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徳本上人の美濃教化_その3

生き仏
徳本上人の美濃教化とその足跡を訪ねて
~徳本名号碑などの調査から~    北川雅弘
(岐阜市歴史博物館研究紀要 第15号 平成13年3月31日発行)

「七、護持の経緯
 徳本上人は、文化五年(一八〇八)から九年にかけて法然上人が隠棲された摂津・勝尾寺
(かつおうじ)の二階堂で念仏や説法に明けくれていた。(注7)

 そのころ岐阜地方には小さい念仏講が数多くあり、その講員が勝尾寺山内の徳本上人の
もとへ何回となく参詣しているうちに、上人の名声が美濃にも広がっていった。

 文化八年正月、この年は法然上人の六百回忌にあたり、美濃・講中総代の天野利兵衛など
が勝尾寺山内の徳本上人(五十三歳)のもとに参詣し、上人から大字の名号を授かった。
天野利兵衛はその名号をもとに岐阜地方に念仏講を広めていった。

 同年三月から天野利兵衛は、徳本上人の名号を中心とした講会を毎月十五日に開くように
した。六月に講頭の天野利兵衛ほか十七人が上人のもとに参詣し、美濃に来てほしいと要請
した結果、八月十七日に出発することが約束された。

 七月に天野利兵衛と治左衛門の二人は、書準備のため勝尾寺山内に参詣し、美濃・講座に
はかり、伊奈波の誓願寺を説法所とし、庵室を極楽寺と決め、早々に誓願寺と極楽寺の修理
と増築を開始した。普請中は毎日四十五人ずつ応援させ、すべて美濃の念仏講が行った。

 八月十一日、お迎えする準備が整い、徳本上人のお迎えに二か寺院と四十一人の信者は
岐阜を出発した。参詣する者は隠居の身であろうが、熱心な信仰心をもち、何よりも体が丈夫
であることが必要であった。

八、天野利兵衛
 徳本上人の美濃招請の中心人物は、美濃・講中総代の天野利兵衛である。西材木町の紙問屋
で文化八年当時五十九歳の身で、隠居していたと思われる。

 美濃教化中の「廿三日、西材木町天野利兵衛先祖の祥月忌日なるに寄て御斎御供養申上度旨、
御願申上候処、講中の発頭なるか故に早速御聞済まし、天野家ハ代々極楽寺檀家なるに依て
先祖の墳墓塔、彼寺に有之候、早速墓所へ御出まし高声念仏にて御回向ましましける、嗚呼有
かたきかな精霊も是が為に輪廻の里を離れ亡魂も是に依て菩提の岸に登るらん有かたきと云ふも
おろか也…」とあり、上人が個人の先祖回向したのは来岐中、天野家のみである。

 また、「廿九日、美江寺大日山観昌院の法印へ護持被致候ニ付、被為人即御斎御供養被遊候、
御斎を召上られ御念仏并御説法被遊、観音の境内群集をなす・・・」とあるのは、天野利兵衛を講頭
とする講が同寺の観音堂をしようしていたことによるものであろう。上人は観昌院の請待に応じている。

 天野利兵衛は、徳本上人に帰依し遂に弟子となり、徳三大徳と称して文化従三年(一八一六)五月に
清泰寺を開基した。
岐阜・清泰寺は金華山ドライブウェイの登り口にあり、もとは小石川一行院の末寺であったと言う。
境内には徳三大徳の石塔や立派な徳本名号碑(高さ142cm)と円筒形の徳本名号二基が現存し、
堂内には徳本上人坐像と徳三大徳の坐像が安置してある。(図版2、3,4)
徳本上人の美濃教化_その3
徳本上人の美濃教化_その3 徳本上人の美濃教化_その3


 天野利兵衛は嘉永元年(一八四八)十月十九日九十六歳の高齢で没した。法号を善蓮者聴誉称諦徳
三大徳と言う。(図版5)
徳本上人の美濃教化_その3

(つづく)

徳積善太
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