、先般の古川の勉強会で聞きました。

その出典がわかりました。『家説類聚』の下記の文章からです。

「可重は台徳君甚御鐘愛なり今も尊書多残あるかいつれも御懇意の御文段也常に天下の二人の人持にしてとらすへきと仰事ありしとなり難波戦御凱陳のとき於京都内々の御棟傳る人をもって此度の賞に丹波国一円給ふへきとありしを可重は丹州をも不足に思はれしに田嶋勝太山蔵縫殿助か是はあるましき事に侍る丹波は内々四十万石も侍るを不足に思召事は余りなる事と諌しか其年閏六月三日於伏見卒去あり其ころはいまた諸将の勧賞行はれさる前なる故今一両日存日ならは極て丹波を賜るへき御気色聞へしと親か語りしとて兵庫忠善か頼旹へ申せしとなり忠善父は田嶋勝太也」『家説類聚』

兵庫忠善と言う人が、父の田嶋勝太から聞いたことを6代高山城主 金森頼旹に語ったというもので、
証拠は有りませんが、そのような話があったことが書かれています。

徳積善太
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