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徳本上人の美濃教化_その5

生き仏
徳本上人の美濃教化とその足跡を訪ねて
~徳本名号碑などの調査から~    北川雅弘
(岐阜市歴史博物館研究紀要 第15号 平成13年3月31日発行)

「  「同国河渡宿伊十郎むすめ是又上人様をしたひ来りて花も芳りし黒髪を此世をも思ひ
   切りすつほり切て落とせしなり、剃髪ぜん者の御弟子となる、名ハ受教とぞ申ける、見る人
   殊勝あわれに思ひて感涙を催しける、今(文化十二年)ハ西嶋の里にて念仏修行致されける」
 
 萱場・極楽寺は、現在、白菊町三丁目にあるが、かつて西島村にあった尼寺である。
 「西嶋村念仏繁盛致しけり、講頭(武藤)利兵衛なり…」。徳本名号碑(高さ197cm)が門の
右脇に建立されていて念仏講が盛んであった証である。この寺の境内裏の墓地には卵型の
無縫塔(高さ60cm)があり、塔身に徳本名号を刻む。請花の台座正面には「信誉廣空受教法尼」
とあり、受教はこの極楽寺で没している。また裏面の建立者には「河渡宿村木忠兵衛孫」とある。

 この日三人目に剃髪し尼僧となった娘は、
 「同国江崎の里多内がむすめ同上人様江たとり来て柳の長き里髪を浮世のちりに剃すてゝ
  発心善尼となられけり、名ハ智隋とぞ申けり、念仏修業懈怠なく勤らるゝぞ奇特なり。何れも 
  はたちに足らぬ齢にて菩提のこゝろをおこされしハ殊勝至極の事也…」

智隋尼僧のその後の消息は全く不明である。

 「廿五日も早朝より御念仏御勤遊ばされ群集をなして参詣す、ながながと御念仏ありて御説法
  被遊、有かたさいわんかたなし、余念なく只念仏を唱よと呉々の御勧なり。

  廿六日も未明より御念仏御勤め被遊、日増参詣群集する誓願寺の境内広しと雖も人々山を
  なしておひ重る、御上人様拝し奉らんと皆々一命を掛我も我も押込ミける、ここに御火消片一文字
  組の衆中警固し玉ふと雖も容易におさまり申さず…

  廿七日 再三御願ニ付大仏江被為入御聞済被遊、正法禅寺和尚御歓ひひとかたならず表御門
  迄御出迎被成、御上人様直ニ大仏へ御参詣被遊候、暫く御念仏御勤被遊、御開眼被成し也、其節
  正法禅寺境内前代未聞の群集なり…」

 この時の正法寺和尚は惟中の代で、大仏は建立なかばであった。その後の天保三年(一八三二)
四月に完成している。(注11)

 「誓願寺へ御帰被遊、御念仏始り其日の参詣群集とも大群ともたとへる方なし、寺中も勿論大門
  迄入山をなす、兼て大文字組の衆中手分をなして警固し玉ふなり、最早必死に及びし大群集也、
  暫く御門を〆参詣の人をとどめけれハ御上人様何かと思召同行門を開けられよと被仰、たゞちに
  開きける、門外之人々悦ぶと云へども更に這入べき便りなし、皆々門外より御上人様を拝し奉る

  廿八日も早朝より御念仏相始り参詣の人前日にいよいよ増し又々群集をなす、暫く雨天にて広庭
  に敷物等成かたく同行心配しけるに、川原町なる薪屋代助と云へる人殊の外信心者也、此人心得
  たりと人夫を集メ数十車を引かせて暫時の内数多の材木山をなす、本堂の広庭に彼材木を並べて
  手早く板にて椽をかく、たゞちに十間に廿間斗り成るかき出し出来せり、是皆薪屋代助の働きなりと
  申ける

  廿九日 未明には本誓寺へ被為入御小食御供養被成候、本誓寺ニて御念仏并御説法御勤め
  被遊聴聞仕候、いつもながら有かたき御事言語に尽せす

  因幡の法円寺へ御立寄被遊、皆々御供仕又々御説法聴聞致し最早明日御出立被遊候へハ、
  御暇乞ならんと皆々御名残りの泪袖を絞りける

  安楽寺へ被為入御かミそりを頂きける、同行悦ひ限りなし、廿九日夜ハ御上人様の御名残りを
  おしミて誓願寺に於て御通夜申上る」

徳本上人は九月朔日、岐阜町を発ち帰国の途についた。

 「九月朔日(陽暦十月十七日)明方に御出立被遊、矢嶋町筋通行、…又四ツ谷町入口に大勢拝ミ
  奉る、廿九日より上門町渡し御越し被遊候迚、七回町、上門町、十二軒家、四ツ谷町講中外隔
  なく渡し場乗場を直しける。又岩倉村より向ひ川原の石をのけ御道すから直されける
  川岸にハ高張提灯ともし置き、御馳走の御船にハ上門町の節池の上(村)長良(村)まだ夜の
  明ざるうちより上門町渡し場へ打揃ひ皆々御待申上候、船五・六艇にて残しける、両岸にハ数万
  の参詣群集をなし拝ミ奉る、程なく御上人様御出被遊、御舟に召し玉ひける

  御上人様鉦鼓を打玉ひて高声念仏にて渡らせ玉ふ、参詣の人々御名残りをおしミて感涙に袖を
  絞り、因幡御寺かた皆々川岸迄御見送り被成、渡し場にて御暇乞申上て帰られる衆も有り、右
  御門中のうち誓願寺和尚、安楽寺、大仏正法禅寺の和尚三人ハ黒野迄御見送被成

  早田村へ御掛りい被遊候処、道すから奇麗に直しける隣在の御門徒衆中皆々肩衣をかけ拝ミ
  申されける、殊勝なる御事也

  則武新田江御通行被遊候処、則武村同行衆中高張提灯為持裃着用仕候て、追々に御出迎ひ
  申上ける、則武村安養院江御立寄被遊、御念仏有り御説法被遊候由、皆々有かたく聴聞し御供仕

  長良南町弥三八と云へる人ハ至て念仏者也、御上人様御高徳を仰ぎ念仏講を弘めんと志願を
  おこし山県郡村々数ヶ所を巡り歩行き、六・七百人の講中を拵ひ毎日相廻り念仏講勧られける、
  川北にての講頭になられけり其上同所来た町阿弥陀堂をあらたに立てかへられける」

 岩井・延算寺は、真言宗寺院である。県営岩井団地内を流れる岩井川のほとりに徳本名号碑
(高さ160cm)が建立されており、左側面に「文政三(一八二〇)辰二月建之」と刻まれている。
この碑は団地造成前迄は、延算寺の大門跡にあった。

 森・建福寺は、今は無住の寺となっている。御堂の右隣りに真新しい御影石の基壇上に徳本名号
碑(高さ145cm)が建立されている。右裏には「天保十四(一八四三)癸卯正月吉日十方施主」と
刻んである。この碑は平成十年の台風で倒壊したので、森地区の人々に依って基壇を造り整備された。

 世保・清閑寺には、門前からやゝ南の石柱の左脇に自然石に徳本名号碑(高さ185cm)が建立
されている。

 「柿ヶ瀬村則武村境に川(現在の鳥羽川)あり、則武村同行中より板橋をかけられける、夫より
  此橋徳本橋と申ける
  程なく黒野江御着被遊、黒野の名手又右衛門方ニて御十念御授け被遊直ニ古市場村へ御越し
  被遊、名主治右衛門方ニて御十念御授け、…
  此御方至て念仏者なり、天寿院(折立・超勝寺に合併)にて御念仏ありて御説法御勤被遊候、
  寺中江入られ申さす故、垣根の外門の外皆々畑中なとに立なから聴聞致し候

  北方石町西運寺江被為入、同行ハ西運寺の門前の家にて休息す、是にても弁当握りご飯振まい
  被成候間、皆々頂き申候、御説法御勤被遊
  参詣の人々門へ登り垣根へのぼり高塀へ登り目覚しき群集なり、北方始りて大群集いやはや申も
  おろか也

  河渡宿にて御本陣善兵衛方へ御立寄被遊、河渡より御船にて墨俣迄御越し被遊候、墨俣へ漸々
  夜五ツ時過て明台寺へ被為入玉ふなり、明台寺へ御泊り被遊、

  二日未明より御念仏御勤被遊、又々参詣群集をなす、御説法被遊、皆々歓喜の泪に袖を絞る

  竹ヶ鼻の参詣町々家毎に数百人集り拝ミける、道すがら歩行成かたく御駕籠先警固し玉ふと雖も
  多勢に無勢不相叶御上人様御駕籠の戸群集にて押はづし御あやうき御事、漸々と光照寺へ被為
  入玉ひ御斎御供養被成被召上ける、御説法被遊、皆々有かたく聴聞しける人々寺中に余り門外の
  人数万人…」

 竹鼻・光照寺(羽島市竹鼻町新町)には、本堂に向かう参道の右側に御影石の徳本名号碑(高さ165
cm)が建立されている。濃尾震災で倒れたのか大きく割れていて、それをコンクリートで補修してあり、
全文判読し難いが最後に「当山現在降空戒準」と刻んである。

 長間・報恩寺(羽島市上中町長間)の本堂西の無縁塔には、小字の徳本名号を刻んだ小型の墓石
(高さ55cm)と、墓石の中心に徳本名号を刻み、右に「金誉剛心本貞法子」、左に「銀誉金蓮法尼」、
右側面に「弘化三丙午(一八四六)八月十日」と刻んだ墓石(高さ49cm)の二基がある。(図版10)
徳本上人の美濃教化_その5

 長間村は、念仏講が盛んなところで出家者が多く、この墓石の法名の夫婦は、熱心な念仏信者の
講頭で後に出家したものと思われる。

(つづく)

徳積善太
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