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茂住~茂住宗貞の謎について6

茂住~茂住宗貞の謎について6
○敦賀人物誌  昭和三十一年九月二十日発行 著者 敦賀市三島 石井左近

打它宗貞 蓬莱の人、糸屋彦次郎と称し、もと飛弾国吉城郡東茂住の豪民であった。
天正十七年に国主の金森長近に仕え、飛弾国東方鉱山奉行となって、鉱山採石に専念し、
開坑するもの数か所に及んだ。中でも東茂住・和佐保の両山は最も盛んで、鉱坑数百に
及び、諸国から人が集まって数千戸に達したという。領主から姓を賜って金森宗貞と称した。

宗貞の開坑したものは一つとして失敗したものがなく、したがって富有は近郷に並ぶものなく、
威勢は大いに揚がったので、世俗に「神や仏のまねなるけれど、茂住宗貞のまねならぬ」と
うたわれた。
時に領主との間に石の疎通を欠いたので、災の身に及ぶのを恐れ、慶長十二年八月二十
四日に敦賀にのがれてきた。その時金百万両を携えたという。
姓を打它と改め、屋号を糸屋と称した。領主の高極氏(ママ=京極氏)と酒井忠勝に仕えて
敦賀代官となった。福井城主の結城秀以も二十人扶持を給した。

寛永二拾年八月二十二日に年八十五才で没し、永厳寺墓地に葬った。

 宗貞の鉱坑の功績をたたえ、文化・文政のころに飛弾の高山の建金社に霊を祀られた。
宗貞の子の良亭は家を継がないので、領主の忠勝公の仲介で、大津大官の小野宗左衛門の
子を養子とした。家を次いで伊兵衛と合資、則親と称した。」

徳積善太
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