(3月8日放送分143回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けして
まいります。
先日とってもうれしいことがありました。現在、いろんなことを平行して調べて
いるのですが、雅楽のことを調べています。『斐太紀』という本に、昨年「飛騨の
雅楽の歴史について」発表しましたが、今年の三月にも発刊されることになりまし
た。この雅楽については、私も日枝神社の雅楽会員として会員となって25年もたち
ますが、飛騨にはたくさんの雅楽会があります。もう8年来いろんなことを調べて
おりますが、「雅楽点滴譜」と書いて、「のきのたまみず」と読む楽譜があります。
作者は江戸時代の国学者田中大秀です。しかし、実物をみたことがなかったので、
一度見てみたいと思っておりました。先日、江名子にお住まいのMさん宅にお邪魔
して、雅楽のことをいろいろと伺っておりましたところ、この楽譜が出てまいりま
した。もうかなり長いこと探していたものに出会って、大変うれしかったです。
また、このお宅は、永年うちの神楽台の神楽を100年以上勤めていただいた家である
ということで、神楽のお話も伺うことができました。明治22年に、長年の御礼だと
いって、神楽組みのご先祖からこのお宅に渡された、太鼓が出てまいりました。
この太鼓、現在の神楽台になる前の屋台に使われていた太鼓で、古いんですが良く
見ますと赤い朱の色で塗装されていたことがわかりました。以前、郷土館で、文化
文政年間の屋台絵巻を見せていただいたことがありますが、こちらの太鼓は朱の色
で色が塗ってありました。
おそらくそれに間違いない現物が出てきたということで、大変感動いたしました。
もう何年も何年も探していた、恋人にやっと会えたというような大変な感動でした。
本当にいろんなことに感謝したいという一日でした。
最初、Mさんには、「何もお話しすることはありません」といわれ断られておりました
が、伺ってよかったです。いろんなことをお教えしたことで、大変喜んでいただけて
おまけに私も勉強させていただきました。「お年寄りの皆さんは、生き字引です。
生活の知恵などをたくさん知っておられます。皆さんもどうぞ今のうちにたくさんの
ことを聞き出しておいてください。出来る限り、そういうことを残してください。」
さて、本日の放送に移りましょう。今日の放送は、リスナーの方から、お手紙を頂戴
しましたので、それにお答えする形で、お届けしたいと思います。
今日のご質問は、「高山陣屋に行きますと、よく大原騒動のお話を伺いますし、陣屋
にはお白州があります。江戸時代の刑罰は、百叩きとか獄門とかあったようですが、
どのような刑罰があったのか、教えてください。また、大原騒動の処分はどうでしたか?」
という内容でした。
ちょうど、このところ高山陣屋のお話をしておりますが、丁度伺って来たこともあります
ので、お話したいと思います。
高山陣屋の正面を入って右手のところに、お白州があります。
こちらでは主に民事裁判
を担当したといわれています。先ほども申しましたが、訴訟、普請、戸籍等の調査や民事
訴訟が行なわれた場所です。一般の白州と違うところは、高山は寒冷地のために、外と隔
てた壁があるということでした。少ない人数で効率的に裁判を進めるために、町人は町年
寄が。農村は名主や百姓代がある程度を管理し、お上の采配を仰ぎました。
そのため、町年寄、五人組、戸籍関係を扱った寺院などの控えの間が、その横にありました。
一方で、刑事裁判は、陣屋から入って左手のところにある白州にて行いました。
当時の裁判は、自白主義を採用していたために、たとえ無実であっても、鞭でたたいたり、
水攻めにしたり、石を抱かせたり、天井からつったりして自白を強要しました。
丁度、お白州のところに、抱き石と言う長さ約90cm、厚さ約15cm、奥行き約30
cmの石が置いてありますが、責め台といって木がぎざぎざになった台の上に正座させ
られます。
どんな人でも一時間も坐ると、自分の体重で足に木の角がめり込んできて、
血が噴出します。その痛さに耐えれなくなって、自分がやっていなくても「自分がやり
ました」と白状すれば、罪をかぶる事になりますが、痛みからは開放されます。
そのため、大半の方が最初の1時間で白状したようです。ところが、それでも白状しないと、
今度は、先ほど言った抱き石をその上に置かれます。
だいたい、一つが50kgくらいあるそうですが、そんな石を置かれた時には、足のひざ
から下は骨折してしまいます。お白州のところに、抱き石を抱えた人の絵が書かれていま
すが、苦痛に満ちた顔をしています。
ちょっと怖くなってきましたね。ブレイクしましょう。明るめの曲をお届けします。
曲は「かぐや姫 おもかげ色の空」。
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本日の飛騨の歴史再発見は、江戸時代の刑罰についてお話しています。
長沼さんのお話によると、石抱きよりもつらかったのは、釣りぜめだったのではと言う
ことでした。後ろ手に縛られて、天井の梁から紐でぶら下げられます。何時間もすると、
血がうっ血してその痛みは想像を絶するものだったそうです。
そうやって、手荒い仕置きをして白状を強要させたものですから、血を洗い流しても
すぐにしみ込むように、玉石には大きいものが使われていたということでした。
ちなみに、江戸時代にそういった強要が日本では行なわれていた反省もあって、戦後
できた日本国憲法の第36条に「公務員による刑罰の禁止」ということが詠われている
そうです。これは知りませんでした。
そうやって自白をした後に、刑罰が下されるのですが、高山陣屋では鞭打ちと科料
(罰金刑)しか許されていませんでした。それ以上の罪罰になると、必ず江戸面にお伺い
を立てないといけない決まりになっていました。
ここで、ちょっと本題の、江戸時代の刑罰について、触れてみたいと思います。
リスナーの方からも、江戸時代の刑罰がどのようなものであったか、お問い合わせが
あったので、調べてみました。江戸時代の刑罰は、相当複雑のようですが、一般的には
寛保二年(1747年)に江戸時代の法律が整理された「公事方御定書」が制定後は、
幕府はこれに基づき裁判を行ったようです。
現代では法律は公表され簡単に調べられますが江戸時代では『公事方御定書』という法典を
持つのは町・勘定・寺社の三奉行のみでした。
「犯罪を犯せばどのような刑罰に処せられるかわからない」という恐怖心を煽り犯罪を
抑制する秘密主義を採っていたようです。
ただ、誰かが意図的に漏らすことで抑止効果を狙ったのかわかりませんが「十両盗めば死刑」
など案外世間に知られていたようです。
また、身分によっても男性女性の違いによっても刑罰が違っていたようです。
幾つかをご紹介します。
追放刑では、居住地から追放される門前払い・所払い。
一定の場所から追放される軽追放、中追放、重追放、一番重いのが遠島で島流しです。
身体刑では、入墨、100たたき、50たたき。
女子青少年は1たたき一日で計算して入牢を申しつける場合もあります。
生命に関わるものは、重いものから順に
のこびき=主殺しなど重罪に適用される極刑。市中引き回しの上、首だけ箱の上に出し埋められ二日間生きたまま晒し者にされ刑場で磔にされる。
磔=刑場で刑木に張り付けられ突き手が槍や鉾で二、三十回突き刺す。死後三日間晒される。
獄門=牢内で処刑後、刑場で罪名を書いた木札とともに首を三日二夜台木の上に晒す。木札は首が捨てられた後も三十日間晒された。
火罪=放火犯に適用される。馬で市中引き回しの後、刑場で刑木に張り付けられ火あぶりにされ処刑される。火あぶりにする前に絶命させていた説もある。死後三日間晒される。
死罪=牢内で処刑され様物(ためしもの)にされる。財産を没収される闕所が付加刑に付く。
下手人=過失致死、喧嘩など故意ではない殺人に適用される。死刑の中では最も軽い刑。牢内で処刑される。 死骸は家族に下げ渡され様物(ためしもの)にされない。
切腹=武士は体面を重んじ自分の罪を認め自らが裁くという意味で切腹が許されている。武士としての尊厳を保ったものである。
斬首=武士のみ適用。様物(ためしもの)にされない。刑場で行われ徒目付か小人目付が検視をする。
というのがありました。
ちょっと生臭い話で申し訳ございませんでした。
さて、最後に本論の大原騒動の人達の処分ですが、明和・安永・天明の3回に渡る
騒動でそれぞれ刑罰は異なったようです。
明和騒動では、1人が死罪で、3人が遠島。
最も規模の大きかった安永騒動では、駕篭訴をした7人の人は獄門。百姓を匿った神官など4人は磔。有名な本郷村善九郎など首謀者の一員といわれた10人の人は獄門。義民となった片野村吉左衛門ら二人が死罪。ひだんじいで有名な上木屋甚兵衛ら14人が八丈島や新島などへの遠島。江名子村の新十郎ほか14人が追放。大八賀村徳右衛門ら7人が長尋(ながたずね)=これは国府町史編纂室の北野先生によると、逃亡してお尋ね者になっている人の事。つまり、現代で言えば「指名手配」にあたるものだということでした。そして、折敷地村長次郎など7人の人が江戸で牢死しています。
天明騒動では、獄門・死罪・牢死が1人づつの処分でした。一方、武家側は、大原亀五郎郡代と勘定方土井与右衛門は八丈島流罪。元締田中要助と志茂六郎次は打ち首。手代は追放などとなっています。詳細は大原騒動に関する本を見ていただいたほうがよろしいかと思いますが、百姓の人達が本当に命がけで、世の中のために立ち上がった姿と言うものがわかりますね。
さあ、本日も時間となりました。来週は第三週ですので、久しぶりに古川のお話をしたいと
思います。稲葉先生の講義がありましたので、そこでお話された気多若宮神社のお話をした
いと思います。
本日はこの曲でお別れです。曲は矢野顕子「春先小紅」をお届けします。ではまた来週!
徳積善太
と有りますが一番重いの間違いだと思います。