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茂住宗貞は商人か?2

茂住宗貞は鉱山師か
茂住宗貞は商人か?2
伝承や多くの宗貞伝は宗貞を鉱山として扱い鉱山師説が定説となっているが実際には
宗貞が鉱山師だとする資料に欠けている。

茂住銀山。和佐保鉱山は宗貞の開発とされ、後に上宝村の蔵柱金山・平湯銀山も開発
したと伝えられている。丹生川村大字森部には金山が在ったが、この地に伝宗貞屋敷が
在り、小さな祠に鉱石を御神体とし茂住宗貞と書いた木札が添えて祀られていた。
荘川村大字六厩は古い時代に金山が在ったが此処にも茂住宗貞の伝説があった。

飛騨では大・小また新旧を問わず鉱山の由緒では開発者茂住宗貞が極めて多いが実際には
鉱山と宗貞を繋ぐ古文書等は皆無、また鉱山所在地の神社、寺院をみても宗貞の奉納品等は
何一つみられない。宗貞に関する唯一資料として横山村の牛役の請取書をみなければ宗貞の
身分を明らかにする事はできない。
神岡鉱山史の総監修をされた小葉田淳博士は雑誌「しらまゆみ」第八号に「茂住宗貞について」
の論文を寄せられているのでそれより一部分につき引用させていただく。

  「銀山町では何度も米を主食としたがこれは茂住では越中より搬入したるべく、この米を第一と
  する物資の運搬であろう。かつて課役を受理するものは企業者たる山師ではあり得ず、領主の
  代理たること明白である。宗貞は金森氏の銀山奉行であったことは最早疑いない」

  「大きく鉱山運営を差配した金山奉行としてである。それは勿論金森氏の代官である。立派な
  家核を持つ士分としてである。」

これは東茂住の柿下家所蔵文書慶長四年の請取書から宗貞の鉱山師説を完全に否定されたもので
あり、この牛役の請取書から宗貞を取上げられたのが同博士が最初でありそれより後この論文に
反論されたものは見ていない。
確かに鉱山師は藩の許可を得鉱山税を納めて稼業するもので従って税の請取人となることはあり得ない。
宗貞がこの請取書を作成している。この事は宗貞の身分が鉱山師ではなかったことを意味している。

宗貞の身分は金山奉行か
宗貞は金森藩の金山奉行と小葉田博士の論文にみられるように慶長2,4年の請取書からは宗貞の
金山奉行説に十分頷くことができる。而し乍ら文録4・5年慶長二年の三枚では納税者を「横山孫左衛
門殿参」と個人名になり文書の内容も慶長2,3年に比し若干異なっている。

特にこの三枚の請取所にみる「孫佐衛門殿参」の「参」が迚も気になり広辞苑でこれをみると
「身分の尊い人の手もとに差し上げる」とあり、これから判断すると藩を代行する金山奉行が
牛方代表者に対しての文書としては納得のゆかぬものであり、宗貞を金山奉行とみるには
まだ疑が残るので更に孫佐衛門についての解明と、富山県の窪田家と請取書の動きにも
十分みたい。


請取申候横山牛役之事
     合二十五石者
右如件
   文録四年十二月五日 宗貞 印
     横山孫佐衛門殿
           参
文禄4年(1595) 
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
     合四拾石者
右如件
   文録五年十二月三日 宗貞 印
     横山孫佐衛門
           参
   文禄五年(1596)慶長元年
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
     合四拾石者
右如件
   慶長弐年十一月   宗貞 印
     横山孫佐衛門 殿
           参

   慶長二年(1597)
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
  合四拾石者 但慶長三年分也
        但此内八石弐斗七升七合ハ
        慶長三年十二月ニ請取
       残ル三拾壱石七斗二升三合ハ今日請取也  
   慶長四年十二月九日 宗貞 印
     横山
           年寄中
   慶長四年(1599) 
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
     合四拾石者

   慶長四年
十二月九日   宗貞 印
     よこ山
           年寄中
            慶長四年(1599)


横山の孫佐衛門
孫佐衛門を著「飛騨国中案内」の横山村の項からみると「村方の肝煎孫佐衛門と云者云々」とあり、
また「横山村に居住す川上孫佐衛門と云者は是は先祖の義江馬の氏族にて百姓ながらも居住の
ところに石垣等上部に築立居候、村より下に馬責馬場杯置候其跡も干今あり云々」
江馬氏は支配地の最北端越中国境に位置す横山村には家臣数名を居住させ越中国からの外的
侵入を厳しく警戒させていたが天正十三年秋江馬家没落此地に在った川上孫佐衛門は武士を
捨て横山村に土着、その後裔は代々孫佐衛門を名乗っていた。

江馬家没落時の川上孫佐衛門は江馬家の重臣河上中務亟家の支族に当り宗貞の主人とみる
川上二郎四郎の親族筋になるところから殿参と請取書に宗貞が書き渡したとみるのであるが
この判断は誤りかどうか。
横山の国道沿いに馬場跡が細長い田地として今日みられる。

徳積善太

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この記事へのコメント

タンタン さんのコメント

金山奉行説は、古くからある説のようです(斐太後風土記)。
糸屋彦次郎宗貞は、金森家に功があったから、金森姓を賜ったのだと思います。
その功が何かですが、鉱山開発でははいでしょうか?
『金森史』ではどのように扱っていますでしょうか・
Posted on 2009年09月02日 14:42

rekisy さんのコメント

一部「金森史」では、豪奢に奢れて勝手に名乗ったという説。そのために、二代目の可重に追われたという説もあります。
また、飛騨の各所に「宗貞屋敷」「宗貞洞」などという地名があるところもありますので、鉱山師とする話もあります。
今回掲載した論文は、「商人だった」とする論説を語ったものです。昭和61年の論文です。
Posted on 2009年09月02日 19:11

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