茂住宗貞は商人か?3
横山の孫佐衛門 「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬著(神岡町高原町)」より

(蟹寺城より飛騨中山を望む)
孫佐衛門を著「飛騨国中案内」の横山村の項からみると「村方の肝煎孫佐衛門と云者云々」とあり、
また「横山村に居住す川上孫佐衛門と云者は是は先祖の義江馬の氏族にて百姓ながらも居住の
ところに石垣等上部に築立居候、村より下に馬責馬場杯置候其跡も干今あり云々」
江馬氏は支配地の最北端越中国境に位置す横山村には家臣数名を居住させ越中国からの外的
侵入を厳しく警戒させていたが天正十三年秋江馬家没落此地に在った川上孫佐衛門は武士を捨て
横山村に土着、その後裔は代々孫佐衛門を名乗っていた。
江馬家没落時の川上孫佐衛門は江馬家の重臣河上中務亟家の支族に当り宗貞の主人とみる
川上二郎四郎の親族筋になるところから殿参と請取書に宗貞が書き渡したとみるのであるが
この判断は誤りかどうか。
横山の国道沿いに馬場跡が細長い田地として今日みられる。
徳積善太
(蟹寺城より飛騨中山を望む)
孫佐衛門を著「飛騨国中案内」の横山村の項からみると「村方の肝煎孫佐衛門と云者云々」とあり、
また「横山村に居住す川上孫佐衛門と云者は是は先祖の義江馬の氏族にて百姓ながらも居住の
ところに石垣等上部に築立居候、村より下に馬責馬場杯置候其跡も干今あり云々」
江馬氏は支配地の最北端越中国境に位置す横山村には家臣数名を居住させ越中国からの外的
侵入を厳しく警戒させていたが天正十三年秋江馬家没落此地に在った川上孫佐衛門は武士を捨て
横山村に土着、その後裔は代々孫佐衛門を名乗っていた。
江馬家没落時の川上孫佐衛門は江馬家の重臣河上中務亟家の支族に当り宗貞の主人とみる
川上二郎四郎の親族筋になるところから殿参と請取書に宗貞が書き渡したとみるのであるが
この判断は誤りかどうか。
横山の国道沿いに馬場跡が細長い田地として今日みられる。
徳積善太