特別展に行ってきました4_国境の橋について
駕籠の渡しは、江戸末期まで続けられました。
調べてみますと、大原騒動の後の郡代、飯塚郡代は、交通の不便な箇所を農民を使って
かなり直したいという、申請を寛永2年、寛永4年、寛永7年に幕府に対して出しています。
ところが、飛騨のあちこちの道路が直されたのに、最終的にこの駕籠の渡しだけは、そのまま
ということになったようです。
これは、証拠がありませんが、加賀藩が防犯上の理由で強く拒絶したということがあったのでは
ないかということでした。
明治になって、初めて掛けられた橋。がこの橋です。
つづく
徳積善太
調べてみますと、大原騒動の後の郡代、飯塚郡代は、交通の不便な箇所を農民を使って
かなり直したいという、申請を寛永2年、寛永4年、寛永7年に幕府に対して出しています。
ところが、飛騨のあちこちの道路が直されたのに、最終的にこの駕籠の渡しだけは、そのまま
ということになったようです。
これは、証拠がありませんが、加賀藩が防犯上の理由で強く拒絶したということがあったのでは
ないかということでした。
明治になって、初めて掛けられた橋。がこの橋です。
つづく
徳積善太