錦織の綱場
先日の、歴民で、小島先生のお話の中に、「錦織の綱場」の話が出てきました。
今日、図書館でいろいろと詮索中に、その写真を発見しました。

金山の下原には、綱場があって、その綱つなぎ石が現在も存在します。

対岸に向って、綱が張られていました。

下原の中綱場では、上流から流れてきた木を一旦集めて、そこで通行税を取ったそうです。
三木氏の時代には、6本に対して1本の割合でしたが、その後には金納となりました。
途中、金森時代には、ここより下流が尾張藩領であったために、一旦下原で陸揚げし、
陸送して上有知まで持って行き、長良川を流送したそうです。
上有知は、昔、金森氏の知行地だったということで、そのようにしたのかもしれません。
一番最初の写真は、八百津にあった錦織の綱場。ここは、尾張藩領でしたから木曽の
流木を一旦集めて、筏に組んで、流すという作業が行なわれました。
八百津は、昔から、材木の流送でかなりにぎわった町でした。
小島先生の話によると、犬山辺りの方々は、毎年正月に「どうぞ、今年は綱が切れますように」
とお祈りをされていたそうです。水量が多くて、大量の材木が流れると、綱が切れます。
当然、集めた材木は一気に下流に流れ出します。
それが、流れが緩やかになって、犬山辺りで集ると、夜中に農民達が其の材木を集めたそうです。
それは、農家の特別の収入になりました。
もちろん、見つかると罰せられるので、人々は、集めた木を川原の砂に埋めたそうです。
のちに、値段が高くなって、販売する。そうすることによって特別の収益を得たそうです。
昭和初期まで、川ぞいの方で木を貯める「プール」を作っていた方もおられたとのこと。
流送に関しての面白いエピソードでした。
徳積善太
今日、図書館でいろいろと詮索中に、その写真を発見しました。
金山の下原には、綱場があって、その綱つなぎ石が現在も存在します。
対岸に向って、綱が張られていました。
下原の中綱場では、上流から流れてきた木を一旦集めて、そこで通行税を取ったそうです。
三木氏の時代には、6本に対して1本の割合でしたが、その後には金納となりました。
途中、金森時代には、ここより下流が尾張藩領であったために、一旦下原で陸揚げし、
陸送して上有知まで持って行き、長良川を流送したそうです。
上有知は、昔、金森氏の知行地だったということで、そのようにしたのかもしれません。
一番最初の写真は、八百津にあった錦織の綱場。ここは、尾張藩領でしたから木曽の
流木を一旦集めて、筏に組んで、流すという作業が行なわれました。
八百津は、昔から、材木の流送でかなりにぎわった町でした。
小島先生の話によると、犬山辺りの方々は、毎年正月に「どうぞ、今年は綱が切れますように」
とお祈りをされていたそうです。水量が多くて、大量の材木が流れると、綱が切れます。
当然、集めた材木は一気に下流に流れ出します。
それが、流れが緩やかになって、犬山辺りで集ると、夜中に農民達が其の材木を集めたそうです。
それは、農家の特別の収入になりました。
もちろん、見つかると罰せられるので、人々は、集めた木を川原の砂に埋めたそうです。
のちに、値段が高くなって、販売する。そうすることによって特別の収益を得たそうです。
昭和初期まで、川ぞいの方で木を貯める「プール」を作っていた方もおられたとのこと。
流送に関しての面白いエピソードでした。
徳積善太