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茂住宗貞は商人か?4

富山県の窪田家と所蔵資料 「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬著(神岡町高原町)」より

昭和四十年時、数回庄川町に窪田家を訪れて所蔵の資料を見、当主だった故粂二郎さんから種々
話を伺っていたのでそれを土台に窪田家に就いてみると、粂二郎さんは高岡の川上家に入籍され
ていたが家産が傾むき家計を整理して窪田家に復籍、居を庄川町に移された由である。

茲に永禄年間から続いた由緒ある川上姓が絶えたが、川上家に伝えられていた貴重な資料の
若干がこの窪田に移り家宝として保存されている。牛役の請取書四枚が張り継いて一枚物と
されているが以前は10枚余り斯様な請取書があった由である。
茂住宗貞は商人か?4
東町城代だった川上中務亟俊国を祖とする川上家の系譜一巻、川上中務亟の出陣を描いた
画像を軸物に二本、古位牌、古仏像、加賀藩関係の夥しい文書がみられ当家が慶長十六年
以降高岡に菱屋として加賀藩の御用商人として栄えた家柄であることを十分に物語っている。

茲で当家の系譜等を土台に茂住に在った川上氏に就いてみることにしたい。


茂住に於ける川上の商法とそれを支えた茂住宗貞

余り完全とは言えないが川上家の系譜と野史それに資料を拾い加えて川上氏と茂住宗貞に
就いてみる。
川上家の初代川上中務亟俊国は永禄元年三木氏と組んで川上荘新宮の山田氏を征め降し
この地に築城河上氏が城主となったが、永禄七年夏の江馬家内乱によって輝盛高原の諏訪
城主となった。その期川上中務亟は新宮神社の奉納品であった大般若経600巻と半鐘壱個
を引出物として輝盛に差し出し、東町城の城代に納まり、その後江馬氏越中に進出中地山に
築城、川上氏はこの城代となった。

二代目忠勝、三代目義睦と続き、その長男二郎四郎は天正十三年秋江馬家没落後は金森家の
家老となると系譜にはみられるが、それは余りにも大袈裟で金森可重から河上中務亟宛状の
和佐保山巣鷹おろしについての内容からみて河上氏は中務亟を名乗り金森藩の代官的な役割を
果して居たとも考えられる。
茂住宗貞は商人か?4
慶長八年―10年頃に金森可重が東町村の民家に身をおいて居た輝盛の娘を迎えて側室とした
説があり、また川上縫殿助の娘だと言われるが伝説的な説話に過ぎないが、可重の側室に就いて
は川上中務亟(二郎四郎)も一役担っていたとも相(ママ)像されるがどうか。

「慶長年中飛騨茂住と申所に罷越居住任」と系譜に書かれているが、川上氏が移った茂住の屋敷
は俗に言う宗貞屋敷と考えられる。
城畳のような石垣、広大なこの屋敷は一鉱山師や金山奉行のものではなく、越中国境の要として
江馬氏が築造した出城だと自分は観ておりこの線が崩れない。
屋敷に入った川上氏は多くの使用人を置き、加賀藩領内で購入の物資をこの茂住で商をなし、また
鉱山師への仕送りもしていたが、此川上氏を大きく支えて居たのが宗貞で優れた商才、力量、商人
としての茂住の宗貞があったとみるのである。

徳積善太
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